「神の天窓」~アンドレーアス~
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第2話をどうぞお楽しみください。
おとなしいアンドレーアス。内気なアンドレーアス。人は皆、そう呼んでいた。
しかし、秀でた天賦の才は隠しようもなく、両親でさえ手をこまねいていた。
長ずるにつれてその本性はいよいよ頭をもたげ、自由奔放な振る舞いと無邪気な行為は、村の異端児となっていった。
アンドレーアスの両親は、村の司祭に相談して、老匠ミヒャエル・ロ・モソの噂を聞いた。
そして、芸術家擁護の都市と言われる首都モリエエストまでわざわざ赴いたが、ミヒャエルの一行がバリャエエストから南へ向かったというので、その後を追ったのだった。
しかし、その甲斐もむなしく、アンドレーアスの両親は、ミヒャエルの一行に出会うことはできなかった。
しばらくして村の司祭は、思案の末、自ら任を買ってでた。そうでもしないと、村の風紀が乱れるというのである。
三ヶ月と十二日目、村の司祭に連れられたアンドレーアスは、ようやく老画家ミヒャエル・ロ・モソの仕事場に追いつくことができた。
「歓迎しますよ。私は、神の御心のまま、どこへでも足を運ぶのです。それが私の仕事だからです。とにかく、ようこそ。ずいぶんと遠回りをなさったご様子。さ、こちらへ。温かいスープでも用意させましょう」
ミヒャエル・ロ・モソは、殊の外、思いがけない客と新しい仲間に親愛の情を示した。
アンドレーアスは、その老画家の前で、簡単なスケッチを何枚も描いて見せた。するすると木炭を走らせ、また初めて、老画家から絵筆をかりて、色をつけてみたりした。
アンドレーアスの絵は巧みだったが、何かに衝き動かされて筆を運んでいるに過ぎず、まだまだ、作品を産み出す喜びも、そして苦しみも知らずにいた。
アンドレーアスを連れて来た村の司祭は、予期せず、この老芸術家と若芽との出会いの地で過労のため息を引き取った。一人の使者の使命が完了したのであった。
アンドレーアスは、彼の死を悼むこともなく、無感情に柩を見送った。そして、故郷の村と両親に宛てて二通の手紙をしたため、その翌日、画家たちと共に次の仕事が待つ地へと旅立った。
手紙には、司祭の死とアンドレーアス自身の別れの言葉が記されていた。
この修道院での仕事は、アンドレーアスにとって、弟子としてのやっと二回目のお役目であった。
ミヒャエルは、仕事を急いではいたが、ヨーヘンにさえ手伝わせようとは決してしなかった。自らの手でもって、どうしても仕上げようというのである。しかし、これまで大量の仕事をこなしてきた老齢の身体には、完璧な仕事をこなすのは、鞭を打たれるよりも厳しく響いた。
ヨーヘンは、自分の手を借りようとしない師匠を見て、いくらかの疑問を抱き始めていた。その疑問は、打ち消そうと努力すればするほど、ますます大きく膨れていくので、そんな自分自身をも疑うことすらあった。
アンドレーアスは、先生の気持ちもヨーヘンの悩みもつゆぞ知らず、ただ己れの力のなさを哀れんでいた。そして、自分にもっと力があったなら、先生からもっと愛してもらえるのに、と筋違いの嫉妬をヨーヘンへ向けるのだった。
「ヨーヘン、おまえはこのごろ落ち着きがないな。なにか悩み事でもあるのかな?」
ミヒャエルが、ある時、そう尋ねた。
「いいえ。ただ、先生がなにかお悩みなのかと、考えていたのです」
ヨーヘンの言葉に刺はなかったが、しかし、深い愛情もなかった。
「アンドレーアス、おまえも落ち着かん。仕事を始めてまだふた月にしかならんが、もう飽き飽きかな?」
今度はアンドレーアスに尋ねた。
「?……いいえ?どうしてそのようなことをお尋ねになるのです、先生」
「おまえの眼が死んでおるからだよ」
「死んでる?」
「そう。学ぶことはたくさんあろうて。なぜ学ばん。なぜ学ぼうとしない。何かを得んとすれば、待っていては何も起こらん。自ら求めてゆかねばな。さもなければ、誰もおまえのその腕前を評価することはない」
アンドレーアスは、予定より延びた修道院での滞在を、あまり快くは感じていなかった。彼は、ある程度の自負心を持っていた。隠そうにも隠しきれない、固有の人格に備わっている特別な表象、つまり個性を、何事につけても強く感じざるを得ない状況に、幼いうちから何度も出会っているからである。
その抗えない個性が、神よりいただいた自分自身であるということを、いったい誰が否定できようか。
神は、そのお心によって世界を創られ、そして、ご自分の内にある全てを、世界のあらゆる被造物に託されたのだ。それによって世界を彩られ、芳醇な煌きの流れのなかに壮大な物語をお流しになられている。
神のお創りになった私たちのなかの、この一個の私を、アンドレーアスは否定することはできなかった。天賦の才とは、神から授かり、預かっている物である。そう感じていた。
若いアンドレーアスは、まだ自身を律することを知らず、腕前を上げる方法も知らずにいた。
ただがむしゃらに突き進み、才能の赴くままに自分の人生を展開していこうとする。
ちやほやと誉めそやされれば嬉しい。人々が驚嘆すれば鼻が高い。
しかし、人もそうそう他人にかまってばかりもいられない。誰もそれほど暇ではない。皆、おのおのの生活や思惑があるのだから。そうなれば、アンドレーアスの機嫌は、まるでだだっこのように悪くなる。
アンドレーアスは、自分の描く絵が回りの人々に理解されなくなると、それはひどく癇癪を起した。
生まれ故郷の村では、絵心のあるものは全くいないと言ってもよかったので、村人たちの評価が正しかったとは言えないが、それよりも彼らに評価を求める方が、もっと正しくなかった。
アンドレーアスは無理な賞賛を得ようと、苦しんだ。
だが道理の分かった世間でさえも、アンドレーアスの気儘な、自由奔放に描かれた絵が受け入れられないとしたら、それも評価の方が間違っているとは言い切れない。だからと言って、評価の方が正しいと言える根拠もない。評価というのは、時の流れと神様が決めてくださるものだからである。
しかし、時間はときにして無情なものである。アンドレーアスの心は、次第にすさんでいった。たやすく手に入ると思った賞賛が得られず、自分が愛情を受けたいと思っている先生は、別の弟子をかわいがっている。
十五に満たない少年の、幼くやるせない、空虚な嫉妬だった。
空虚な嫉妬は、心にひび割れをもたらす。
何事も、健全でないことが、あらゆる破滅を引き起こすのである。
アンドレーアスは、自分を待ちきれなかった。
アンドレーアスの思いは爆発した。爆発してどこかへ飛んだ。
少年のどこに、そのような大胆な行動が埋まっていたのだろう。しかし、それは単なる衝動ではなかった。そうすることを決意するとき、アンドレーアスは、祭壇の前で、神に祈りを捧げたのだから。
先生が仕事を終えて床につくと、アンドレーアスは完成されつつある壁画を眺めに、暗闇の聖堂へと足を忍ばせた。
そんな不可解な行動が何日か続いた。
兄弟子のヨーヘンは、アンドレーアスの様子を訝ってはいたが、素知らぬ振りをしていた。大きな仕事の最中にはよくある出来事なので、大して気にもとめていなかったのだ。
とくにアンドレーアスは新入りで、仕方のないことであった。
その晩は、ひっそりと静まりかえった修道院の敷地内に、生暖かい風がヒューヒューと鳴っていた。
古木の枝はみしみしと軋み、回廊では、吹きすさぶ風が息巻き、不気味な和音を奏でていた。
アンドレーアスの胸に、その夜風は淋しく、冷たく、そして残酷に吹き渡っていた。
聖堂の大扉を押し開けると、中はひんやりとしていた。
手持ちの小さな灯りを頼りにゆっくりと歩き、小さな祭壇の前まで来た。
信者たちの捧げる蝋燭がある。それを何本か取り上げ、燭台に立てて手持ちの小さな灯りから火を移した。
うすぼんやりと聖堂内が照らし出されると、アンドレーアスは、いささか自分自身を恐れた。
「神のみ前で、僕はいったい何をしようというのだろう……」
しかしアンドレーアスは、自分の悪魔のような手を止めることはできなかった。
天窓から、月明かりが漏れ入った。
月は、雲の切れ目からうっすらとその黄金の顔をのぞかせていた。そして幾筋もの灰色の雲が、ものすごい速さで月の前を流れてゆくのだった。
月は、暗雲から出たり入ったりしていた。
アンドレーアスの燭台を持つ手は、恐ろしさと落胆に震えていた。こんなことをしたら、誰も許してはくれないことは分かっていた。
救いの手を差し延べてくれる者は誰もなく、自己の破滅を招くだけであることは、十分に心得ていた。
であるにもかかわらず、なにゆえに、なにゆえに、アンドレーアスは、罪を犯さなければならないのか。
衝動は、時として人に罪深い提案をする。
だが、アンドレーアスの心には、今はもう衝動らしきものはなかった。
あるのは恐怖と明らかな罪の意識である。
「許せない」
アンドレーアスはそう思った。
何を?
何を?誰を?
ヨーヘン?先生?……神?
「なんでもない。なんでもない……。許せないものなんかなんにもない」
アンドレーアスは、足元を照らしながら、ゆっくりと壁画の方へ歩み寄った。
祈祷席に置き去りにされていたランプに火を付けた。それから、ありったけの明かりを集めて壁画を照らした。未完成の絵は、黙ってそこに佇んでいた。
一人の若い天使が跪き、大きな翼を背に閉じ、神にダイヤモンドの杖を差し出している。もう一人の天使は、ダイヤモンドの楯をもち、巨大な翼をいっぱいに広げて、空から今しも参上するところである。
アンドレーアスは、片隅に整頓されていた道具のなから絵具を取り出し、無造作に壺のなかでかき混ぜると、思い切り壁画めがけて投げつけた。
壺は割れ、絵具は美しい完成間近の壁画に飛び散り、醜くこびりついた。
別の壺に絵具を溶き、再び投げつけた。
金色の美しい、葡萄の房のような天使の髪も、本物の羽毛のような翼も、ほとんど見る影がなくなってゆく。
仕上げに、懐からナイフを取り出すと脚立にあがり、アンドレーアスはがりがりと壁を傷つけていった。
破壊の作業は、思いのほか一瞬にして済んだ。
アンドレーアスは、痺れた腕をだらりと下ろして、肩で息をしていた。
この瞬間、彼は、本当に一人になってしまった。もう誰も、彼をかばってくれるものはいまい。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。
第3話投稿は、6月30日を予定しております。
楽しみにお待ちください。