呻吟
クラスメイトの田村将太が生徒指導室に連れて行かれたと聞いたのは、放課後に中庭を掃除していた時だった。
掃いても掃いても葉っぱは無くならないから、中庭の掃除当番はみんな適当に手を抜いている。
そこそこに集めた葉っぱをゴミ袋に詰めながら、翼は目をぱりくりさせた。
「カンニング? 田村君が?」
気が抜けた声で翼は呟く。それに答えるのはクラスの女子たちだ。
「らしいよ。社会だけやたら点数良かったって」
「ああいうのいると一気にクラスの雰囲気悪くなるよね」
「クラスの評価って、個人の内申にひびいたりするのかな?」
「え?! 最悪なんですけどそれって」
思い思いに、好きなことをいう同級生の声を耳にながし、翼はぎゅっとゴミ袋の口を縛る。
掃除用具を片づけながら、一人が翼に咎めるような声で忠告をはじめた。
「佐倉さんって田村とよく話してるよね? 仲良いの?」
「ふつー。弟同士が仲いいの」
「えー。弟も金髪なわけ?」
「小学生だから、ちがうと思うけど」
「ふうん。でもさあ、気をつけた方がいいよ」
一人がそういうと、周りがうんうんと頷き同意した。それぞれが訳知り顔で口をきく。
友達だと勘違いされたら内申ひびくよ。
そうだよ。受験もあるのに。
それとも佐倉さんって実はそうなの?
えー実は怖い人だったの?
くすくす笑っているクラスメイトに、何が面白いのか理解できなかった。将太はカンニングなんてカッコ悪いことはしないだろうと、翼は思う。社会の点が良かったのは自分との賭けのせいだ。そう、分かっている。
―― ただ。
「―― うん。そうだね」
自分たちと違うものとして、クラス女子のコミュニティから外されるのが怖かった。怖くて、同意した。
***
翼は学校から帰るとすぐに自転車に乗って校区外のショッピングモールに向かった。
エスカレーターに乗り、ぼんやりと店内を見回す。
洋服、靴、アクセサリー。水着の特設広場。見ているだけで楽しいはずのそれらに今日は、心躍るものを感じなかった。
お気に入りのショップにはすぐに着いた。ここと同種のショップは校区内にも数店あるけれど、品ぞろえはここが断トツによくて月に一、二度は足を運んでいる。
飾り付きのヘアゴムもかわいいシュシュもネイルシートも、何を見てもピンとこない。
ぼうっとしていたから、そばで名前を呼ばれた時はとてもびっくりした。
「呼んだだけでそこまでビビるか?」
振り向いた先には、金髪の少年がいた。
「田村君……。なにしてるの?」
「弟が百均行きたいっていうから連れてきた。つか、おまえホント百均好きなんだな」
「あ、うん。ここ、コスメ系充実してるから。ほかも種類多いし」
「ふうん。あ、弟見る? 今お菓子コーナーになんでっおまえ泣きそうなの?!」
普通に話していた相手の目から涙があふれそうになっていることに、おろおろしている将太を、翼はまばたきせずに見る。まばたきしたら涙が落ちそうで、それだけは絶対にいやだった。
「泣いて、ない。卑怯じゃないそれって」
「卑怯ってなにがだよ。意味わかんねえよ、うっぜーな。弟のお菓子買ったらいくから、おまえベンチで座ってろ」
「なんで? どこの?」
「エレベーター横の自販機スペースあんだろ。こんな店ん中で泣くなうっとしい」
焦りながら言う将太に翼は鼻をすすりながら。
「ごめ、ごめんねえ、うざくてうっとうしくて、自分でも思うぅ。ひくぅ」
涙を堪えていたら、かわりに鼻水が出てきた。ずびずび鼻をすすりながら、翼は素直に言われた場所に向かった。
翼の後姿を見送って将太は、お菓子を選んでいた弟の健太を確保してレジに急いだ。
数台の自動販売機と丸いベンチソファが設置されている休憩スペースで、翼は鼻をかんでいた。
泣き止んでいるのかどうかは、将太のいる場所からは見えない。
「お兄ちゃん、あのお姉ちゃん泣いてるよ」
見たままのことを報告してくる弟に「おう、そーだな」と答えて、翼に近づいていく。
「おい。まだ泣いてんのかよ」
赤い鼻に赤い目をした翼を見下ろして、どうすればいいのか悩む。
「泣いてないし。弟君? はじめまして、雄介の姉の翼です」
将太は「いや、泣いてるだろ」と、いう反論は口に出さずに自動販売機でジュースを買った。
健太は泣いていた子が友達の姉だと知り、目をまんまるに見開いて興奮をあらわにしている。
「ユースケくんのお姉ちゃん! なんで泣いてるの? お腹痛いの? お腹空いた? なんで泣いてるの? お菓子食べる? ガムあるよ」
「泣いてないよっ」
「泣いてんだろ。健太落ち着け。おらジュース買ってやるから。なにがいいんだよ。佐倉も」
「……レモンティー」
「オレンジ!」
二人にそれぞれ飲み物を渡して、とにかく飲ませて落ち着かせる。
会話、そう、会話しなくてはと、将太はじわじわ焦る。
泣いている女の子を呼びとめたのは自分だ。だから多分きっと、ここは慰めたり、話を聞いたりするべきシーンだ。そうは思うが、言葉が出ない。もうすぐ十五歳になるけれども、女の子を慰めた経験など一度もない。
どうしようか悩んでいると、六歳の弟が疑問を素直に口にしていた。
「ユースケくんのお姉ちゃん、なんで泣いてたの?」
「泣いてないもん」
「そうなの? 困ったねえ」
「うん。困ったねえ」
(なにが?)
困っていたら人の顔を見た瞬間から泣きだすんだろうか?
翼と健太の埒の開かない会話に、将太のほうが困ってきた。
意を決して話しかける。
「なんかあったのかよ」
ぶっきらぼうな言い様に、これはないだろと自分でも思ったが、やさしい話しかけ方がわからない。
「―― あった。は、あった」
けど、と翼は続きを言いよどみ、買ってもらったレモンティーを一口飲み、あのねと将太を見て言う。
「あのね、中間ときの社会のテスト、なんか先生に言われた?」
「ああ、カンニングしただろってやつな。もうクラスのやつら知ってんのかよ」
「やってないってこと、ちゃんと先生に言ったんだよね?」
「決めつけてるやつらが信じるかよ。どうでもいいよ。もうテスト受けねえって決めた」
恥ずかしくないのか。素直に言いなさい。どうしてこれだけ疑われているのか分かっているのか。信頼させてほしいんだ。聞いている途中で、何もかもどうでもよくなった。あんな奴らに信じてもらおうなんて思わない。
どうせ、クラスの奴らも疑っている。やっぱりねって、笑っているだろう。
「つかよ、俺のテストんことと佐倉の泣きになんの関係があんだよ」
「ぃ…っの」
「あ?」
「言えなかったの、田村君、そんなことしないって言えなかったの」
「だれに? ってかなんでそれで泣くんだよ」
「クラスの子に。泣いてないし、ごめん。やってないって、言えなかった」
些細なことで、それはじまる。ハブられるのは怖くて、嫌で、本当のことが言えなかった。言えない自分が卑怯で卑劣で矮小でとてもとても嫌で、申し訳なくて、泣いて逃げるなんてしたくないのに。
「お、お兄ちゃんがユースケくんのお姉ちゃん泣かせた!」
「泣いてないもん! 長いよ、翼でいいよ」
「泣かしてねえよ! 佐倉は早く鼻かめ!」
言うと翼は耳を真っ赤にして休憩スペースの端まで行き、鼻をかんで戻ってきた。すぐ隣で鼻をかむのが恥ずかしかったらしい。
女の子の羞恥心がどこら辺にあるのかが良く分からなかった。
この後はどうしようかと、そんなことを考えていたから反応が遅れた。
「修学旅行明けの実力テストがんばろうよ」
「ああ。……あ?」
「同じくらいの点数取れば疑われないと思うの」
「受けねえって言っただろ。どうせまた呼び出されるだけだよ」
かったるくてやってられっかと、将太は吐き捨てる。
話は終わりだ。そう思ったけれど、続いた翼の提案に何とも言えない気持ちになった。
「私も一緒に呼び出されるから。やってないって言うから。田村君がカンニングしてるとか、決めつけられたままなのって、なんか嫌だ」
「なんか嫌って、なんだよ」
「なんか嫌なの! ねえ、社会以外の成績ってどのくらいだったの?」
「…………国語、三四点、とか」
社会の次は国語が一番ましだった。数学は言いたくない点数だった。
「もしかして、漢字だけ正解?」
だけではないが、ほぼそうだったので口では応えず、頷きだけでかえす。
「記憶力良いんだから公式覚えたら数学も点とれるよ。一緒に勉強しよ?」
泣いてる同級生を気にしたら、お勉強の話になってしまった。おせっかい過ぎるし、関係ないことだろうと思う。
クラスのやつらと一緒になって、カンニングした馬鹿だと陰口をたたかなかっただけ良いやつだとは思うが――。本当に余計なおせっかいだ。
「田村君の家って、東図書館から遠い?」
「東図書館がどこか知らん」
「え? あそっか転校生だ。こっち来て一年経ってないんだっけ。明日は私、塾あるから土曜日に図書館行こう」
「はあ?」
「児童館あるし、雄介も連れて行くわ。健太君だっけ? 騒げるとこじゃないけど一緒に行く?」
「行く! いつ? どこにあるの? なん時から?」
「おいっ。勝手に」
「お昼食べてからにしようか? 一時に前に待ち合わせしたコンビニ」
勝手に決めるなと、きつい声音で言うと、翼は口をへの字にして。
「先生酷いと思うの。決めつけててさ。違うの証明して謝らせよう」
教師に間違いを認めさせ、謝らせる。それはとても魅力的な提案に思えた。だから、翼からの誘いを拒否しきれなかった。
弟は友達と遊べることを楽しみにしているし、当日に行かないわけにはいかなくなった。
教科書を読み込むことから始まった勉強会は、火・木・土曜の週三日に決まった。
真っ正直に机に座っている自分が、将太はとても奇妙に思えた。図書館の机に並んで座っている翼のことも、とても奇妙に思えた。
一度、翼に聞いたことがある。担任に自分の世話係をたのまれたのか? と。
翼はきょとんとして、そして笑った。
「違うよ。あのままなのが嫌だっただけ」
「お前、関係ないだろうが」
「田村君はやってないって証明したい」
だからお前関係ないじゃん。そう思ったことは口にはしなかった。
***
あと二日後には修学旅行だという日にも二人は図書館で落ちあい、机に向かっていた。
少し休憩をしようと背中を伸ばし、そういえばと翼が将太に聞いた。
「そういえば田村君は旅行の準備終ったの?」
「一応。でも、行くかわかんねえ」
「え? なんで?」
「健太、いるから」
二泊三日。家を空けるのが怖い。祖母が亡くなってからずっと放っておいたのに。父親が適当に菓子パンや弁当などをテーブルに置いていただけだ。それを知っているから、気になって家を離れられない。
(あれ……。なんだろう。気持ち悪い)
そういえば、祖母が亡くなってからも食べるものはちゃんと毎日あっただろうか?
自分が健太の分を支度するようになってから、いつの間にかテーブルに食べ物が置かれていることは無くなった。そのかわりなのか今までよりも少し多めに金が置かれるようになった。
風呂はどうしてた? 今は一緒に入っている。祖母がいた頃は? 亡くなった後は? シャワーはしてたはずだ。 洗濯は父親がたまにまとめてやっていた。学校のプリントや宿題はどうしてた? 今は自分が宿題の保護者チェックの判を押している。
春の遠足の、保護者へ向けたプリントを、丸めて捨てていた。
それ以外にも、もしかしたら捨てていたかもしれない。
(きもちわるい)
考えると頭と胸がぐらぐら揺れる。
オマエガ シネバ ヨカッタノニ
「田村君? 大丈夫? 汗すごいよ。気分悪いんだったら今日はもうやめとこう」
翼の声が膜越しに聞こえる。
慌てたように筆記具を片づける翼をぼうっと見るが、その視界も薄い膜がかかって見えた。
ふらふらと立ち上がる。なんだか幽霊とかゾンビみたいだと、他人事のように考える。
児童館のほうにいる健太を迎えに行こうとするが翼に呼び止められ立ち止まる。
「私が呼びに行くから。ロビーのソファーで休んでて」
そう言って、冷たいお茶が入っているからと水筒を渡された。
水筒を受け取り、そういえばこいつの弟も水筒を持っていたと思いだす。
(あれ、なんだっけ。水筒――。そうだ。水筒)
健太が生まれる前、母親がまだ生きていたころは、外に遊びに行くときは水筒を持たされていた。友達の家に行くときはお菓子もセットで……。
お母さんが全部していて、してくれていて。
ご飯の心配なんてしたことが無くて、おやつは欲しいとねだればいいだけで、遠足だって、お弁当には唐揚げを絶対に入れてと言うだけでよくて。
(けんたは、どうしてた……? だって、お母さん)
オマエガ シネバ ヨカッタノニ
(死んだ。死んでる。もういない)
水筒にお茶なんてないし、家に帰ったってご飯もない。
「お兄ちゃん。しんどいの? 大丈夫?」
不安げに覗き込んできたのは、お母さんではなく弟で。
お母さんは弟を産んで死んだから、もうどこにもいなくて。
弟の、健太のせいで死んだから。
(健太は今までどうしてた)
「大丈夫。落ち着け。ちょっと、なんか酔った」
固くふたをしていた記憶がこぼれた。こぼれた記憶に、感情が酔う。
健太だけでなく、翼も雄介も心配そうにしている。
「図書館暑かった? エアコンきいて無かったもんね」
「そうだな」
「もうちょっと休んでから帰る? 家まで送るよ」
下心のない親切心だとは分かったが、女子に家まで送ってもらうとか、恥ずかし過ぎて将太はきっぱり断った。
もらった水筒のお茶は冷たくて美味しくて、水筒やっぱ買わないとなと、手ぶらの健太を見て思う。
家に帰ってから、修学旅行の話を追及されなかったことにほっとした。
行きたいなんて、思うべきじゃないから――。