きっかけ
中学三年生になったばかりの四月。
自宅マンションの洗面所に置いてある、ふた付きのゴミ箱からそれを見つけたのはたまたまだった。
田村将太は偶然見つけたそれを強張った顔で見る。
心臓の音が耳にうるさい。
どくん。どくん。と、嫌な強さで脈が胸の中で打ち続けている。
洗面所に備え付けられている大きな鏡には、血の気の引いた少年の姿が写っていた。
お前が死ねばよかったのにと、かつて吐き捨てた言葉が、後悔とともによみがえった。
***
市立浜ノ宮中学校は、全校生徒八五九人の、そこそこに古い校舎に、掲げている校風も特出しているものもなく、グランドの広さもそこそこで、隅のほうに使い込まれた鉄棒と幅跳び用に砂場があるだけの、どれをとっても代わり映えしない、どこにでもあるような学び舎だ。
正門近くには人ひとりが入れるだけの小さな守衛室があり、登校時から下校時まで守衛が一人いる。
強いて学校の特徴をあげるとすれば、正門横に植えられたソメイヨシノが、とてもりっぱで美しいことくらいだ。
体育館を中心に校舎はコの字型に立っている。
北校舎二階。三年二組の教室は、昼休み中とあってとても賑やかだ。三年生になって間もないこともあり、受験の重い空気はまだなかった。
「三年になっても給食まっずいわ」
中途半端に硬くなった白身魚のピザ焼きを行儀悪く突いている友達の美香に、佐倉翼は頷いて同意する。
白米だけは美味しいけれど、おかずは全部いまいちな給食に毎日ちょっと、うんざりしている。
「ふりかけ持ち込み禁止とかおーぼーだよね」
「職員室見てみ? ふりかけどころか塩辛とかごはんのお供いっぱいあるから」
ひどい、ひどいと、たいした事のないネタで笑い合う。
「小学校の時は美味しかったのにな」
と、美香がぼやく。
「西小の美味しかったの? 浜ノ宮小は当たり障りのない味してた」
「お弁当のがいいよね。給食だと不味くて嫌いなのばっかでる」
「お母さんは給食で助かったとかいってるけどね。もうだめだ、ごちそうさま」
「わたしもごちそうさま」
不味すぎて食べれないと言いながら、廊下に置いている配膳車まで食器を片しに行く。残飯入れのバケツを見ると毎回、罰当たりだなとは思うけれど、それなら罰が当たらないように美味しいものを出してほしいと切実に思う。
「お弁当っていえば、今朝お母さんが買い物行かなきゃって言ってたわ。明日弟の遠足だから」
「翼の弟って小学生だっけ?」
「うん。一年生。お弁当、一段目が唐揚げで二段目がポテトサラダで三段目がきゅうりがいいんだってさ」
「あははは。きゅうり好きなんだ」
「河童って呼んでる」
食器を片づけて教室に戻ろうとした時、廊下の窓際にいた男子から「おい」と声をかけられて、二人とも足を止めた。
振り向いた先にいたのは少し素行の悪い、翼や美香とはグループが全く違うクラスメイトの田村将太だった。
脱色した金髪とピアス。着崩した制服。そんな子に呼び止められる理由がわからず翼は緊張し、それでもなるべく普通に「なに?」と返事をした。
将太は一瞬言いよどみ、それでも早口で一つのことを聞いた。
「明日弟が遠足って、浜ノ宮? 何年?」
「え? 一年生だけど――」
「……お前ガッコ終わったら西門まで来い」
「え? ちょ、なんで?」
言いたいことは言ったとてもいうように、将太は戸惑う翼を無視して非常階段から中庭に出て行った。
廊下に残された翼は助けを求めるように美香に目を向けるも「ノータッチ、ノータッチ」と全力で拒否された。
同じクラスになってひと月もたっていない。それに確か彼は去年転校してきたばかりで接点もない。
「せ、先生に相談したほうがいいかな?」
「うーん。でもさ、遠足のこと聞いてなかった? なんか聞きたいんじゃない?」
「なんでわたしに……」
「一年生のきょうだいいるのかもね」
いたとしても何でわたしに? と、腑に落ちないながらも。翼は放課後西門に行く覚悟を決めた。
決めた理由は五、六時間目共に右斜め後ろからの将太の睨みが恐ろしくて、行かずにいたら何をされるか分からない怖さがあったからだ。
***
放課後、重い足取りで翼は西門へと向かう。
(どうか、遠足のプリント無くしたからコピーとらせてとか、そんな用事でありますように!)
美香について来てもらいたかったが、終礼が終わるとそそくさと部活に逃げられた。
不良と関わりたくないと思うのは仕方がない。仕方がないけれども、薄情ものと恨みのこもった眼差しを部活棟に向けずにはいられなかった。
使われていない西門は細い路地に面していることもあり、行きかう生徒はあまりいない。
金髪の少年の姿は嫌でもすぐにわかった。止まりそうになる足を一生懸命動かす。
近づいてきた翼に気付いた将太は手にしていたプリントをどうするか迷い、結局そのまま手に持ってクラスメイトが来るのをまった。
少し怖がっている翼に申し訳なさと腹正しさが込み上げる。俺がお前になんかしたかよと、苛立ちが舌うちに出た。
苛々はするが怖がらせて逃げられると困る。将太は気を落ち着かせて、手に持っていたプリントを翼に差し出した。
プリントの見出しにはわかりやすく、春の遠足のお知らせと、書かれていた。日程・場所・持ち物等が書かれた、翼の家の冷蔵庫に貼られている物と同じもの。
翼は見覚えのあるプリントを見ながら疑問を口にした。
「なんでこんな皺くちゃ?」
「んなこたどーでもいいんだよ。この、持ち物ってとこ、これ売ってるとこ知ってるか? 金、あんまないから安いとこで」
怒るように言われ翼は肩をすくめるが、続いた言葉にきょとんとした。
視線の先にはバツが悪そうな将太の顔。
「持ち物って、どれがいるの?」
聞けば「全部」と答えがかえる。
去年引っ越した際にリュックなど、自分が持っていた物も大半捨てられて、弁当箱すら見当たらないらしい。
「スーパーで売ってる弁当箱とか高いから、お前安いとこ知ってたら教えろ……教えて欲しい」
口を尖らせながらも言いなおす将太に、最初感じていた怖さがふと無くなった。
「弟? 妹? キャラものこだわりある?」
「弟。キャラものは……わかんねえ」
言いづらそうに話す将太に、翼は「お母さんかお父さんとかは?」と聞いて「母親は死んでる。父親は役に立たねえ」と言われ質問したことを後悔した。
そもそも、保護者がいれば小学生の弟の遠足の準備など、中学生の兄が気にしてやる必要はないのだから。
少しだけ視線が高い同級生は途方に暮れた顔をしている。
「お金いくらあるの?」
「三千円とちょっと」
金額を伝えると黙り込んでしまった翼を見て、将太は頼まなければよかったと、なんだかすごく自分が恥ずかしく思えた。
翼の染めていない黒髪がさらさらと肩を滑べり胸元へ流れる様子をぼんやりとみる。制服だって校則通りのだ。聞く相手を間違えた。ここに誰かが来たらきっと自分が彼女をカツアゲしているようにしか見えないだろう。
「……もうい」
「よし! リュックも買わないとダメなんだよね? お弁当箱と箸箱とレジャーシートは百円ショップで買おう。水筒ある?」
「あ。え、ない」
「じゃあ、水筒はペットボトルで。大丈夫、百円ショップでかわいいカバー売ってるから誤魔化そう。リュックが一番高くつくと思うから先に買いに行こう。お弁当中身どうするの?」
「コンビニ弁当かなんか詰め直そうと」
「高いよ。スーパー行こう」
「お、おう」
諦めかけた時に次々に提案されて将太はすこし気圧された。でも何とかなりそうでほっとした。
***
翼は将太と待ち合わせ場所を再度決めて、着替えるために帰宅した。制服でうろつくのは目立ってしまう。大急ぎで着替えてカバンを引き掴む。
「おかあーさーん。明日の雄介の持ち物ってプリントの通りでいいんだよね」
「そうだけど。どうかした?」
「なんでも。行ってきます」
六時までには帰りなさいよという母の小言を、煩く思いながらも返事をして家を出る。
自転車で待ち合わせ場所にしたコンビニへ行くと、ミリタリーシャツにフード付きのベストを合わせたジーンズ姿の金髪頭の将太が先にいた。昇り龍の刺繍がはいったような服じゃなくてよかったと、翼はほっとした。ほっとしたことはもちろん本人には言えない。
「ごめん待った? 時間無いしすぐ行こう」
「店閉まるの早いのか?」
「うち門限六時。あと二時間ないから。リュックから行くよ」
「お、おう」
クラスの中ではおとなしめの印象だった翼が主導権を握って行動していることに、多少の戸惑いを覚えつつ、将太は翼の指示にしたがった。
最初に来た店は駅ビルの地下にある衣料品店だった。
服だけでなく、傘や靴なども取り扱っているようで、店内は狭い入口と違って広かった。
「田村君こっち。先にB級品でいいのあるか探そう」
「B級品?」
粗悪品かと眉をしかめる将太に翼は、自分が着ているデニムのスカートを軽く引っ張ってみせる。縁に刺繍が施されたお気に入りのスカートだ。
「B級品。ここだったかな・・・・・・刺繍が重なってるでしょう? こういうの安くなるの。リュックとかも置いてるから探そう」
「言われないとわかんねえ」
でしょう? と笑う翼を見て、将太はすぐ視線を外した。ほんの三十分ほど前まで怖がっていた相手に笑っている翼が宇宙人に思えてくる。
(ずっと、ビクつかれてるよかいいけどよ)
今まで関わりのなかった真面目なグループのクラスメイトと、ワゴンに適当に放り込まれている手提げやポーチの中から使えるリュックを捜索していることが、とても不思議に感じた。
***
その日将太が家に帰ったのは、夕方の六時を少し回ったころだった。
買い物袋を手にリビングへ行くと、弟の健太がテレビを見ているところだった。
なんと声をかければいいのか分からなくて、立ち尽くす。頭がしびれだしたころ、健太が小さな声でおかえりと言ってくれたから、将太は息を吸い込み「おう」と答えられた。
弟の傍にいき胡坐をかいて座りこみ、買い物袋から水色のリュックを取り出した。
固まっている弟の顔を見て、情けないのか悔しいのか申し訳なのか―― 鼻の奥がつんとした。
「明日これもってけ。弁当も用意するから。水筒は、ペットボトルのお茶で我慢しろ。代わりにほらカバーつけてやっから」
「う、うん。うん」
「あと、次からは、学校からもらったプリント捨てんなよ。俺に、にいちゃんに渡せ。何とかすっから」
「うん。うん」
「なんで泣くんだよ!?」
「う゛わああぁ」
泣きだした弟をどうしたらいいのか分からなくて、将太はごしごしと濡れた頬を袖口で擦った。
同じ年の弟がいる翼なら、こんな時どうやって泣きやませるのか、弟が泣いたときの対策を聞いておけばよかったと、将太はおろおろしながら考えた。
あんなことを言った自分がいまさら兄貴面するのかと、頭のどこかで罵りながら、もう泣かないでくれと懇願した。