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乗り込む満月

 職場である法律事務所には、20日間の有給休暇を申請していた。

 この「やり直し」は満月のためのやり直しであるため、満月をフるという目的を果たした僕が、職場に出勤をし続ける必要はなかった。



 そして、僕は、有休を消化し切る前に、死ぬつもりだった。



 しかし、満月が僕のことをなかなか諦めてくれず、僕の「監視期間」が想定よりも長くなってしまったがゆえ、僕は有休消化期間までに死に損ねてしまった。


 そこで、やむなく僕は出勤せざるを得なくなってしまった。

 なお、ほとんど全財産を満月に渡してしまった僕には、退職するという選択肢はなかった。


 働くこと自体は嫌いではない。むしろ気晴らしにさえなる。


 しかし、僕が心配していたのは、当然に僕の職場を把握している満月が、事務所まで僕を説得しに来ないかということだった。



 その心配は、しばらくは杞憂だった。

 満月の方も、職場にまで押しかけるのは見苦しいと思っていたのかもしれない。




 しかし、「宣戦布告」の翌日の昼、赤い鍋を持った満月が、ついに法律事務所に現れた。


 たしかにLINEのメッセージは、「桔平、私の肉じゃがを食べて!!」であって、「食べに来て!!」ではなかったが、その含意に気付けていなかった僕には大きな不意打ちだった。



「桔平、そろそろお昼休憩でしょ!! 私の肉じゃがを食べて!!」


 受付で目を丸くしている僕に、満月は鍋を突き出してくる。

 約50日ぶりに見る満月の顔をしみじみと観察している隙などなかった。


 時計を確認すると、休憩時間までまだ2分ほど時間がある。



 作業場にいる弁護士先生と目が合う。

 彼には「満月とはもう別れた」と伝えていたから、「痴話喧嘩は他所でやってくれ」という冷たい目が僕に向く。

 全くもって同感である。



 僕は、取り急ぎ、満月を相談ブースへと案内した。


 満月は大人しく従った。



「満月、婚約破棄をしたはずなんだけど」


「分かってる。だから、この肉じゃがを食べて美味しかったら、婚約破棄を取り消すって約束でしょ」


「そんな約束した覚えないんだけど」


「いいから食べて」


  満月はテーブルの上に置いた鍋の蓋を開ける。中には美味しそうな肉じゃがが入っていた。色も綺麗な薄茶色で、具材も程よい一口大に切り揃えられている。


 満月の作った肉じゃがに見とれている僕の鼻先に、満月が箸を突き出す。



「美味しそうでしょ? 食べて?」


「お皿はないの?」


「忘れちゃった。でもいいでしょ。直箸で」



 そこには異論はないが、僕は首を横に振った。



「満月、そういうわけにはいかないんだ」


「なんで?」


「僕と満月はもう他人同士だからさ」


「そんなことない」


「でも、婚約破棄したでしょ」


「婚約してようがしてまいが、付き合ってようが付き合っていまいが、そんなの関係ないよ。私にとっては、桔平が一生大切な人なの」


「僕がもう満月に興味がないとしても?」


「うん。それでも私にとっては、桔平は大切な人」


「そんなのただストーカーじゃん」


「桔平も苦労が絶えないね。ヤバイ女に好かれちゃうと」



 僕はどうしていいのか分からなかった。


——いや、本当はもう分かっている。


 今までの僕の判断は間違っていて、僕は新たな判断をしなければならないことを。


 ただ、僕にはその勇気がなかった。それが本当に満月にとって最善なのか、僕はその責任をしっかりと果たせるのか、自信がなかったからである。



「ねえ、桔平、とりあえず一口食べてみてよ」


 満月が、箸で掴んだお肉を、僕の口へと運ぼうとする。



 その「とりあえず一口」がきっと取り返しのつかないことになる。

 ここで僕が満月の肉じゃがを食べてしまえば、僕はもう後に引けなくなってしまう。本当にそれでいいのか。これ以上僕の人生に満月を巻き込んでしまっていいのだろうか。



 僕には、一歩を踏み出す勇気がなかった。



「満月、ごめん。どうしても食べられない」


「桔平……」


「お気持ちだけはいただいておくよ。ありがとう。もう帰って」



 満月はしょんぼりとしながら、箸をカバンにしまい、鍋の蓋を閉じた。



「桔平、私、ずっと待ってくるから。桔平が家に帰ってくるのをいつまでも待ってるから」


 そう言い残して、満月は事務所を去った。



 満月の背中を見送りながら、僕は、案外あっさりしていたな、と思う。


 満月はもっと意固地になって、僕が肉じゃがを食べるまで事務所に座り込みをするのではないかと思っていたからだ。

 だから、こんなに素直に帰宅するなんて、なんだか拍子抜けだった。

 もしかすると、満月は、僕の心の揺らぎを読んでいて、満月が無茶をしなくても、僕が近いうちに家に帰ってくることを確信しているということかもしれない。



——いや、待てよ。まさか——



 あることを思い出した僕は、相談ブースへと戻り、先ほどまで満月が座っていた椅子の上を確認した。



——やっぱりか。



 そこには、満月が「わざと」忘れたスマホが置かれていた。


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