ふるむーん
四時限目の授業が終わると、幸野は勢い良く講義室を飛び出した。
そのまま講義棟の階段を駆け降り、目指す図書館へ一直線に向かう。
――まだいる筈。まだ間に合う。
自分に言い聞かせながら走っていると、図書館の入り口ドアから目当ての人物が出てくるのが見えた。
――やばい、行っちゃう!
「先輩!」
考える間もなく幸野は叫んでいた。
呼ばれた人物は、青みがかった白い髪に白いシャツ。ぎょっとして声に振り返り、走ってくる幸野を認めて半眼でにらみつけた。
幸野が、息を切らして彼の元で足を止めると、降ってきたのは怒りの声音だった。
「恥ずかしい真似すんな!」
「だって先輩、行っちゃいそう、だったから」
彼の怒りをものともせず、幸野は普通に返事をする。息を整えて、ふと前を見ると、彼のシャツの裾に名札を見つけた。『LA 貴城慶人』と書いてある。
幸野は背の高い彼を見上げた。
「先輩、シフト終わりですよね? 名札ついてますよ」
幸野に指摘されたことがそんなに嫌なのか、貴城はちっと舌打ちしてから名札を外しにかかる。
この大学ではLA――ライブラリーアシスタント制度といって、大学院生が図書館でアルバイトをすることができる。貴城はその内の一人、つまり大学院生である。
本来、まだ一年生の幸野と関わることはないのだが、幸野が図書館で怒られ、レポートを教わったことで顔見知りになった。
いや、顔見知り以上の関係になってる――と思っている。少なくとも幸野はそう考えている。
事実、レポートが進まなくて帰りが遅くなった幸野を、貴城は車で送ってくれたりしてくれる。それも一度のことではない。顔を合わせれば怒られたり、嫌みしか言われないが、自分は貴城にとってちょっと特別な存在なのかな――などと勝手に自負している。
「先輩、今日もう帰りますか?」
「いや、研究室行く」
「じゃ、私、待ってますね」
「別に待ってなくていい」
「レポート、終わってないんですよねー」
「とか言いながら図書館で寝る気か」
幸野はむっとする。
「違います。最近、先輩に教わらなくても何とかなるようになってきたんですよ?」
「ふーん。どうだか」
貴城が白い髪を揺らしながら、歩幅の大きい早歩きで進むため、幸野は半ば走って追いかける。この白い髪は、単に個人の趣味なのらしい。
貴城の所属する研究室のある棟の前まで行くと、貴城は無言で幸野を睨みつけてくる。
これを、『これ以上来るな』という意思表示だな、と受け取って、幸野は素直に引き下がる。
「じゃ、図書館で待ってますから」
満面の笑みを浮かべて幸野は貴城を見送った。
自分でも不思議なことに、貴城相手だと感情が豊かに表現できる。嬉しいのも、悲しいのも、倍以上になったかのように感じ、表現してしまう。高校までの幸野は、どちらかと言えば感情を表に出さなかった。親友の前だけは違ったが、貴城に感じる嬉しさと、親友に感じる嬉しさは何だか種類が違う。
親友は今、病院に入院している。訳あって見舞いには行けていないが、自分が変われたと自信が持てたら会いに行こうと決めている。
そんなことを考えながら、幸野は図書館のドアをくぐった。
「――おい。おい!」
はっと幸野は顔を上げた。
「やっぱり寝てんじゃねーか」
したり顔で貴城が見下ろしている。
「ち、違います。途中まではちゃんと。ほら」
貴城にレポート用紙の束を渡す。
その隙に幸野は、よだれ出てなかったかな、と自分の顔を手でこすって点検する。
「ほお。少しはできるようになったじゃねーか」
「はい、まあ」
「そこは、先輩のおかげです、だろ?」
「実力ですよ?」
幸野が胸を張ると、貴城は呆れた顔でねめつける。
「ほら、行くぞ」
「はーい」
例のごとく、貴城はさっさと歩きだしてしまうので、幸野は急いで机の上を片づけ始めた。
図書館を出ると、もう夜と呼べる時間になっていた。
貴城の後を追いかけるように歩きながら、幸野が空を見上げると、雲一つない深い藍色が広がっていた。中天に一点、丸く光る月がある。
月は強い光を放ち、二人を照らしていた。黄色がかった白い光は、見ていると何か力をもらえそうな、そんな強さを感じさせた。
「先輩、先輩」
「なんだよ」
貴城が振り向き、歩が遅くなった隙に、幸野がその横に追いついた。
「今日って確か、中秋の名月ですよ」
幸野は上を指し示す。
「ふーん」
貴城はちらりと空を見上げた。
「そういや、いい月だな」
「満月ですよ、満月」
「は? だから?」
「いえ、だから……」
満月といえば狼男で、先輩も狼に変身……なんて、などと馬鹿げたことを思いついていたら、
「なんだよ、狼にでもなってほしいのか」
思考を読まれたように、顔を近づけられた。
「いや、その……」
途端に幸野は体の中がドクンと鳴って、顔に熱が集まるのを感じた。どんな表情をしていいか分からない。月に照らされて、変な顔が貴城にも見えてしまいそうだ。
しかし、貴城はふん、と鼻で笑った。
「残念でした。中秋の名月は満月とは限らねぇんだよ」
「え?」
「調べてみろよ。今日は満月か」
挑戦的に言われて、幸野はスマホを取り出して調べてみる。
「本当だ、今日は満月って書いてない……」
「だろ? 満月がどうのって、お前、どうせ変なこと考えてたんだろう」
「いやいや、違いますよ! 変なことなんて考えてませんよ!」
幸野の慌てぶりに、どうだか、と薄く貴城が笑う。
学生用の駐車場に着き、貴城の白いコンパクトカーに向かう。
慣れた風に幸野が助手席側へと回ると、
「おい」
何故か貴城が間近にいた。
不思議に思って見上げると、肩をぐっと掴まれた。
え、と思っている内に、貴城の顔が近づいてくる。
――わ、わ、これってまさか……!
幸野は胸中で慌てふためきながらも、ぎゅっと目を瞑った。
一拍待った刹那、ペンッと張りの良い音がして、額に痛みが襲ってきた。
「痛っ……」
幸野が痛がって目を開けると、眼前で嘲笑っている貴城の姿があった。
「ばーか」
面白そうに一言投げて、貴城は運転席に向かう。
――何? なんだったわけ?
幸野は混乱しながらも、額の痛さに怒りがふつふつと涌いてきた。
乱暴にドアを閉めて、シートベルトを付けようとしていると、エンジンをかける音と共に、
「今日は満月じゃねぇからな」
貴城の呟きが耳に届いた気がした。
弾かれたように顔を上げ、貴城に目を向けると、
「早くしろよ」
いつものように睨まれた。
――先輩、今のって……。そう訊きたかったが、その勇気が出ないまま、車が動き始めた。
窓から夜空を見上げてみると、澄み切った月が強い光を放っていた。この光は幸野に勇気を与えてはくれないらしい。
幸野が黙したまま、車は進んでいく。
満ちる月は、唯そこにあるだけ。