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僕らの箱庭

優しい歌声

作者: 東亭和子

「出来ちゃった」

 そう言って目の前にいる女は恥ずかしそうに笑った。

「男の子と女の子どっちがいい?」

 どっちがいい?と聞かれても…

 返答に困っていると女が悲しそうな顔をした。

「やっぱり嬉しくないかな」

「いや、そんなことないよ。

 それより体は平気なの、母さん?」

 渡辺幸一は高齢出産になる母を見つめた。

 母は幸一を二十歳で産んだ。

 現在は三十五になる。

 まだまだ子供を産める年齢ではある。

 平気よ~と母は嬉しそうに笑う。

「来年は幸一もお兄さんになるのね。

 ふふ、嬉しいな。

 あ、でも受験と重なるわね。

 困ったわ」

「それこそ平気だよ。

 自分の実力の範囲内で受験するんだから」

 幸一が受験するのは私立和泉高等学校だ。

 受かる自信はある。

 だから多少のハプニングくらいなら平気だろう。

 でもまさかこの歳で弟か妹が出来るとは…

 嬉しいような、恥ずかしいような複雑な気分だった。


 遠くで赤子の鳴き声が聞こえた。

 目が覚めたようだった。

「先生、すいません、保健室へ行って来ます」

 幸一は声をかけて教室を出る。

 今は五限目だった。

 赤子の声は大きくなっている。

 ぐずっているのだろうか?

 幸一は保健室へ急いだ。

 保健室では保健医の藤田麻衣が千鶴(妹)を抱いてあやしていた。

「あら、お兄ちゃんが来たわよ」

 そう言って幸一へ千鶴を渡す。

 すると、ピタリと千鶴は泣き止んだ。

 いつ見てもすごいわね、と藤田は笑った。


 幸一は千鶴を連れて学校へと通っている。

 千鶴が生まれて半年後、母が事故で亡くなったからだ。

 幸一は途方にくれた。

 子育てなどしたことない。

 もちろん父だってそうだ。

 母にまかせっきりだったのだから、分かるはずもない。

 昼間、保育所へ預けることを考えたが、千鶴があまりにも泣くために、預けることは出来なかった。

 仕方なく、学校へ連れてくることにした。

 幸い、周囲は理解を示してくれ、保健医の藤田が授業中は預かってくれる。

 何かあったとき、すぐ傍にいるのは安心できた。

 幸一は千鶴の背中を優しく撫でた。

 安心したのか、ほどなく寝息が聞こえ始めた。

「もうすぐ授業が終わるわ。

 今日はこのまま帰ったらどう?」

 藤田の言葉に幸一は頷いた。

 少し保健室で過ごし、チャイムが鳴ると幸一は教室へと向かった。


「こんにちは」

 廊下で声をかけられた。

 振り向いたら先輩が立っていた。

「今日もすごく泣いていたわね。

 あら、でも今は寝ているのね」

 可愛い~と飛鳥は千鶴を見つめた。

 飛鳥と知り合ったのは保健室だった。

 彼女は幸一の母に会ったことがあるという。

 泣いている千鶴を抱きしめていた飛鳥。

 その姿が母にダブって見えたことがあった。

 それがそうなのだ、と飛鳥は説明した。

 信じられることではなかったが、飛鳥が嘘をつくとは思えなかった。

 だから幸一は信じることにしたのだった。


「お母さん心配していたよ。

 当然だよね、産まれたばかりでこんなに可愛い子を残していかなくちゃいけないなんて、悲しいもの。

 それに渡辺君のことも心配してた。

 ちゃんと面倒みれるかって。

 でも大丈夫みたいだね。

 すっかりお母さんだもの」

 そう言って飛鳥は楽しそうに笑った。

 飛鳥さん、と声が聞こえて飛鳥は振り返った。

「彰人君、今行くから、待って!」

 じゃあね、と飛鳥は幸一にバイバイをして去っていった。

 彰人は飛鳥の手を取り歩く。

 飛鳥は少し恥ずかしそうにしている。

 そんな二人の後ろ姿を幸一は見つめていた。

 いいな、そう思った。

 高校生活といったら、彼氏彼女だ。

 でも今、自分はそれどころではない。

 子育て中だ。

 腕の中の千鶴を見る。

 安らかな顔、ぎゅっとシャツをつかんだ小さな指、温かで全身を預けてくる体。

 それらを愛おしいと思う。

 守らなければ、そう思う。

 幸一はずり落ちそうになった千鶴の体を抱えなおした。


 帰り道、千鶴が目覚めた。

 機嫌は良さそうだ。

 このまま家まで行きたい。

 途中で泣かれるのは困るので、幸一は歌を口ずさんだ。

 それは母が歌ってくれたものだった。

 幸一はよく夜に目覚めた。

 そうして怖くて泣いていた。

 そんな時、よく母が歌ってくれた。

 優しい歌だった。

 その歌を聴くと安心した。

 だからよく覚えている。


 千鶴に歌ってあげたら気に入ったようだった。

 この歌を歌うと機嫌がいい。

「歌、うまいのね」

 突然、声をかけられて驚いた。

 見ると同じクラスの蓮見亜紀だった。

 何も言わない幸一を見て、亜紀は微笑んだ。

「私も家がこっちなのよ。

 たまに優しい歌声が聴こえるから気になって。

 驚いた、渡辺君だったんだね」

 亜紀は近寄り、千鶴に向かって笑った。

 千鶴も笑っている。

 周りを気にしたことはなかった。

 それにそんなに大きな声ではないから、聴いている人などいないと思っていた。


「恥ずかしい…」

 穴があったら入りたい。

 そう思った。

「どうして?

 恥ずかしいことじゃないよ。

 千鶴ちゃんはいいね、いつも聴けて」

 私ももっと聴きたいよ、と亜紀は言った。

「ねぇ、これからは一緒に帰ってもいいかな?」

 亜紀が幸一を見上げて聞いた。

 別に断る理由もない、だから幸一は承諾した。

 やった!と亜紀は喜んで笑った。

 その声に驚いたのか、千鶴が泣き出した。

 幸一は慌ててなだめ、歌を歌った。

 優しい歌声が青空に吸い込まれていった。


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