「天命」~再会
こんにちは。
路寄りさこワールドへようこそ!
さて、
アンドレーアスの心に何がよみがえってくるでしょうか。
祭りが最高潮を極めているとき、アンドレーアスは、旅支度を始めていた。
再び放浪の身となる覚悟は、もうとうにできていた。
ふと、道端の出店を見ると、そこにあの、つい先日描いた自分の絵が売り物として置かれていた。
子供の玩具のような値で、額も外されて、地べたに捨てられるようにして投げ出されている。
アンドレーアスは、思わず顔をおおった。
彼の顔は、あまりにも多くの人々が知っている。自分の側を通る誰もが、皆、自分を指差し、嘲笑しているように感じた。
うつむきながら、顔を隠すようにして、ゆっくりゆっくりと街を歩いた。
修道院へ行こうと思った。
もう一度、ミヒャエル・ロ・モソの壁画を見ておきたかった。
かつて自分のこの手で傷つけたことのある、あの巨匠の遺作を……。
「たいそうきれいに手入れが施されたと聞いている」
ところが、ゆっくりと歩んでいるうちにアンドレーアスは再び、自分の絵が乱暴に投げ出されいる出店のところまで戻って来てしまった。
誰にも見向きもされず、先程と全く変わらぬ様子で置かれている。
水場の近くでは、威勢のいい大男が、なにやら演説を始めた。
どうやら噂に聞く、改革者の一人らしい。市民の生活を守ろうと、教会の腐敗ぶりをとうとうと語りかけ、また、真の神の教え、神の御業とは何であるかを、哲学風に説いている。
アンドレーアスがその改革者に見とれていると、一人の男が出店の絵に近づき、それを取り上げてしげしげと眺めはじめた。
アンドレーアスは、目を見張った。
男は、店主の老人と手振り身振りで交渉をしている。どうやら店主は、タダの様な値で売るのが惜しくなったと見えて、吹っ掛けている様子である。
しばらくすると折り合いがついたらしく、しぶしぶではあるが、男は、その絵を小脇に抱え、片手でポケットから何枚かの金貨を出し、老人に与えた。老人は喜んで、うまく引っ掛かった客に、ペコペコと頭を下げて見せていた。
「いい買い物をなさいましたよ、だんな」
アンドレーアスの耳にまで、客を見送る商売人の嗄れた大声が聞こえてきた。それは狡賢そうな余韻をたたえていた。
アンドレーアスは、大急ぎでその男の跡を追った。
人混みを掻き分けて見失わないように付いてゆくのは、骨が折れた。なにせ街は、男も女も、老人も子供も入り交じって、ごった返している。
男が、一件の宿に入った。
そこは、以前アンドレーアスが磨き上げた、じいさんのボロ宿であった。
「繁盛してるんだな」
アンドレーアスの心に、ふと、やさしい気持ちがわきあがってきた。ここ数年、忘れていた感情であった。
「よう、おかえり」
アンドレーアスは、ビクッとして生け垣に身をひそめた。
「ただいま、じいさん」
「うまくいったかい?」
「だいぶぼられましたよ」
「そうかい。わしがいきゃあよかったの」
懐かしいじいさんの皺だらけの顔が、開け放たれ大きな窓から垣間見えた。そばでちらちらと動いているのは、先程の男である。
アンドレーアスは、その男の顔をどうにか見極めようと、いろいろと視覚を変えて見たりした。
「今日は気持ちのいい日ですよ。ああ、ほんとにいい風だ」
突然、男が窓から身を乗り出して笑顔を風にさらした。無造作に伸びた髪が、彼の正体を見せまいとするように、顔にうるさくまとわりついている。
その容貌に見覚えがあった。
「あいつは、たしか、修道院にいた……」
アンドレーアスは記憶を辿った。
「私と争って負けた、いや、自ら私の絵を勝者に選んだ、あの絵描きだ。しかし、どうして?」
アンドレーアスは、不思議に思いながらも、当時の栄光を思い起こしていた。
さわやかな風が、一段と強く、吹き抜けていった。
次の瞬間、男は、当然、誰もがそうするように、自分の髪をかきあげた。
「あ、あれは……」
アンドレーアスの記憶は、いっときの間をおいて回転しだした。
『もし出会ったら、ぜひ知らせておくれよ』
あの日、まだ十五才の少年の日、聖堂の前で別れぎわにそう言った彼……。先生の一番弟子で、僕の羨みの対象だったあいつ……。
でも、あのとき、なぜか君がいとおしかった……ヨーヘン。……ヨーヘンだ。
「おたがい、年取ったもんだな」
アンドレーアスは、緑の葉陰からそっとヨーヘンを見つめ、久々に頬を赤らめて、温かい笑みを浮かべていた。瞳には、少しばかり涙がにじんだ。
「出会えなかったよ。最も神から愛されている人になど」
アンドレーアスは、小声でそう呟いた。
「おい、きみ」
いきなり後方から声をかけられ、アンドレーアスが振り向くと、さっき水場で演説していた大男が立っていた。
「なにか、用かい?」
「い、いいえ」
そう言い残して、アンドレーアスは一目散に逃げて行ってしまった。
「ヨーヘン、やつがそこにいたぞ」
ドンタビーノの言葉を受けて、ヨーヘンは表へ飛び出た。
「もういやしないよ。臆病なやつだ」
ドンタビーノの力強い皮肉も、今日ばかりは淋しく聞こえた。
街をあげての一大イベントがその幕を閉じた。
大勢の客が楽しんでいってくれたおかげで、少なくとも今は、街は豊かであった。
音楽家マーティレッタは、もうしばらくの滞在を続けていた。
国王も修道院長も、療養が必要なほどくたびれ果てていた。
アンドレーアスは、野宿をしながら、街を離れられずにいた。
人は、冷たく、一夜にして落ちぶれた芸術家には、手も差し延べない。
ヨーヘンとドンタビーノの一行は、修道院を相手に説教を始め、また、各民家を回っては、神の言葉の真実を説明して歩くという大仕事をしていた。
落ちぶれた数日が過ぎ去った。
この惨めな数日が、アンドレーアスに、じいさんのボロ宿を訪ねる気持ちを促した。
もう何も失うものはない。ヨーヘンに会ったらすぐさまここを出て行こう。そう決意していた。
そして沸き立った疑問も解消したかった。
ヨーヘンたちの正義の行動も、アンドレーアスには奇妙に思えたし、また、ヨーヘンが画家として活躍していないのも、信じがたかったので。
「待っとったよ。いつ来るか、いつ来るかと思ってな」
じいさんは、弱った身体を震える脚で支えながら、アンドレーアスを迎え入れた。
「こっちから出向こうとも考えたんじゃが、それじゃあ、おまえさんのためにならんだろうて。それに、わしは、おまえさんを信じとったから、いつまででも待つつもりでいたってわけさ」
「じいさん……。どうして」
こんな自分を待っていてくれる人がいたことにアンドレーアスの瞳には涙が滲んだ。
そして、いつもどこかから見守られていたのだという、大きな愛にふわりと包まれるような不思議な感覚に打たれていた。
「ヨーヘンから、いろいろ聞いたさ。世の中にゃあ、妙なことがあるもんさねえ。長生きした甲斐もあったってもんだ」
じいさんは、脈絡なくつぶやいて、一人で頷き、納得していた。
「ヨーヘンに会えるだろうか?」
アンドレーアスがおそるおそる尋ねた。
「ああ。もちろんだとも。じゃが、その前にだ、わしからおまえさんに礼を言わせておくれ。おまえさんのおかげで、わしもいい夢をみさせてもらったよ。落ちぶれたまんまで終わらずにすんだってわけだ。ここ数年、いやあ、そりゃあもう、活気に満ちたもんでな。昔に戻ったようじゃった。いやあ、昔はあくどかったが、今度はそうじゃない。なんかなあ、神様のおそば近くにいるような幸せな気分でなあ。あの改革者連中の話を毎晩聞いてるとな、こう、心がわきたって、弾むようじゃ。ヨーヘンから、アンドレーアスの話を聞いたときは、心が洗われる思いがしたよ。……ありがとうよ。ほんとうにありがとう」
じいさんは、アンドレーアスの手を握りしめながら、何度も頭を下げた。
その強く握られたアンドレーアスの手は、じいさんの目から落ちる大粒の涙で、すっかり濡れてしまった。
「私は、人から礼など言われるような人間ではないよ、じいさん。お願いだから、顔をあげてください」
アンドレーアスは、そう言いながら、じいさんの寿命を密かに感じ取っていた。
これはきっと、自分に対する感謝ではなく、これから天国へ旅立つ前の別れの言葉であり、神への感謝と過去彼を支えてきた様々な人々への悔い改めなのだろう、とアンドレーアスは思った。そして、快く、じいさんを泣かせてあげることにした。
「おまえさんが、タズトマの大商人と行かなかったのは幸いだった」
じいさんは、涙で腫らした眼を、アンドレーアスに向けて言った。
「……」
アンドレーアスには、返答する言葉はなかった。
「あいつは、くせものだ。人を物のようにあつかうでな。あの青年、自分をすりへらさなければいいが……」
「己れのことは、己れが一番よく分かっているものです。違うと思えば、自分で自分の道を切り拓こうとするでしょう。それができないのなら、それまでのことです」
「きびしいのう。しかし、りっぱじゃ」
「ヨーヘンに会えますか」
「ああ、もちろんじゃとも。さ、はやく行っておやり。修道院の聖堂にいるよ。ついいましがた行ったとこじゃて……。おまえさんの親友じゃあ……」
じいさんは、気が遠くなるように、静かに瞳を閉じ、そのまま椅子のなかで眠ってしまった。
ボロ宿のじいさんは、それから三日後に息を引き取った。
幸せそうな死に顔であった。
アンドレーアスの手できれいに蘇り、最後の夢をじいさんに与えた宿は、そのまま残され、ドンタビーノのたちの計らいで古びた食堂が王朝風の優雅なサロンとなり、若者たちが大いに夢を語りあう場所としてその後も残されている。
最後まで読んでいただきまして、
ありがとうございました。
次回投稿は、11月24日を予定しております。
二人の再会からもたらされるものは?