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選ばれた男 1話「命令」

昨夜の雨のせいで、地面が少し湿っている。

アカマツの道から、ブナの森の辺りまで少し追い上げようか。

僕が角笛を吹くと、アラカシとヤマダヌキが角笛で答えた。

獲物は必死に逃げながら、しかし僕たちの罠へと向かっている。

まだバレてはいない。おそらく若いオスの山イノシシだろう。メスの匂いに釣られ、見知らぬ森に入ったのが間違いであった。

腐れ皮(イノシシの脂身を少し残した臭いのきつい革)を被ったカバノキは南の斜面から、網を持ったヤマタヌキが東の尾根から、そして止め槍を持ったアラカシが北より追い詰めている。

僕はブナの森に駆け上がった。まだ新しいタイヤのサンダルは、濡れた枯れ葉の道でも滑ることはない。父の戦利品であった。

山イノシシの吐くような呼吸が聞こえる。これで二刻(二時間)は追っているだろう。そろそろ僕の出番だ。村一番の永足(長距離走り続けられるという意味)の名に恥じぬようにせねば。

ふと妻と子の顔が浮かんだ。



醜女ブナを回った。

アラカシの角笛が響く。槍を外したようだ。やはり罠にするか。

アラカシより獲物は西へ向かったとの合図が来た。大熊岩の罠で仕留めるか。僕が合図を送り、罠へ最後の追い込みを行う。

激しい吐息、そして黒い影が見えた。

僕の姿を見て、山イノシシは北へ進路を変えた。アラカシが吠える。

驚いた山イノシシは、一瞬躊躇した。足が交差し、横面を僕に向けた。

僕は短槍を投げた。首筋にスッと吸い込まれた。急所は外したか。

狂ったように山イノシシはまた駆け出した。

そして槍穴へと落ちた。


「くそ、外したか」

僕は穴の中で竹槍に突き刺された山イノシシを見下ろした。

「やったか」と駆けつけたアラカシが言った。

「罠がやったよ」

「ははは。そりゃ惜しいことしたの。心臓はワシがもらう」

僕はアラカシに手を貸した。アラカシは穴を降り、ナイフで山イノシシにとどめを刺した。血が空を舞う。

今日の狩り兄はアラカシだ。あの槍が首の骨に当たっていれば、心臓は僕のものだったのに。

カバノキとヤマタヌキも合流した。

山イノシシを引き抜き、村へと運んでいった。

「コシザルは罠をこしらえて帰れ」とアラカシが言った。

アラカシは山イノシシの鼻を削ぎ、目の前のブナの木の枝に供えた。



村に帰ると、山イノシシはもう皮を剥がれ、足を切り落とす準備がされていた。

ババ達は皮の脂身を取り、女たちは米を炊き、子どもたちは尻尾を取り合って喧嘩していた。

「息子よ。首尾はいかに?」

「父上、帰っておりましたか」

何ということだ。

「槍のことは良い。足の事を聞いておる」

「いやいや、フトエダ様、コシザルの足のおかげですよ」

手に山イノシシの足の健をぶら下げたアラカシが言った。借りができてしまった。

「明日には御山よりサムライが来られる。村のためにも、お前が選ばれることを楽しみにしている」

「はあ、そうなればよいのですが」

「ははは、まあすべてはスサノオ神のお気持ち次第ということだ。おっと。そうだそうだ、これは土産だ」

父上は靴を取り出した。大陸の軍靴だ。

「あ、ありがとうございます!」

「血が付いておるが、側は使えるだろう」



僕は家に走って帰った。

「おかえりなさいませ」

「帰った。坊主は?」

「これに」

坊主は眠っていた。これは都合が良い。

「狩りはどうでした?」

「ああ、止め槍は外したが、取ったのは取ったよ。それよりこれだ。靴だ」

僕は靴の靴底を剥がし、靴の側面をタイヤサンダルに馬の尾の毛で縫い付けた。

「大陸の靴は素材が良い。濡れても乾きやすいし、なんせ軽い」

「まあ、子供みたいだこと」

サムライが来ることを考えながら、僕は靴を縫い続けた。



「コシザルの兄、肉を取りに来いよ」

ヤマダヌキが肉の取り分を持ってやってきた。

「ああ、忘れていた」

「また靴かよ。それより獲物だろうよ」

「あれは穴が取ったんだ。ワシではない」

「まあそう言うな。スサノオ様に雷食らうぞ。なあ坊主!」

ヤマダヌキは坊主の寝顔を覗き込んだ。

「しかし兄よ。今度はやっぱり選ばれるんじゃねえのかよ」

「そうさな、それこそスサノオが決めることだ」

「噂だがよ。透波者(斥候やスパイ)が先の原攻め(山から降り、平野に住む大陸人と戦うこと)で何人か死んだようだ。兄は足が永い。だからお呼びがかかるんじゃねえかともっぱらの噂だ」

「そういったってな。この辺境の村から何年もお呼びがかかってないんだ。それにもし呼ばれたってよ。猪追いの者だって言ったら、笑いものだ」

「そりゃねえぞ。ワシたちがいなけりゃ、サムライだって食ってけねえんだ。米だけ食ったってよ、大陸の鉄器兵には勝てねえよ」

「そうだな」




夜も夜、やっと坊主が寝静まった。

「こりゃ虎の子だ」

「そうですかね。普通だと思いますけど」

「アラカシの子は夕には寝て、朝まで死んだように静かだと」

「それは良いですねえ」

蚊除けの煙が蛇のように壁を張って行く。こんな草葺の小屋に、妻と子を住まわすのは少しばかり心苦しい。もしサムライに呼ばれたら、もうちょっとマシな屋敷に住めるだろう。

「あんた、明日のことを考えているね」

「ああ、もしワシが呼ばれたら、どうする?」

「そりゃ名誉なことよね」

「だが戦に行かねばならねえ」

「怖いんかね?」

「そりゃ怖い。イノシシやクマは火を使わねえ」

「でもお国のためですから」

「そうだなあ」

国ってのはどんなものなのか?サムライになるのは良いことなのか?戦で死んだらどうなるのか?



明朝、サムライがやってきた。

わざわざ鎧を着込み、馬にまで乗っている。お付きのアシガルは鉄砲を抱えていた。

サムライは鏡札を掲げ、太鼓を鳴らした。村の者が我先に駆け寄り、少し離れた所で自然と輪になった。

「ワシは双六隊の侍大将、カモシカ・ゴードーと申す。スサノオ神の導きの下、本日やって参った。今から名を呼ぶものは、サムライとして取り立てる。名誉だと思え」

胸が高鳴る。恐怖と、そして賛辞、父と妻と坊主の顔。

「亥遊村のコシザル、前に出よ」

足が震えた。父が背を押した。

「小さいのう。しかと鍛えよ。スサノオ神とお国のため、血を捧げよ」

サムライは刀を抜くと、高く掲げた。近くで初めてみた。陽の光を吸い込み、赤く輝く反り返った刃に見とれてしまった。


宴が始まった。

村の者は自分のことのように喜んだ。

もし僕がサムライとなり、その働きが認められれば、この村の『血』が評価される。

お国は純粋な日本人しか住めないが、更にその中でも『良き血』のものだけが山に上がっていける。

我が村は山の麓、扇状地に位置する森の中。お国にとっては取るに足らない村。周りのものも、肉屋や革細工職人以外は我々を相手にしない。

獣と毛皮、そしてわずかな米と雑穀を差し出すことで、辛うじて日本人と認めてもらえているような村だ。先祖は逃亡兵であったとも、大陸の捕虜だったとも言う。村の者は誰も公に話さないが、そのような噂話はいつでも聞こえてきた。

先祖の失態を返上し村の幸福を願うなら、侍になって良き働きをする以外ない。

だがこのような辺境地には、その声すら殆どかからない。しかし、僕は呼ばれた。

ヤマダヌキが言ったように、足の永い者を探していたのかもしれない。そうなれば、猪追いか飛脚か強力しかいない。


「ワシもここまで下りたのは久しぶりだ。しかし皆良き国民である。そなた達の取った肉は、しかと山上にも届けられておる」

カモシカは言った。何でも我々が取った肉は、山の上に運ばれ、何やら機械でその肉を増やしているそうだ。そんな不思議な力を、かつて古の日本人は普段から使っていたという。

「それはありがたいお言葉で」

村の長老が言った。この村では、ほんの数人しかサムライになれた者はいない。そして出世した者も。

長老はサムライとして呼ばれ、斥候として働いたが、怪我のために山を降りた。今でも歩く時には、左足を引きずっている。

「爺殿、その入れ墨は透波者と見たが?」

「ええ、かつて透波として物見などしとりました」

「それはそれは失礼致した」

長老の左腕には三本の青い線とムササビの姿が彫られていた。

「大陸兵が木曽川に戦車で参った時に・・・」

「おおう!第四次木曽川の。詳しく話を聞かせ願いたい」

「あれは北陸の国賊(大陸と同盟した旧日本防衛軍の反乱軍)により導かれた大陸軍(渤海トロツキー団)が攻めてきた時で。補給路を断つようにゲリラ戦をしよりまして。白山の方から大きく迂回して、敵の背後を取りましてな。そこで散々トラックを焼きました。おかげで足の骨を砕かれましたが」

「これはこれは、名誉の傷ではないですかな。お羨ましい。最近はかのような大規模な戦がなかなかありませんで」

僕はその話を黙って聞いていた。この長老は、戦に向かう前に足を滑らせて谷に落ちた時に骨を折ったという噂だった。獲物を取るとこの話をして、どうにか肉を多く掠め取ろうとしてくる厄介な爺さんだ。

「コシザル、そなたも爺様のように立派に働くのだ」

カモシカは僕の背を叩き、酒を飲み干した。

宴は朝まで続いた。酔いつぶれたサムライは、村唯一の木の小屋で眠った。そこには神棚と御真影があった。

僕は妻と坊主を抱いて眠った。短い夢をいくつも見た。あまり良く眠れなかった。



早朝、サムライは身体を清め、御真影に礼をした。

「コシザル、その前掛けと腰巻きの格好では様にならぬ。これを着よ」

サムライはアシガル用の革の胴巻きと大陸兵風のズボンを差し出した。手製の靴が気に入らぬようであったが、これでないと走れないというと「そうか」とだけいって許した。

アラカシやヤマダヌキたちがやってきた。彼らは自分のように喜んでくれた。もし働きが認められれば、アシガルを持つことができる。慣習として同郷の者が選ばれるので、彼らも山の上で暮らすことができる。

父は選別にナイフをくれた。父が以前、売国商人(大陸人相手に商売する日本人)を襲って取り上げたナイフだった。父の宝物であった。父には僕の働きによって俸給が出る。

妻と坊主は、鍛錬期間を超えれば山の上に呼ぶことができる。妻の両親にも俸給が出る。

村からサムライが出ると、村は御山との繋がりが太くなる。村の者の働きが認められるとアシガルやサムライとして取り上げられる者が増えていく。さらに村の者が侍大将ともなれば、その村の「血」が認められ、「国民」として優遇される。

村の期待を背負って、僕はサムライとして山を登っていく。村中が万歳して僕を送り出す。父は村長となるだろう。妻と坊主は、呼び出しがあるまで木の小屋で寝起きすることになる。

だがそこに僕はいない。

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