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12/20

すがりつく満月

 10月30日の朝を、僕はベッドの中で一睡もできないままで迎えた。



 僕は知っている。


 一睡もできずにいたのは、満月も同じだったことを。


 同じ布団にくるまっているのだから気付かないはずがない。


 しかし、僕は気付かないフリをして、満月に話しかけるようなことはなかった。


 それは満月も同じで、僕が起きていることには気付いていたはずだが、一言も話しかけてくることはなかった。



 昨日の僕の態度に触れた満月が、今日がどんな日になるのかを分かっていないはずがなかった。

 だから、満月は恐れていたのだ。夜が明け、絶望の朝がやってくることを。



 それは、僕も同じだった。できればこの朝は永遠に来て欲しくなかった。




 満月との関係は、昨日からずっと険悪だった。


 昼間は満月はずっと寝室に籠もったまま出てこなかった。おかげで僕の「身辺整理」はこの上なく捗った。


 そして、夜も、僕が手に塩をかけて作った料理に、満月はほとんど口を付けなかった。

 メニューは最終日のためにとっておいたハンバーグ——満月の一番の大好物だったにもかかわらずである。




 日曜日の朝は、僕が満月より少し早く起きて、コーヒーを淹れて、満月が起きてくるを待つことが定例となっている。


 コーヒーを沸かした僕は、戸棚からマグカップを取り出す。


 白い小さなマグカップである。この満月愛用のマグカップは、僕と同棲するよりもずっと前から、中学生くらいの頃から使っていたものらしく、今はその面影も残されていないが、元々は花柄がプリントされていたとのことだ。


 満月は、物の扱いが雑な割には、不思議と物持ちが良い。仕事で使っているペンケースも高校生の頃からずっと使っているとのことだ。


 もしも僕に心臓の「持病」さえなければ、満月は僕のことも末長く愛してくれたことだろう。


 実際に2年間の結婚生活において、満月の愛が絶やされることはなく、僕は常に満月の愛に包まれていた。


 思い返せば思い返すほど、幸せな結婚生活だったと思う。


 不満なんてこれっぽっちもないし、むしろ、何度生まれ変わっても満月と結婚したいと思う。



——それなのに。



 僕は、マグカップにゆっくりと、そして丁寧にコーヒーを注ぐ。


 これが満月に淹れる最後のコーヒーとなる。

 寝室から満月をおびき出すためのコーヒー。

 いつもならば、満月ととりとめのない話をしながら、ゆったりとした午前のひとときを過ごすことが、僕がコーヒーを淹れる目的だった。



 しかし、今日は違う。



 僕は、満月をコーヒーでおびき出し、別れ話を吹っかけようとしているのだ。



 マグカップに黒い液体が溜まっていくのを見ながら、まるで毒でも混入しているかのような気分になった。




 コーヒーの匂いを合図にしてすぐにやってくるはずの満月が、この日はなかなか現れなかった。


 もしかすると、昨日同様にずっと寝室に籠もろうとしているのかもしれない。



 僕が寝室のドアを叩いてもしばらくは反応はなかった。




 3分くらいしてようやく部屋から出てきた満月は、まるで病人のようだった。



 目の焦点は定まらず、顔色も真っ青である。言うまでもなく、寝不足ではここまではならない。


 糸が切れたようにストンと椅子に落ちた満月は、遠い目でコーヒーの表面をずっと眺めていた。



「満月、調子悪いの?」


 僕が問いかけても、満月は何も答えない。それどころか、蝋人形のように微動だにしない。



「ねえ? 満月、聞こえてるの?」


 やはり満月は何も反応しない。


 おそらく、あえて僕のことを無視しているのだ。

 満月は、僕が一体何のためにコーヒーを淹れ、満月を待っていたのかを理解しているから。

 僕が一体何を言おうとしているのかを理解しているから。



 できるものならば、僕だって言いたくはない。


 僕には満月の気持ちが痛いほどよく分かる。満月が僕を愛していて、僕のことをずっとそばに置いておきたいと考えていることだって分かっている。



——しかし、それは僕も同じなのだ。僕は満月を愛している。心から愛している。



 だからこそ、今、言わなければならないのである。



「満月、大事な話があるんだ」


 僕が切り出すと、満月はゆっくりと顔を上げる。



「……桔平、今日は何の日か分かってる?」


「……ああ、もちろん。だから、今日話さないといけないんだ」


「桔平、市役所には何時頃に出掛けようか? お寿司の予約は夕方からだよね?」


「満月、僕の話を聞いて欲しい」


「市役所に行く前に婚姻届にサインをしなきゃいけないよね。婚姻届、まだ桔平が持ってるんだっけ?」


 満月が意図的に話を逸らそうとしていることは明らかだった。満月は、僕の「大事な話」の内容にすでに気付いているのだ。


「満月、僕との婚約を……」


「嫌だ」


「え?」


「私、今の桔平とは何も話したくない」


 満月は立ち上がると、回れ右をして、また寝室へと戻って行こうとした。


 僕も立ち上がると、満月の腕を強く掴む。



「痛い。桔平、乱暴しないでよ」


「満月、大事な話なんだ。ちゃんと聞いて欲しい」


「嫌だって言ってるじゃん」


「なんで?」


「今の桔平はおかしいから。正気じゃない」


 満月は僕の手を振りほどこうと、腕をバタバタさせる。



「僕は正気だよ」


「正気じゃない」


「……満月、婚約を破棄して欲しい」


「……ほらね。正気じゃないじゃん」


 身体を寝室の方へと向けたまま、満月が首だけを動かし、僕の方を振り向く。


 意外なことに、別れの言葉を聞いたにもかかわらず、満月は泣いていなかった。


 とはいえ、華奢な身体は小刻みに震え続けている。


 満月は、泣くのを必死で我慢しているのだ。


 僕の思いどおりに事を運ばせないために、今は泣いている場合ではないということを満月は理解しているから。



「桔平、多分疲れてるんだよ。心も身体も。だから、今は少し休みなよ。結婚は今日じゃなくてもいいよ。桔平が回復したらで」


「違う。満月、僕はいたって健康なんだ」


「桔平は自分で気付けなくても、私には分かるよ。桔平がちょっとおかしくなってること。私が誰よりも桔平のことをよく分かってるから。だから、結婚は延期ね。私、いつまでも待つから」


「違う。僕は、金輪際、満月と結婚するつもりは一切ないんだ」


 満月はもう限界だった。


 その場で崩れ落ちると、満月は、床に突っ伏して泣き始めた。オウオウと悲痛な声を上げながら。


 20日前からイメージトレーニングはしていたが、実際に泣いている満月を目の当たりにしてしまうと、そんなものは少しも役に立たなかった。


 心の痛みは身体の痛みよりも辛いというのは本当だ。いっそ殺してくれと思う。



「……ねえ、桔平……教えて……」


「……何を?」


「……私が馬鹿なだけだったの?」


「……どうして?」


「私、桔平が、私と結婚してくれると思ってた。……それは私が馬鹿だったから?」


 そんなわけはない。神様が間違えて僕に心臓病を設計すらしなければ、僕と満月は結婚して、死ぬまで一緒にいるつもりだった。



「結局、私ごときじゃ桔平のお嫁さんは務まらないっていうことだよね……。どうしてこんなことになるまで気が付かなかったんだろう。私、本当に馬鹿だよね。恥ずかしい」


 やめてくれ。そうじゃないんだ。満月には何の落ち度もないんだ。



「桔平には、私なんかよりももっとふさわしい女の人がたくさんいて、私みたいなダメ女じゃ桔平に釣り合わないんだよね」


「違う」


「じゃあどうして?」


 振り返った満月の赤い目が僕をまっすぐに捉える。

 


「じゃあどうして? どうして桔平は私と別れたいの? 私のことが嫌いなんでしょ?」


「嫌いじゃないよ」


「正直に言って」


「嫌いじゃない」


「じゃあ結婚しようよ。一緒に幸せになろうよ」


「……ごめん。それはできない」


「どうして」


 満月が再び泣き崩れる。

 どうしてどうして……と繰り返しながら。



「ごめんね。満月には何の落ち度もないんだ。悪いのは全部僕だから。今日まで言い出せなかったことは反省してる。もっと早く言えば良かったのに」


「そんなのどうでもいいよ……私は桔平と結婚したい……それだけだから。ねえ、桔平いいでしょ?」


 満月は、覆いかぶさるようにして、僕に抱きついてきた。

 満月の目から落ちた涙が,僕の頬を冷たくさせる。



「ねえ、桔平、私と結婚しようよ? ねえ、いいでしょ? いいって言ってよ」


「……ごめん。それだけはごめん」


「私、桔平のためなら何でもするから。頑張って良いお嫁さんになるから」


「……ごめん。本当にごめん」

 


 僕は満月の腕を振りほどくと、寝室に戻った。


 昨日のうちに準備していたリュックサックを背負うと、すがるような目で僕を見上げる満月の横を通り、玄関へと向かう。


 結局、どんなに言葉を尽くしても意味はないのだ。


 この結論を満月が納得してくれるはずがないし、僕だって全然納得をしていない。心から理不尽だと思う。



 ただ、今の満月には分からないとしても、少なくとも2年後の満月にとっては、これが一番マシなストーリーなのだ。

 僕との結婚は、夢の豪華客船のように見えて、実は底に大きな穴の空いた泥船なのである。


 このまま満月を乗せ続けるわけにはいかない。



 僕は床と一体化したまま立ち上がることのできない満月に対して、最後の一言を告げる。



「満月、絶対に幸せになってね」



——バタン。


 玄関のドアを閉める音で、僕と満月との関係は終わった。


 とはいえ、満月の泣き声は、家の外まで響いてきている。



 僕は、満月の泣き声が聞こえない場所まで歩くと、路上で崩れ落ち、満月に負けないくらいの大声で泣き叫んだ。


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