「天命」~賢者と芸術家~
こんにちは。
さて、3人の心に去来する思いとは?
路寄りさこワールドをご堪能ください。
聖堂は、午後の日差しに包まれて、穏やかに佇んでいた。
ここでオージェルに会ったあの日から、一度も足を踏み入れていないアンドレーアスにとってはいささか心痛む、いわくの聖堂であった。
重たく大きな扉を押し開け、忍び込むようにして中へと足を運んだ。
弦楽器の音がしている。
音の合間に、注意を促すような人の声が、祭壇のドームに響いていた。
マーティレッタとその楽団員たちである。
「そうか、明日は最後の演奏会か……」
マーティレッタは、ようやく明日、帰路につく。
今回の旅は休養をかねていたらしく、近くの湖水辺りでは童心に返って羽を伸ばしていたというもっぱらの噂であった。
「ぜひ聴いてみたいものだ」
アンドレーアスは、二十年ぶりにここを訪れた日のことを思い出していた。旅に疲れてはいたが、ごく純粋に絵を愛し、自分の才能を愛し、また、先生の絵を愛していた。
「オーボエ、もっとなめらかに」
「ヴァイオリン、気が散ってる!」
マーティレッタは指揮棒で譜面台を叩き、一見気が立っているように見えるが、それは活気と真剣さの集結した高貴な精神であった。
大きな、黒い真新しいピアノが、オーケストラの前方、中央に据えられていた。
「コンチェルトかな?」
アンドレーアスは小さく呟いた。
「すばらしく新しい音楽らしいですよ」
アンドレーアスの独り言に、どこかで男が答えた。
「……ヨーヘン?だね」
アンドレーアスは、その声のする方へ視線を投げた。
「何十年ぶりだろう、アンドレーアス」
ヨーヘンは、満面の笑顔でアンドレーアスを迎えた。むさ苦しく顔を隠していた長い髪はこざっぱりと刈られ、まるであの少年の日が甦ってくるかのようである。
「もうすこしでプローベが始まるよ。僕たちは運がいいね」
ヨーヘンは、お茶目な素振りでそう言うと、アンドレーアスの肩に手をかけて、二人の先生の遺作が描かれている壁の前までゆっくりと親友を促した。
「こ、これは……美しい、なんて美しい・・・」
アンドレーアスの感嘆の叫びは、次第に息になり、言葉にならなくなった。
「ジャトゥ、いや、ヨーヘンさんが、修復したんですよ」
見ると、そこにオージェルが立っていた。
「オージェル、どうしてたんだ?」
アンドレーアスは、驚き呆れて、この若い男の顔を見た。
「僕は、ヨーヘンさんがこの絵を磨きあげるまで修道院にいました。あなたの助言通りにはしなかったのです。僕の心は曇っていました。あなたについて、とても悪いことを思いました。今さらあやまっても遅いと思いますけど、……ごめんなさい」
「わかってるよ。そんなことはいいんだ」
「でも、この絵が次第に明るくなって、はっきりとその姿を現わすと……僕は知ったのです。あなたが誰であるかを。そして、僕自身が誰であるかを。それからすぐに、出発しました。今回は、マーティレッタ先生と一緒にこちらへうかがったのです。……あなたがたの先生は、偉大な方です。お会いしたこともない、こんな僕にまで、示唆をお与えくださるのですから……」
オージェルは涙ぐんでいる様子で、鼻をすすった。
「そう、まあ、とにかく良かった。私にはなんの力もないのだから、たいそうがっかりさせたろうと思っていたよ。ところで、立派な出で立ちで、見違えたな。明日は棒を振るのかい?」
「いいえ。まださせてもらえません。ピアノだって弾かせてくれないんですから。でも、聴いてください。これから明日の公演のためのプローベが始まりますが、これは、僕の曲なんです」
「ぜひ聴かせてもらうよ」
「先生は、きっと大成功だとおっしゃってくださっています」
「コンチェルトかい?」
「い、いいえ、その、あの上の聖歌隊席に合唱団が入ります」
オージェルは、かつて自分もそこで歌ったバルコニーを指差した。アンドレーアスは、頭を上向きにしながら、初めてオージェルと言葉を交わしたときのことを思い出さずにはいられなかった。
「合唱付きのシンフォニーか」
「あ、いいえ、そうでもなくて……」
「何なんだい、いったい」
アンドレーアスは、オージェルの狼狽ぶりに、思わず声をあげて笑ってしまった。
「新しすぎて言えないのさ」
ヨーヘンが、オージェルの気持ちを的確に捕らえた。
「ええ。そうなんです」
「型破り、といった方がお似合いかな?」
ヨーヘンは、追い打ちをかけた。
「まあ、そんなとこですか……。でも、あえて言わせていただけるのなら、これは、神に捧げる僕の心のつもりですから、ミサ曲、いやミサシンフォニーとでも言わせていただきます」
「私も、さっき少しばかり聴いたのだが、まったくもって美しかったよ」
ヨーヘンは、腕を大きく広げて、どうにかその美を表現しようとした。
「それじゃあ、また後ほど。マーティレッタ先生もご紹介しますから」
オージェルは、そう挨拶すると楽団の方へと姿を消した。
「きみは、絵を続けていないのかい?」
アンドレーアスが、ヨーヘンに尋ねた。
「きみがここを出でから、間もなく私もここを去った。そして大学で哲学を学んだよ」
「哲学を?」
アンドレーアスは、またクスクスと笑い出した。
「なんだい?」
「いや、やっぱりと思ってね。きみは根っからの哲学者さ。そう言ったろう」
「そうだったかなあ」
二人は、笑顔を見せ合いながら、当時の思い出に浸っていた。
「私は、クオニ市の大学で、いや、クオニ市でと言う方が正しいだろう、その文化都市クオニで、新しい思想と出会った。世の中のねじけてしまったものを直し、なおかつ、本物を提示していける、そんな気が私の心にうずいたのさ」
「クオニ市のことは、私も聞いたことがあるよ」
「それで、ぜひともきみに会わなければという思いが強くなってね。でなければ、先生の弟子だった意味がなくなる。知ってるのは私だけなんだから」
「……」
アンドレーアスは、ヨーヘンの言葉の不明瞭さに首をかしげた。いったい何を知っているというのか、それに、オージェルも、いったい何を悟ったというのか、さっぱり見当がつかなかった。
「そういえば、じいさんも分かったようなことを言って……」
「さあ、アンドレーアス、筆を取って」
ヨーヘンが、唐突に言った。
「なんだって?」
「さあ。これを」
ヨーヘンが金の絵具を差し出した。それは、いかにも大切そうに、美しい陶製の器に盛られていた。当時と変わらぬ神秘的な色を湛えている。
アンドレーアスの心は逸った。素早く絵筆を取って、目の前の金の絵具を触ってみたかった。
「先生の絵具!」
心臓はどきどきと波打ち、腕や脚はぶるぶると氷のなかにでもいるように震えた。
「決して触らせてくれなかった先生の宝」
アンドレーアスは、ヨーヘンの抱え持つ陶器の側面に手を触れようと、震えの止まらない腕をそろそろと伸ばした。
あれほど夢にまで見た、幻の絵具。この絵具が自分の腕をどれほど助けてくれるかしれないと思っていた。
先生はずるい、と思った。魔法の絵具を使えば誰でも天才になれる、そう思った。
描かれた絵具は、まるで生き物のように魂を持った線を乱舞させたものだった。その表情は、また、描く者の心を反映させる鏡のようでもあったのだ。悪魔の心で描いたなら、その線は悪魔の舞いを踊り、天使の心で描くならば、天使の舞いと天上の音楽が辺りに満ちるのである。それはまた、見る者の心にも同じ作用を及ぼすのだった。
ああ、なんという憧れの……。
「でも、どうして」
あと一ミリ程まで近づいて、アンドレーアスの手はためらった。
「私にどうしろと?」
アンドレーアスは、素朴で単純な疑問を発した。
「この金の絵具がどこから来たものか、知ってるかい?」
ヨーヘンが尋ねた。
「いいや」
アンドレーアスは、首を振った。
「これは、きみを連れて来た司祭が持っていたものなんだ。驚いたかい?」
「そ、そりゃあ、まあ……」
「彼は、先生がタダできみを引き取ってくれるとは考えていなかった。彼にとっては、きみ、アンドレーアスという少年はやっかいものだったのだからねえ。そこで彼は考えた。取り引きしようとね。たまたま、いや、これは神の計らいかもしれないなあ、司祭の務める教会に、なにやら不思議な代物があった。それは、その教会が建てられたいきさつと深い関わりがあったんだ……」
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絵具に隠された秘密とは?
次回をお楽しみに!
次話投稿は、12月8日を予定しております。
お待ちください。