絶望する満月
僕が死んでから1週間が経ったが、「天国」の僕は相変わらず「穴」から満月の様子を覗き込む毎日だった。
僕に前を向かせることをすっかり諦めた母は、朝と晩に1回ずつ僕のところに来て、挨拶代わりに、「随分と愛妻家なのね」と嫌味を言う以外には、あまり僕に絡まないようになってきた。
それは僕の満月観察にとって好都合だったことは言うまでもない。
1週間が経っても、僕の方は相変わらずだったが、満月の方はそうではなかった。
日に日に痩せていき、見るからに弱っていき、ぼーっと物思いにふける時間が増えたのである。
今日に関しては、満月は、目を覚ましていながらも、一度もベッドから出てきていない。律が喚くように泣いているにもかかわらず、である。
「満月、大丈夫かな……」
僕は独り言を言う。
僕が生きている間は、満月は、その名前のとおり、常に明るくて、天真爛漫な子であった。塞ぎ込む場面などほとんど見たことがない。
満月がこのようになってしまったのは、間違いなく、夫である僕が早死にしてしまったせいなのである。
僕は満月のことがとても心配であり、また、満月に対して心から申し訳ない気持ちになった。
満月が最悪の選択をしたのは、その日の夕方だった。
ついにベッドから出てきた満月は、ベビーベッドで泣いている律を抱きかかえると、台所に向かった。
そして、シンクの下の引き出しから、ガスの管を取り出すと、あろうことか、それをハサミで切断したのである。
「おい! バカ! やめろ! 早まるな!!」
ハッとした僕は「穴」に向かって叫んだが、もちろんいくら大声を出しても、「この世」に声が届くわけがない。
満月は、大泣きする律を抱えながら、しゃがみ込むと、そのまま目を瞑って動かなくなった。
満月は、律と、心中を図ったのである。
満月の目から大粒の涙が溢れる。
「私、桔平がいないと生きていけないよ……。桔平待っててね。今行くね」
言わずもがな、僕は、「天国」で満月と律と再会することなど、少しも望んでいない。
僕は、満月には、僕なしでも生き抜いて欲しいのである。
再婚したって構わないし、僕のことをサッパリ忘れてくれても構わない。
とにかく律とともに強く生き続けて欲しいのだ。
そんなものはないとは分かっていつつも、僕は、何か手段はないかと思索する。
なんとかして、死んでいながらも、「この世」に影響力を行使する方法はないかと。
満月は知らないようだが、現代の都市ガスには一酸化炭素は含まれていないし、安全装置もあるため、ガスを吸い込んで死ぬことはできない。
とはいえ、満月と律が安全かというとそうではない。
ガスが充満した状態で、もし何かのきっかけで火が点いてしまえば、大爆発が起きる。
そうなれば、2人は無事ではいられないだろう。
満月には、部屋を換気した上で、一刻も早く部屋から出て欲しかった。
死んだら何もかもおしまいなのである。
生きてればまた希望を見つけられる。
しかし、いくら叫んでも僕の声は満月に届くわけではないし、僕が満月に代わって119番通報をできるわけでもなかった。
僕にできることは、律を抱きしめながら震える満月をただただ見守ることだけだった。部屋が大爆発しないことを祈りつつ。
結果としては、満月も律も無事であった。
なぜなら、満月の「ミス」で、部屋の戸締りがしっかりされておらず、1箇所開けっ放しの窓があったからである。
その窓の近くを通った近隣住民が、ガスの異臭に気付き、警察に通報してくれたのだ。
僕は、満月のおっちょこちょいなところに、このときばかりは心から感謝した。
「危うくみっちゃんと律君もここに来ちゃうところだったね」
事態が収束してから、母が僕を冷やかしに来る。
「よほどの仲良し夫婦なのね。わざわざ天国まで夫に会いに行こうだなんて」
「やめてよ。冗談じゃない」
「本当は桔平もみっちゃんに会いたかったんじゃない?」
「母さん、僕をからかうためだけに来たんだったら、さっさと帰ってよ」
僕は、母に向かって、手でシッシとやる。
「違うわよ。ちゃんと桔平に用があって来たのよ」
「用? 何の用?」
「実はね、神様が桔平のことを探してるのよ。それで神様に頼まれて呼びに来たの」
「神様?」
この「天国」には神様がいる、ということは、なんとなく聞いていた。
もっとも、僕は会ったことも見たこともないし、一体神様がどういう存在なのか分かっていなかった。おそらく相当偉いんだろうくらいの想像はつくが。
「神様ってどういう人なの? っていうか、人じゃない何かなの?」
「さあ。私も初めて見たからよく分からないんだけど、見た目は人だったわ」
「で、その神様が僕ごときに何の用なの?」
「さあ。私は何も聞いてないわ。とにかく行っておいでよ。そこにいる天使が道案内してくれるって」
僕は母が指差した方を見ると、たしかに天使が待っていて、僕と母とのやりとりをじっと見ていた。
天使も初めて見たが、見た目は完全に人間だった。
満月と律は、今、警察に保護され、大きい病院に連れて来られている。ひとまずは、目を離していても平気な状態だろう。
僕は立ち上がると、天使の方へと小走りで向かった。