策を練る満月⑶
「満月が桔平君と結ばれたのは、2日連続で置き忘れをしたからなんだろ? 満月は自分のだらしなさに感謝しなきゃな」
満月の父親が、ガハハと笑う。
普段は大声で笑う人ではないので、アルコールの影響があることは間違いない。
「2回目はわざとだもん」
満月がぷくぅと頬を膨らます。
公園のベンチにポシェットを置き忘れたのはともかく、法律事務所にスマホを忘れたのは故意だった、というのが、満月の一貫した主張であった。
「桔平を外に連れ出したくて、わざとスマホを机の上に置いたまま事務所を出たの」
「そんなわけないよなあ。なあ、桔平君」
義父に意見を求められた僕は、正直に答える。
「本気で忘れたんだと思います」
そう思うのには根拠がある。
僕が後ろから肩を叩いたとき、満月は驚いた表情を見せたのである。あれが演技だったとはとても思えない。
他方、たしかに僕がスマホを差し出したとき、満月は、「わざとですよ」とは言ったが、その前に考える間があった。満月はカッコつけようとしたのだと思う。置き引き被害にあった直後にまた貴重品を置き忘れるようなだらしない女ではない、とアピールしたくて、「わざとですよ」と嘘を吐いたのだ。
「桔平、私を裏切るの!?」
「裏切ってるわけじゃないよ。ただ、事実は事実だから」
「その事実を一番よく分かってるのは私だと思わない? 私が張本人なんだから」
「でも、嘘を吐く動機があるのは張本人しかいないよ」
「みっちゃんは、いつから桔平君のことが好きだったの?」
僕と満月の水掛け論の応酬に終止符を打つべく、交通整理を試みたのは満月の母親だった。
よくよく考えてみると、このことは僕も一度も聞いたことない。
スマホを渡した後に入った喫茶店で、最初のデートの約束を交わしたことから、少なくともその時点では相思相愛だったのだとは思うが、一体いつから満月は僕に好意を抱いていたのだろうか。
一体満月は何と答えるのだろうか。僕はドキドキする。
しかし、満月の方は、何事もないように、
「会った瞬間に決まってんじゃん」
とサラリと答えた。
「会った瞬間にビビッと来たの。この人が運命の人だ、って」
「警察署で?」
「うん。ロマンスのはじまりは場所を選ばないんだよ」
これも「2回目はわざと」同様に嘘臭い話である。
仮に僕がとてつもないイケメンである、というようなことであれば、満月が一目惚れするようなこともあろうが、そんなことはない。
むしろ僕は外見より内面で勝負しなきゃいけないタイプなのだ。
「僕のどこに一目惚れする要素があるわけ?」
「全部」
満月に褒められるのは嬉しいのだが、同時に、僕は少し寂しさを覚える。
要するに、満月は惚れっぽい性格だということだ。
きっと僕と別れた満月は、たいしてカッコよくもないような男に、同じようにビビッと来て、すぐに一緒になってしまうのだろう。
義母の考えは僕とは違うようだった。
「みっちゃん、男を見る目だけはあって良かったわね」
「だって、ママの娘だもん」
「パパよりも桔平君の方がいいわ。私」
「おい。それは聞き捨てならないな。満月の婚姻届の証人欄だけじゃなく、俺らの離婚届にもサインするか?」
この義父の発言で、僕は今日の食事会の目的を思い出した。
満月も同じだったようで、カバンの中から婚姻届を出すように、僕に目で合図をする。
満月の合図を無視するわけにもいかず、僕はカバンを開け、クリアファイルを取り出す。
そこには綺麗に半分に折りたたまれた婚姻届が入っていた。
「わざと」家に忘れておけば良かったかな、と今更ながら僕は後悔する。
満月が、婚姻届をクリアファイルごと僕からふんだくる。
そして、それをクリアファイルから取り出し、広げると、まずは義父に正対する向きでテーブルの上に置いた。
「パパ、私、お嫁に行くね」
「寂しくなるな」
「大丈夫。年末年始とか、お盆とか、頻繁に実家に帰るようにするから。赤ちゃんができたら赤ちゃんも連れて」
「パパもついにおじいちゃんになるのか」
「まだ予定はないけどね」
クスクス笑う満月に対し、義父は堪えきれずに目から一筋の涙を流していた。
僕は、その光景を一体どのツラ下げて見ていれば良いのかが分からず、思わず下を向く。
「満月、父親にとって、一人娘がどれだけ可愛いか想像できるか?」
「分かるよ」
「本当か?」
「だって、パパは私のことをたくさん可愛がってくれたもん」
「そんなもんじゃない。もっともっと可愛いんだ。満月が思っている100倍、いや、1000倍くらいに。だから、このときがずっと怖かった。満月が嫁いでしまうのが」
「大丈夫。結婚したって私は私で、パパはパパだから。今まで通り、私はパパにたくさん甘えるからさ……。それとも、パパは私と結婚したかった?」
「……もちろん。ただ、完敗だよ。ママの言う通り、俺は桔平君に勝てないからさ。満月の結婚相手は桔平君しかいないよ。……桔平君」
「はい」
義父から名前を呼ばれた僕は、咄嗟に返事をしたものの、義父と目を合わせることはできなかった。
「たしかに満月は不器用だし、要領が悪いところもあるが、俺にとっては自慢の娘なんだ。桔平君は、満月のことをどう思う? 最高だと思わないか?」
「思ってます。最高ですよ。満月は」
これは紛れもない僕の本心だ。ただ——
「だろ? ……良かったよ。満月のことをちゃんと分かってる人に満月を任せられて。俺にはもう他に言うことはない。桔平君、満月のことを末永くよろしくな」
僕が肯定も否定もできないでいるうちに、義父はペンケースの中からボールペンを取り出し、証人欄に署名をした。
そして、用紙に印鑑を押し付ける。
満月に対する想いをギュッと込めるように。
義父がゆっくりと印鑑を持ち上げると、かすれることもずれることも一切なく、赤い印がくっきりと残されていた。
気付くと、満月も泣いていた。
それでも、満月は、涙さえも飾りに見えるような満面の笑みを父親に送った。
「パパ、ありがとう。私、絶対に幸せになるから」
テーブルに突っ伏して泣き崩れる義父の背中を、満月がゆっくりとさする。
このあまりにも美しい光景を、こんな特等席に座って眺める権利は、僕にはない。
罪悪感のあまり吐きそうになる。
一体僕は何をしているのだ。
人を騙し、人の感情を弄んで、高みの見物しているだけじゃないか。
今日の食事会をキャンセルしなければこうなることは分かっていたはずだ。
なぜキャンセルしなかった。
なぜ今日に至るまで満月を、そして満月の家族を、僕の下らない未練に巻き込んでしまっているのか。
「ママ、私、お嫁に行くね」
気付くと婚姻届は、義父から義母へと渡っていた。
「みっちゃん、子どもは早く作るのよ。あんたももうそんなに若くないんだから」
満月は、僕より2つ年上で、現在30歳である。
「そうだね。3人は欲しいな。子ども」
付き合い始めた頃から、子どもがたくさん欲しいということを満月はよく言っていた。満月自身は一人っ子であるから、一体いつどこで子沢山家庭に憧れたのかどうかは分からない。むしろ一人っ子で寂しさを味わった反動ということなのかもしれない。
「じゃあ、早く子作り始めないとね」
義母は僕の方をちらりと見る。
2年後に死ぬ僕にはできっこないことを期待して。
僕は笑ってごまかす。
「みっちゃん、桔平君に頼りっぱなしじゃダメよ。仕事だけじゃなく、家事もちゃんとするのよ」
「分かってるよ」
「桔平君に愛想を尽かされないようにね」
義母の目が僕の方へと向く。
「桔平君、みっちゃんをお嫁さんにするとすごい苦労するわよ。ほぼ赤ちゃんみたいなもんだから」
義母の言わんとすることは分からなくもないが、僕は大きく首を振る。
「そんなことありません」
「桔平君は優しいから。……私、みっちゃんには桔平君しかいないと思ってるの」
「そんなことありません」
「桔平君と出会ってから、みっちゃんは変わったと私は思う。こう見えてみっちゃんって結構根暗だからさ。私にはいつもネガティブなことを言ってて。でも、桔平君と出会ってからみっちゃんはよく笑うようになったし、暗い表情をすることがなくなった。自分に自信を持てるようになったというか。きっと桔平君がたくさんみっちゃんのことを褒めて、みっちゃんのことを励ましてくれてるからだと思う。家事とかの日常のサポートもそうなんだけど、それだけじゃなくて、桔平君はみっちゃんの全部を支えてるの。みっちゃんは桔平君と一緒じゃないと幸せになれないのよ」
「……そんなことありません」
謙遜しているわけではない。
本当にそんなことはないのだ。
僕のやってきたことは、すべて、満月の行動に対するリアクションに過ぎない。
空っぽの僕に中身を与えてくれるのが満月であり、僕が満月に対してしていることは、僕がしてあげているのではない。
満月が僕にそうさせているのだ。
僕を支えている、なんてもんじゃない。
僕を作り上げているのが満月なのである。
だから、本当は僕の方なのだ。僕が満月と一緒じゃないと幸せになれない。それなのに——
「桔平君、みっちゃんをよろしくね。いつまでも愛想つかさないであげてね」
僕が満月に愛想を尽かすことなんて、金輪際、絶対にありえない。ただ——
僕には何もできない。
子どもが3人欲しいという満月の夢を叶えることも、満月のそばに居続けることも。
満月の母親が婚姻届に署名押印をする様子を、僕は遠い目で眺めていた。
僕には何もできない以上、婚姻届を取り上げ、署名押印をするのを止めるべきなのだろう。
しかし、それすらも僕にはできなかった。




