表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/20

不審がる満月

「ねえ、桔平、いつまで寝てるの!? 早く起きてよ!!」


 ベッドの上で毛布にしがみついている僕の身体を、満月が激しく揺さぶる。



「……なんで? 今日は土曜日だよね……」


「そうだけどさ! ねえ、桔平、見てよ!!」


「どうしたの?」


「いいから見て」


 目をこすり、重たい瞼を持ち上げ、満月の指差す方を見る。



 しかし、そこには特段何かがあるわけではなかった。



 僕が再び目を閉じると、満月が、先ほどよりもさらに激しく、僕の身体を揺さぶる。



「だから何?」


「見てって!」


「何もないじゃん。ただ壁があるだけで」


「壁にかかってるカレンダーを見て欲しいの!」


 たしかに壁にはカレンダーが掛かっている。


 裸眼だと視力がだいぶ落ちるのだが、僕は目を細めてカレンダーを見る。


 しかし、異変は見つからない。



「……いつものカレンダーだけど」


「なんでそんなに反応薄いの!?」


「いや、寝起きだからさ」


「もう!」


 満月は、毛布越しに僕の身体をぶつ。



「いてて……それで満月、カレンダーがどうかしたの?」


「『どうかしたの?』じゃないよ! 入籍まであと1日しかないんだよ!」


「ああ」


「『ああ』じゃないよ! もっと喜んでよ!」



 満月の指摘するとおり、入籍予定である10月30日まで、ついに残すところあと1日となった。


 ルーティーンワークの苦手な満月も、毎朝起きると同時にカレンダーにバッテンを付ける作業だけは欠かさず、それどころか、これが1日の最大の楽しみだと言わんばかりに、ニヤニヤしながらマジックでキュッキュとバツを書いていたのである。



 僕の気持ちはといえば、満月とは完全に反比例していた。


 バツが増えれば増えるほど、満月との別れが近付くことを僕は知っている。


 10月30日に、僕は満月に婚約破棄を伝えることを心に決めていた。


 婚姻届を出しに行ったら、そのままの足で六本木の回らないお寿司屋さんに行こうなどと事前に約束していたのだが、そのお寿司屋さんの予約は満月に内緒ですでにキャンセル済みである。

 これ以上ズルズルと満月との関係を続けてしまわないように、あえて退路を絶ったのだ。



「だからと言って、こんな時間に僕を起こすことはないんじゃない?」


 ベッドから起き上がった僕がスマホで時間を確認すると、時間はまだ朝の8時であった。


 普段、土日は、僕も満月も基本的に10時くらいまで寝ている。



「独身最後の日なんだから、デートしようよ! スカイツリーの水族館!」


 思い出してみると、たしか2年前の今日も同じように満月に朝早く起こされ、同じように水族館デートに誘われたのであった。

 そのときは、僕も乗り気で、2人で仲良くスカイツリーに行き、ペンギンなどを見に行った。


 ただ、今の僕は少しも乗り気ではなかった。



「独身最後の日なんだから、独身を楽しんだ方がいいんじゃない?」


「どういう意味?」


「自由に一人でお出掛けしてみるとか」



 案の定、満月は不服な顔をする。


 そして、ドキッとするようなことを僕に言ってきた。



「桔平、なんか最近、私に冷たくない?」


「え?」


「私、最近の桔平は変だと思う。なんか私に隠し事をしてるというか……」


 普段はぼーっとしているように見えて、満月にもちゃんと勘が働いていたようだ。

 いや、僕の態度の変化があまりにも露骨だったということかもしれない。そのことは十分に自覚している。



 カミングアウトするには絶好のシチュエーションだと思う。



 実は君と別れたいのだ、と。



 しかし、僕は取り繕っていた。



「そんなことないよ。何も隠し事なんてないよ」


「でも、桔平、最近、私が目を合わせても急に反らすし、それに、その……」


 満月は口をモゴモゴさせたが、満月が何を言いたいのか、僕にはすぐに分かった。



 夜の営みのことである。



 蘇って以降、僕は一度も満月を抱いていない。



 そういう気が起きない、というわけでは決してない。

 むしろ、ダブルベッドの隣にいる満月がモゾモゾと動き、柔らかな身体が触れ合うたびに、僕は満月を抱きたい衝動に駆られた。



 しかし、僕にはその資格はなかった。



 結婚すると偽って、それを餌にして満月の身体を支配するのだとすれば、それはレイプと何も変わらない。

 僕が満月を穢してしまうだけだ。


 ゆえに、僕はずっと我慢をしていたのだ。



「ごめんね。最近、あまり体調が良くなくて」


「大丈夫? 土曜日にやってる病院を探そうか」


「そこまでじゃないんだけど」


 満月が再び怪訝な目を僕に向ける。満月を騙し続けるのももうそろそろ限界だろう。


 ただ、今日はまだ終わらせたくない。


 心の準備ができてない。



 そして、準備ができてないのは心の方だけではなかった。



「満月、今日は、大掃除をするよ」


「大掃除? なんで突然? まだ年末じゃないよ?」


「年末じゃないけど、僕と満月にとっては今日は大きな区切りでしょ。新たな人生の門出なわけだから」


「うーん、分かるような分からないような」


 それはそうだ。僕自身、一体僕は何を言っているんだろうかと思う。


 僕が「大掃除」をしたい理由は別にある。単に身辺整理がしたいのだ。


 明日には僕はこの家を出て行くのだから。



「家を綺麗にして新生活を迎えるのは悪くないでしょ?」


「そうだけど……」


 片付け嫌いの満月が難色を示すことは十分に予想できた。


 ただ、その理由は少し違っていた。



「桔平、私、今日はどうしても桔平とデートがしたいの」


「……なんで?」


「そう決めてたの。独身最後の日は、デートをするって」


「意味分からない」


「桔平ほどじゃないよ」


「いや、だって……」


 満月の目を見てしまった僕は、言葉に詰まる。


 満月の目は真剣そのものだった。


 満月は分かっているのだ。

 

 僕が、何か良からぬことを考えていて、わざと満月と距離を取ろうとしていることを。


 だからこそデートにこだわっているのだ。


 僕との今までの距離感を保つことに。



「ねえ、桔平、お願い」


 「分かった」と思わず応じそうになるところを、僕は必死でこらえる。


 ここで満月のペースに乗せられているようでは、明日婚約破棄を言い出すことなんて到底できない。


 ここで満月のご機嫌取りしても意味がない。そんなものはすべて明日で帳消しになるのだから。




 僕は、満月を無視して、そのまま寝室から出た。



 満月から気を反らすために、僕は蛇口をひねり、流しのお皿に手を掛ける。


 洗い物を残しておいて良かったと心から思う。


 なぜなら、寝室からは満月が咽び泣く声が漏れており、水の音がなければそれを掻き消すことができなかったからだ。



 これでいいのだ、と僕は僕を納得させる。


 明日、僕はすべてを終わらせるのだ。


 きっと満月は大泣きする。


 だから、今から満月を泣かせることに慣れておいた方がいい。


 満月だって、青天の霹靂よりは、前日からどんより曇り空の方が心の準備ができて良いだろう。



 同時に、もう後には引けなくなったな、とも思う。


 たとえば、入籍を延期し、ダラダラと今の生活を続けるとか、そういった甘い考えを持つことはもう許されない。



——これでいいのだ。


 僕は正しい選択をしたのだ。



 流しの水道は、満月の咽び声を掻き消すと同時に、僕の涙もそっと排水溝へと流してくれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ