「神の天窓」~仕事場~
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天窓から、明るい笑顔がのぞいていた。
陽のきらめきが、斜めの流れを差し込んで、ミヒャエルの顔は赤らんだ。
絵筆を動かす手は、しなやかに白い壁を舞い、ときおり休めてはため息をつく。
弟子がひとり、かたわらで寝息をたてている。午後の満腹した身体は、いやがおうでも眠りには勝てない。
昼食は、野菜のたくさん入ったスープと良く焼いて味付けされた牛の肉だった。
往来は、そろそろ人通りが激しくなっていた。
子供らの声が、高らかに威勢を放ち、ご婦人方の大きな笑い声が、国王や王子の噂話などをして楽しんでいる。
四頭立ての馬車がカラカラと車輪を回し、蹄がカチカチと石畳を蹴る。
「ほらほら、お嬢様方、お足元に気をつけなさって。それっ!」
御者のかけ声と馬を走らせる鞭の音が、女たちの笑い声にかぶさるようにして通り過ぎる。
「おーいやだこと。埃まみれの男よ。おまけに、うすぎたないったら」
どう割り引いても、お嬢様には見えないご婦人方が悪態をつく。
「アンドレーアス!」
ミヒャエルが、暖かさにまどろんでいる弟子に声をかけた。
「え、は、はい。……すみません……」
アンドレーアスは、寝惚けまなこで師匠を見上げた。
「ついウトウトと……」
「もうすこし金を。ここのところ、これだ、髪のウェーヴを際立たせたい」
ミヒャエルは、壁に描かれつつある、自らの絵筆よりいでたる天使にじっと瞳を凝らした。
アンドレーアスは、絵具をほどよく溶くと、石版に盛って師匠に高々と差し上げた。
ミヒャエルは、脚立の上で絵筆を金の絵具につけた。
絵具は、絵筆に吸い付けられるようにまとわりつき、絵筆が壁に運ばれると、筆先から金色の絵具が流れるように弧を描いて飛び、壁を伝った。
若い天使の美しい髪が、くっきりと流線を描き出す。まるで浮き彫りか何かのように、くっきりと現れ出て来るのには、アンドレーアスも驚いた。
「先生……」
アンドレーアスは、瞳を大きく見開き、仕舞いには指で瞼を擦った。
ところがそのはずみで、アンドレーアスは絵具を盛った石版を床に落としてしまった。
「アンドレーアス、このやくたたずもの!」
「す、みません、先生」
「はやく、新しい絵具を、乾かないうちに」
「は、はい」
アンドレーアスは、手際良くしようとすればするほど、なおさら不手際になり、ぐずぐずとした様子だった。
「ああ、もういい、ヨーへン、ヨーへン。金の絵具を、はやくしてくれ」
「はい、先生」
一番弟子のヨーへンが、アンドレーアスを押し退け、先程から用意万端にしていた絵具を石版に盛り、両腕で高々と支え上げた。その重さに耐えようと、心做しか細い腕が震えている。
「よーし」
ミヒャエルは、慎重に筆を運んだ。
「これは……、特別の絵具だ」
絵具は、筆先からあたかも踊り出すように壁を塗ってゆく。
「そーら。見ていてごらん」
ミヒャエルの描いている天使の髪は、柔らかくうねっていた。
前髪の巻き毛が、葡萄の房のように、美味しそうに盛り上がっている。一房もぎ取って口に運ぶと、甘い果汁とその瑞々しさが舌を喜ばせてくれそうだ。
アンドレーアスは、自分の前髪を触ってうなだれた。
そして、ヨーへンを羨んだ。
ヨーヘンは、先生にずっと多く愛されている。なぜって人は、役に立つ人間をより多く好むに決まっているからだ。
「僕は、嫌われているんだ。役立たずだからな……。僕が弟子になって、先生はきっとお困りだろうに」
アンドレーアスは、うなだれたまま頭を抱え込んで、その場にうずくまり、まだ彩色の施されていない白い壁にもたれかかった。
絵具をのせた石版を支え持つヨーヘンの耳に、すすり泣きの声が聞こえたような気がしたが、さほど気にもとめなかった。なにしろ、台座が不安定で、気が気でない。ヨーヘンは、アンドレーアスを気遣ってなどいられない。
「そーら、こいつをここへ塗って……と。もうひとがんばりだぞ、ヨーヘン」
ミヒャエルは、大儀そうに、だが力強く筆を遠くまで運び、波打つように天使の髪をうねらせた。
「おい、足場をたのむ」
ミヒャエルが言った。
「……」
「アンドレーアス、足場だ、しっかりとおさまえていろ!」
再び先生の声が、大きく度胆を抜いた。
「アンドレーアス!」
ヨーヘンは、石版を頂いている腕を震わせながら、叫んだ。
「は、はい。すみません。ただいま!」
アンドレーアスは、袖で涙を拭いながら、大急ぎで駆け寄った。
「ほら、なにしてる。そこだよ、先生の足場を。もっとしっかりおさえて」
ヨーヘンは、兄弟子らしく、先生に言われずともその場所を正確に指示した。
「うん、いいぞお。その調子でたのむぞ」
ミヒャエルは、しっかりと固定された脚立の上で、縦横無尽に身体と腕を動かした。
「う……」
まだ十五に満たない少年の腕には、少々こたえる役回りである。
「先生は、今日はやけに身体をお動かしになる」
アンドレーアスは、そう心でつぶやきながら、歯をくいしばり、瞼をぎゅっと閉じていた。両の腕はぶるぶると震え、その振動が先生に伝わるのではないかと、恐れさえした。
随分と長い時間が過ぎ去った。
また失敗して先生に叱られないようにと、必死に身体を強張らせていたので、アンドレーアスはいささか気が遠くなっていた。
ミヒャエルの弟子は常時五人ほどいたが、たまたまここへ来る途中、最年長のパトが謀反を働いて破門になると、彼のお追従たちもそれに従ったのだった。
パトは、バリャエエストの大商人の息子だけに、まだまだ評価の定まりきらない一介の画家ミヒャエルよりも野心果敢な青年たちには魅力がある、というのには誰も異論がないといったところであろう。
パトの謀反とは、何であるか。
それは、言うに及ばない、月並みの自己顕示欲からくる、神をも恐れぬ、不届きな誤解と自己過信であった。無論、その背景には、世に立ちたいという若輩の汗くさい焦燥と、それを助長する世間の目とがあった。
「先生はがっかりなさっているのだろうか」
アンドレーアスは、必死の形相のなかで、夢見心地にそんなことを思った。
だいたい自分が今こんなに辛い思いを味わわされているのも、やつらの勝手な行動のおかげなのだから。もう二三人もいれば、仕事は楽に進むというのに。
ミヒャエルは、何回か位置を変えるために脚立を降りた。その瞬間がアンドレーアスにとっての束の間の息継ぎだった。
できるだけ早く作品を完成させようと、少しばかり過酷な仕事ぶりであった。弟子たちにとっても過酷だったが、ミヒャエルの齢にはなおのこと、厳酷だった。
「これまで。続きはまたあしただ」
ぼーっと霞むように、先生の声が聞こえていた。
「ははは……。アンドレーアスは、はらぺこときたな。さ、食堂へいくとするか」
すでに、辺りは暗かった。
天窓も紺色の空を写していた。星は見えなかった。
「はい。先生」
ヨーヘンがさっさと辺りを片付け、しゃがみ込んでいるアンドレーアスを起こし、その細い身体を肩で支えると、二人は、先生の後からゆっくりと歩いた。
「まあ、あの壁画が完成したら、ちょっとは驚いてほしいもんだな、若いお二人さん」
ミヒャエルの声が、回廊にこだました。
「そりゃあ、もちろんですとも。先生の作品には、いつも驚かされますから」
ヨーヘンが、おずおずと応えた。
アンドレーアスも、正気を取り戻してもう一人で歩いていた。
ヨーヘンと並んで歩調を合わせているようだが、心持ち後方を、いかにも新入りというように、遠慮深げに歩く。白いガウンの裾が、背丈の足りないアンドレーアスの足元で、するすると衣擦れの音を立てながら回廊の床をこすっていた。
彼ら、三人の画家たちは、修道僧たちと一緒に、テーブルへ着くことを許されていた。
極めて静かで、この上なく厳かな晩餐は、画家たちには大いに苦手であった。しかし、ヨーヘンとアンドレーアスの二人の青年にとっては、またとない礼儀を身に着ける良い機会でもあった。
「先生、修道院でのお仕事のときは、いつもこのようなのですか?」
アンドレーアスは、小声で尋ねた。
先生は、黙って二度ほど頷いてみせた。
「そうさ、僕は、これで、三回目だ。でも、一度は、僧たちとは決して一緒にはしてもらえなかった。あれは、そうパチェスの修道院さ。なんでも、芸術家は神の家を穢すとかって……」
ヨーヘンは、得意そうにアンドレーアスに話して聞かせた。
「そう……」
アンドレーアスは気のない返事をした。
「お二人ともお静かになさいまし。祈りが始まりますのじゃ」
息の漏れるような震え声で、年老いた修道僧が注意を促すと、すぐさま荘厳な祈りが始まった。
僧たちは思い思いに、両手を組み合わせて瞳を閉じていた。顔を天井に向けているものもいれば、肩をすぼめるようにして、頑なに下を向いている者もいた。
アンドレーアスは、大きな眼を見開いてきょろきょろと瞳を動かしていた。
「神の家を穢す?絵描きが?芸術家が?」
そして、蝋燭の明かりを見つめてまばたきをした。
僧たちの祈りの声が、合唱のように共鳴している。
「それじゃあ、あれはなんだ、そこの天井画は。壁画は。柱の装飾は。この燭台だって美しく彫刻されているではないか」
テーブルの上の燭台に灯った蝋燭だけが、僧たちの手元を薄明るく照らしていた。
「聖歌は?ミサのときに神を讃える歌を合唱するではありませんか。この神の家はどうです?芸術家でなくて、いったい誰がつくったというのでしょう……。これほど壮麗な建築を……、いったいどなたのためにとお思いですか?」
アンドレーアスは、会ったこともないパチェスの修道僧に向かって、独りごちた。……というより、まるで、神に向かって尋ねるようであった。己れの芸術性とその類稀れなる天分とが、神の家を穢すというのは本当なのかどうなのか。
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