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九日目

 そして次の日。晴れて二人は恋人同士となった。朝、待ち合わせをして一緒に学校へと向かう。


「途中、コンビニ寄るけどいいか?」


「いいよ~」


 樹の質問に快諾する愛乃。夜の饒舌とはうって変わって、思っていたよりも静かな朝の通学光景。けれど、何もかも違う。そう何もかも違った。樹は思う。隣に愛乃がいること。これがなんだかくすぐったい。いつもの朝の臭いを吸い込んでも、愛乃の臭いが混じっている。そうして昨日の記憶。昨日の少し恥ずかしい記憶。それがとてもくすぐったい。笑い出したくなるくらい、くすぐったい。二人ともそれを互いに掘り返せずに、どこかぼんやりとしたまま、並んで歩いて行く。初々しい、恋人達の始まり。


 二人は学校に着く。考えてみれば教室まで一緒だ。樹はなんだか気恥ずかしい。


「お誘いは丁重にお断りするんだぞ」


「そんなのわかってる」


 今更ながら念を押して、愛乃をちょっと不機嫌にさせたりもする。


「ああ、なんか、緊張してきた」


「もう、しっかりしてよ」


 そんなことを言って、愛乃をちょっと笑わせたりもする。


 そうして二人は一緒に――とは愛乃のぽっちゃりとした体のせいでいかなかったが――縦に並んで教室に入る。樹は愛乃を彼女の席までエスコートして、それじゃといって自分の席へ向かう。視線が僅かに集まった。が、思ったほどではなかった。なーんだと樹は気が抜ける。本当は心臓がバクバク言っていた。椅子に座り直す。愛乃の方を見ると、もう友人達との会話の輪の中に入っている。その切り替えの早さに少し不満を持ちながら、これが男女の違いかと思い知る樹。だが当の愛乃にしてみれば、友人の、いや元紀の誘いをどう断るかという戦いの一種なのだが。そんなことを露とも思わない樹は何気なく前を見て、そうして気分が少し沈んだ。日野由衣。無臭の少女。自分を好きだと言ってくれた少女。彼女の後ろ姿を見ただけで。


 もう過ぎたことだと樹は頭を振る。自分は愛乃を選び、ここにいる。愛乃に選ばれてここにいる。それからはみ出してしまう人がいるのはどうしようもないことなのだ。


 HRが始まり、授業が始まる。由衣は一度も樹の方を見なかった。


 一時限目が終わる。愛乃が臭いを振りまきながらやってきた。


「いつきー。今、ちょっといいかな」


「いいぞ」


 愛乃の言葉に樹は答える。そのまま二人して立ち上がって教室の隅へ。そうしてどこか小声で話し合う。


「どうもね、信じて貰えないみたい」


「何がさ」


 愛乃の臭いを身近に感じながら、樹。


「わたし達が付き合っているって」


「なんでさ」


「ほら、わたしと樹とは幼なじみだから。逃げる口実にしているだけなんじゃないかって、みんな言うの」


「まあ事実ではあるよね」


「ひどい。昨日、あんなことしたのに」


「けれど、事実だろ」


「そりゃあ、そうだけど。今は言って欲しくない言葉だよ」


「……ごめん」


 とりあえず謝る樹。どうもぎくしゃくしている。互いの心に深く踏み込んだせいか。これが話に聞く男と女の恋愛観の違いか。樹はそれに振り回されている自分を感じた。うまくいくのかな、自分たち。そんな不安さえ覚える。


「それで、どうすればいいかな」


 愛乃が尋ねる。切り替わりが早い。樹はまた振り回される。こんな気持ち、どこかで感じたことがある。自分の席がある方を見る。クラスのみんなが離席したり談笑したりしている中、一人座る黒髪の少女。


 日野由衣。そうだ、由衣と付き合っているときもそんな感じだった。樹はぼんやりと思い出す。どうして由衣と話すようになったんだっけ。そうそれは、写真。愛乃が撮った写真だ。あの写真のせいで、振り回されて、遠回りをして、いまここでこうして愛乃といる。写真。そうだ写真だよ。樹の心に何かがひらめいた。


「写真でも撮ろうか。二人並んで」


「あ、それいいかも」


「じゃあ学校の帰りゲーセンのプリクラでもやるか」


 樹の言葉に愛乃は笑う。


「いまどき古いよ。スマホやケータイにだってカメラ付いてるのに」


「そうか……じゃあ、愛乃のスマホで昼休みにでもちゃっちゃっと撮っちゃうか」


「そうだね。今はさすがに恥ずかしいし」


 周りを見回して愛乃が言う。樹もそれに応じる。


「じゃあ昼休みに」


「うん」


 樹はその言葉を聞いて、自席に戻ろうとする。そんな樹を愛乃が言葉で呼び止めた。


「ねえ。いつき」


「ん」


「まちどおしいね」


 樹が振り返ると、輪っかにした手を口に当てて愛乃が小さく叫んでいた。


「……そうだな」


 樹は普通に愛乃に返す。そうしてまた背を向けると、どこか照れくさそうに少し肩をいからせて自席へ帰って行った。


 昼休みになった。パンの入ったコンビニ袋を持って、愛乃を待つ。愛乃はお弁当だ。愛乃はお弁当の入った鞄を持って樹の所へやって来た。


「行こうか」


「うん」


「中庭でいいかな」


「踊り場がいいな。その……二人っきりになれるし」


「じゃあそうしようか」


 二人して本来ならば雨の日の指定席へ向かう。ここは以前、由衣と女子グループがやり合った場所でもある。その痕跡は何もないけれど、樹の記憶は鮮明に覚えていた。


『あそこで初めて日野さんと手を繋いだんだっけ』


 正確には腕を掴んで引っ張ったのだが、樹の中ではそうした思い出になっていた。


『そういえば愛乃とはまだ手を繋いでないな』


 まあそのうち繋げるだろうと樹は思い階段を上るのもしんどそうな愛乃に尋ねる。


「ご飯先にするか? それとも写真撮っちゃうか?」


「写真が先ー」


 追いついて愛乃。ハンカチで僅かに浮いた汗をぬぐう。愛乃の馥郁とした臭いが、樹の鼻に届いた。汗をぬぐいながら愛乃が言う。


「おなか空いてるけど、もう少し我慢する」


「悪いね」


「いいよ。どうせ撮るなら少しでもいい写真が撮りたいし」


 そう言って愛乃は鞄を置くと中からスマホを取りだした。樹もコンビニ袋を鞄の隣に置く。パンの入ったコンビニ袋はしなっと崩れて愛乃の鞄に寄りかかった。


「それじゃ、並ぶか」


 準備を終えた樹が言う。


「うまく撮れるかな」


 愛乃は少し鏡を見て自分の髪型とかを整えていた。樹はそれが終わるまでしばらく待つ。


「それじゃ撮ろっか」


 二人並んで、愛乃は腕を伸ばしてスマホを横にして二人カメラに入るようにする。愛乃のスマホは両面にカメラが付いているタイプだ。画面を見ながら写真が撮れる。けれどもスマホの画面に二人の姿が……なかなか写らない。


「もうちょっと、近づいてよ」


「わかった」


「もっと近く」


「これ以上近づくと腕がぶつかるぞ」


 樹が言うが、愛乃は不満そうに答える。


「ぶつかってもいいの。恋人同士でしょ。それに昨日、あんなことしたくせに」


「……わかった」


 腕をぶつけ、重ね合う。


「組んじゃっていいよ」


「ああ」


「顔もこっちに近づけて……」


 言われるまま愛乃の巨体に絡んでゆく樹の体。女体に絡む蛸のようだなと樹は自分で思った。


「とるよー」


「わかった」


 間延びした愛乃の声と、緊張した樹の声。そうして小さくメロディアスな音を立て、スマホは、二人の並んだ姿を映し出す。


「なんかいまいち。もう一度撮りたい」


「……うん」


 また樹は愛乃の体に絡んでゆく。


「わたしも、顔近づけるね」


 そう言って愛乃も顔を傾けた。二人の頭が、音も立てずにぶつかる。


「なんか近すぎじゃないか?」


「これくらいじゃないとうまく入らないー」


 声だけではなく頬の肉の振動まで、二人は今共有している。


「愛乃の腕が短いんだよ」


「ひどい。それじゃあ、いつきがシャッター押す?」


「使い方がよくわからん」


「じゃあ我慢して」


「我慢はしてない」


 実際にそうだった。愛乃の体はどこかひんやりしてて、樹には心地よかった。そうしてその柔らかさ。絡み合っている二の腕が、横腹が、頬が、こんなに柔らかい。確かに触り心地がいい。良さそうじゃなくて、すごくいい。樹は元紀の言った言葉を思い出していた。確かにこれは極上の触り心地だ。あの小学生の慧眼も大した物だと樹は妙に感服していた。そうしてそれを独り占めしているという実感。独占欲。それが満たされて、樹はとても満足していた。愛乃と恋人になって、こんなに満足したのは初めてかもしてない。


「んもーへらへらしないの」


「え?」


「みんな写っているんだから」


 愛乃の視線はスマホの側にある。樹それを追って見ればたしかに口元がにやけた自分の姿があった。恥ずかしい。樹は口元をきゅっと締める。


「それじゃ、また撮るよー」


「わかった」


 またメロディアスな音がして、二人カメラに収まった。


「今度はうまく撮れたかな」


 二人して顔を並べてスマホの画面を覗き込む。


「わたしの顔がちょっと堅いかな。もう一度撮ってもいいかな」


 愛乃が真剣な眼差しで写真を見比べながら言った。


「昼休み終わっちゃうぞ」


 樹が答える。樹は、なんだか無性にムラムラしてきていた。それを他に逸らすためにあえてそんなことを言う。


「駄目、もう一枚」


「わかったよ」


 もう一度同じことを繰り返し、愛乃はため息をついて言った。


「はぁ、なんか、うまくいかない」


「僕はこのままでもいいと思うけど……。それとも誰かに撮ってもらう?」


 どこか上気した顔で樹が尋ねる。樹の頭は、愛乃の臭いと感触でもう沸騰寸前だった。このまま続けていたら、どこかで一線を越えてしまいそうになるくらい。


「やだよ。なんか、恥ずかしい」


「それじゃあプリクラで撮るか。古きに習えってな」


 樹が提案する。とにかく写真撮影を続けるのはまずい。自分で自分が抑えられなくなる。


「それもありかなー」


「じゃあ、放課後ゲーセン行こう。それに、そろそろご飯食べないと本当に昼休み終わっちゃうぜ」


「そうだね。……少し考えてみる」


 こうして写真撮影は一旦終わった。二人並んで階段の段差に座り、普通なら言わない『いただきます』の挨拶をして樹はパンを食べ始め、愛乃は鞄から取り出した重箱みたいなお弁当の蓋を開ける。むわっとしたお弁当の臭いが樹の鼻に届く。それはどちらかと言えば、樹の苦手な臭いだったが、これからは我慢していかなければならないんだろなと自分に言い聞かせた。そんなことに当然気づかない愛乃は、当たり前のようにお弁当を食べ始める。


 幼なじみの愛乃とはいえ年頃の女子との二人っきりでも食事なんて樹にとっては初めてで、なんと言えばいいのかわからない。樹は自然と言葉が無くなり、愛乃は食べることに集中しているので、こちらも言葉がない。無言のまま黙々と、凄いスピードで愛乃はお弁当を平らげてゆく。樹はそんな愛乃の姿を驚きを持って見守っていた。


 やがて。


「ごちそうさまー」


 そう言って愛乃が食事を終える。樹はまだ八割と言ったところか。愛乃はお弁当箱を片付け、鞄にしまう。そうして樹の方を無言でじっと見た。


「少し食べるか?」


 なんとなく言わなければならない空気を読んで樹が尋ねる。


「うん」


 ためらいなく答える愛乃。だからこんなにぽっちゃりなんだと樹は改めて思う。パンを半分に割り食べかけではない方を愛乃に渡す。その時に触れた愛乃の手がひどく熱を持っていて、樹は驚いた。そうしてお弁当の臭いをかき消すように臭い立つ愛乃の香り。どうやらお弁当を食べて体が火照ってきたらしい。あのお弁当の臭いが愛乃の甘い臭いに変ってゆくと思うと樹はなんだか不思議な気持ちに囚われた。ぼんやりと愛乃の姿を見つめる。熱のせいか服も少し汗ばんで、ブラ紐がシャツ越しに微かに見えた。少し胸がどきっとする。それを敏感に察知したのか、愛乃が尋ねてくる。


「なに?」


「いや、なんでもない」


 そうやってごまかして残ったパンを口に押し込む。


「……どうせよく食べるなとか思っていたんでしょ」


 すでに分けたパンを食べ終えた愛乃が言う。


「そんなことないさ」


 呑み込むようにパンを胃へ押し込み慌てて樹が言う。


「いつきは、そういうこと言わないと思ってたのに」


「言ってないだろ」


「そうだけど、心で感じたよ」


「勝手に感じるな。ほら」


 樹は手を差し出し愛乃の手を握った。


「もう」


 そう言いつつも握り返してくる愛乃。


「好きだよ」


「うん」


 耳元で囁く樹の言葉に頷く。そしてしばらく、二人手を握り合って無言のままでいた。握っていた手が汗で湿ってゆく。


 やがて、甘い時間にも終わりが迫り、どちらともなく手を離す。


「そろそろ降りよっか。歯も磨かないといけないし」


「そうだね」


 そう言うと二人立ち上がり、愛乃は鞄を肩にかけ樹はコンビニ袋を片手に並んで階段を下りてゆく。そうして降りて教室へ向かいながら二人話し合う。


「写真はどうしようか。ゲーセン行くにしてもよく考えたら僕生徒会あるし」


「終わるまで待ってるよ」


「どこで?」


「教室で」


「じゃあなるべく早く抜け出してくるね」


「ありがと」


「じゃあ教室に鞄置いてくるから」


 教室の前で樹に向かって軽く手を振りながら愛乃は言った。


「ああ、また後で」


 樹も手を軽く上げて応じ、そうして二人は一旦別れた。


 樹が振り返ると、意外と視線が自分たちに向いていた。朝はそれほどでもなかったのに。二人の仲が浸透し始めていると言うことだろうか。樹はそんなことを思いながら水飲み場へ向かう。


「変態」


「ん?」


 どこかでそんな声が聞こえたような気がして、樹は思わず足を止めた。けれど気のせいだったらしい。樹は歩みを再開させる。そんな感じで恋人初日の昼休みは終わって行った。


 午後の授業が終わり、放課後になった。いつものように生徒会に行く前に、樹は愛乃の席の方へ向かう。愛乃はいつものグループと話し合っているみたいだった。樹は少し離れたところで話が終わるのを待つことにした。やがて話が終わり、いつものグループは愛乃を置いて帰って行く。帰り際に愛乃の恋人である樹の顔を横目でちらちらと見ながら。樹は見られていることに気づいてかなり気恥ずかしかったが、我慢して表情に出さないようにした。そうして彼女たちが教室から出て行ってから一人残された愛乃に話しかける。


「何話してたの」


「今日は用事があるからみんなとは一緒に帰れないってこと」


 愛乃の言葉に樹は照れくさそうに返す。


「なんか悪いね」


「いいの。とりあえずわかってくれたし」


「じゃあ写真も要らないかな」


「えーわたし欲しいよ」


「そうだね。僕も欲しい」


 樹は愛乃の言い分に同意した。愛乃はじっと樹の目を見て言う。


「だから、待ってるから」


「うん、ありがとう。それじゃ、行ってくる」


 愛乃の視線の中で真っ直ぐに頷く樹。愛乃はそんな樹の姿を見てにこっりと笑った。


「行ってらっしゃい」


 その言葉を背に受けて樹は生徒会室へ向かう。教室を出るまで視線がじっと自分の背中を追っているのを感じ、樹はそれをなんだか気恥ずかしいものと思った。


「失礼します」


 いつものように言って生徒会室の引き扉を開ける樹。生徒会はいつも通り暇だった。そろそろ期末テストなので行事もない。樹は早く帰れないかと、いつにもまして上の空だった。そんな樹に霧絵生徒会長が尋ねる。


「そういえば、あの子には伝えた?」


「伝えるって何をですか?」


 半ば上の空で樹。


「同好会設立許可のこと」


「ああ、まだ……」

 その言葉を聞いてほろ苦い思い出が、樹の中に蘇る。あれからそんなに時間が経ってないのに。いや時間が経ってないからこそだろうか。日野由衣。彼女との出会いと別れはまだ思い出にはなっていない。実際にがい顔をしていたのだろう。霧絵会長が言った。


「伝えにくいなら、あたしが直接伝えようか?」


「お願いします」


 素直に会長の言葉に甘える樹。


「あら弱気」


「すみません」


「まああんなごたごたがあったから仕方ないわよね。今度折を見てあなたの教室に行くわ」


「お願いします」


 会長に向かって頭を下げる樹。そんな樹を見て会長はぽつりと言った。


「上月君って甘え上手よね」


「……そうでしょうか」


「見てて飽きない。いじっても面白いし」


「ひどい」


「ふふふ、その様子だと、とりあえず機嫌は直ったみたいね」


「それどころか、女と歩いてるの見ましたよ」


 同学年の生徒会役員――たしか高槻と言った――から横やりが入る。会長はそっちの方を向いて目を丸くする。


「本当? 切り替えが早いのね」


「そういうわけでは」


 樹は反論したかったが、客観的に見ればその通りだなと思い、口の中で言葉の力が消えてしまった。


「で、どんな女の子?」


「ええと……上月に聞いた方が早いと思いますが」


 横やりを入れた高槻は会長の質問に口ごもる。どうやら自分の口から言いにくいらしい。その言葉を受けて会長は樹に向き直る。


「ねえ、どんな子と付き合っているの」


「普通の……子ですよ」


「あれはどうみても違うだろ!」


 樹が答えると間髪入れずに高槻が突っ込みを入れる。いや入れざるをえなかったというか。


「うるさいな」


 そして、愛乃を馬鹿にされてると感じ、いきり立って高槻を睨み付ける樹。


「悪かった。でも、なぁ……」


 樹に睨まれても高槻は消え入りそうな声で未練がましく言う。


「まあ、端から見ればそうかも知れない。けれど彼女は僕が選んだ子です」


「前にも言った本命ですか。振られたとか言っていませんでしたっけ」


「仲直りしました」


 眼鏡の副会長の会長への言葉に割り込んでそう答える樹。


「本当に本命だったのか。俺はてっきり適当に付き合いやすそうなのと付き合ったのかと思った……」


「人からどう思われようが構わないけれど。ちょっといまのはカチンと来た」


 高槻をまた睨み付ける樹。そんな二人を霧絵会長が仲裁する。


「まあまあ。けど、そこまで言われるんなら一度見てみたいわね」


「見ても面白くはありませんよ」


 触ってみなければ、臭いを嗅いでみなければ。まあ臭いについては好き嫌いがありそうだけれど。樹はそんなことを思う。


「でも上月君がどんな女の子を選んだのか見たい。教室行ったときにでも紹介してくれる?」


「そんなことしなくてもそのうち見られると思いますよ。……目立ちますし」


「受験生は僅かな暇も惜しみたいの」


「それじゃあ気が向いたら」


「約束よ」


「はいはい」


 もうこの話は終わりにしたかったので、適当に流す樹。けれども紹介か。なんだか面倒なことになったなぁと思う。どうして会長にそんなことしないといけないんだろう。今更になって樹はいぶかしむ。そんなことを考えているうちに樹はまた上の空になり、そんな風にして生徒会の暇な時間はダラダラと過ぎていって、終わった。


 ――だいぶ遅くなってしまった。生徒会室を出た樹は教室への道を急いでいた。まだ日は高いとは言え、結構な時間を生徒会で潰してしまった。愛乃、待ちくたびれているだろうなと思い、樹の胸は申し訳ない気分で一杯になる。教室の扉は開いていた。樹はそっと中を覗き込む。


 いた。


 傾いた日差しの中、愛乃は自分の席に座って静かに目を閉じていた。眠っているのかと思ったが、違うようだ。ただ待っている。誰を? 自分を。樹はそんな愛乃の祈るような姿に少しの間見とれてしまった。ただ自分を待つために、座り続ける愛乃の姿を。そうしてはっと気がつくと、悪いと思って慌てて声をかけた。


「愛乃」


「あ、いつきー」


 呼んだ声は小声だったけれど愛乃は目を開けてこちらを向く。別れたときと何も変わらない声に何故か安堵する樹。声をかける。


「寝てるかと思った」


「寝てないよ」


「そうか、待たせたな」


「いいの。待っているのも案外楽しかった」


「そう?」


 樹は首をかしげると、愛乃はクスリと笑った。その笑顔に照れた樹は愛乃を促す。


「それじゃ、行こうか」


「うん」


 鞄を持って立ち上がり、愛乃は樹に近づく。今日の愛乃の臭いはいつにもまして強烈だった。樹はそんな愛乃を今すぐ抱きしめたいと思ったが、ここは堪えて横に並ぶ。充血した股間が少し痛い。樹は気づかれないようにそっと鞄で隠す。こういうとき女が羨ましくなる。まあ、樹の場合臭いで何となくわかってしまうのだが。今の愛乃は、自分とたぶん同じだ。


「とりあえず、駅まで」


「どうせ通るものね」


 そんな会話をして二人靴を履き替え、校舎の外へ。


「あついね」


「ああ」


「はやくいこ」


 二人並んで歩き出す。学校を出たところで樹が言う。


「手、繋ごっか」


「いいの?」


「あたりまえだよ」


 樹は愛乃に向かって手を差し出す。差し出された手を愛乃は軽く握った。愛乃の手は柔らかく、どこか冷たい感触。それだけでなんだか樹は嬉しい気持ちになる。頬が染まる。そうして二人はゆっくりゆっくり歩き出した。


「ねえ、今もそうだけど、いつきって結構強引だよね」


 歩きながら愛乃は樹に言う。


「そうかな」


「自覚ないの?」


「あまり」


 正直に樹は答えた。


「昨日だってそうだったし、いつき、すごく強引だった」


 いつの間にか愛乃の中ではそうなっているらしい。樹は少し口をとがらす。


「夕べは少しって言ってたぞ」


「そうだったっけ」


「このままだと、無理矢理僕が愛乃を彼女にしたみたいに思われる日も近いな」


「それは事実じゃないかなー」


「そうかな」


「そうだよ」


 疑問形の樹にきっぱりと愛乃。そのまま少し歩いて、樹はため息と共に言った。


「まあ、別にそれでもいいか」


 それならそれでいいと樹は思う。どうやって手に入れたよりも、今どうしているかの方が大事なのだ。そのまま二人しばらく黙って歩いた。やがて愛乃がポツリと言う。


「でも、いつきのそういう所、好きだよ」


「えっ」


 その言葉に敏感に反応する樹。愛乃は慌てて言葉を訂正する。


「……嫌いじゃないって言ったの」


「いやお前好きって」


 記憶に間違いがないなら初めて愛乃から好きだと言われたはずだ。けれど愛乃はそれを隠そうとする。いやむしろ無かったことにしようとする。愛乃の顔は真っ赤だったけど。


「ごめんなさい」


「なんであやまるのさ」


「誤解、させちゃったかなって」


「誤解? なんで。別にいいじゃない」


 樹は言うが、愛乃はぺこりと頭を下げる。


「……ごめんね。ねぇこの話は終わりにしない」


「愛乃から始めたくせに」


 樹は食い下がるが愛乃は頑なだった。


「……いいじゃない。ね。終わりにしよ」


「わかったよ」


 愛乃が目を逸らして懇願するように言うので、しかたなく樹も了承した。そうしてまたちょっと二人ぎくしゃくしながら、それでも手は離さずに駅まで歩く。樹は愛乃の真っ赤な横顔を見ながら思う。愛乃はどうして自分のことを好きだって言ってくれないんだろう、さっきの言葉を認めてくれないんだろう。自分は何度も何度も好きだと言っているのに。樹は不公平さを感じてしまう。そうして若干の不安感。本当は好きじゃないのかも知れないという不安感。けれど昨日あんなことしたんだし、今日だって並んで写真を撮ったり昼を一緒に食べたし、これからだって一緒にゲーセンに行くんだし、愛乃の臭いはまず間違いなく自分を好きだと言っている臭いだし、杞憂なんじゃないかと心を落ち着かせる。けれど心の奥底に、黒い影が少し残ってしまうのはどうしようもないことだった。そう、どうしようもないことだった。起伏が激しい。喜びも悲しみも。


『恋人になればそれで終わりというわけじゃないんだな』


 黒い部分を消すように樹は感慨深げに思った。まあでなければ恋人同士が別れたりすることなんてこの世にあり得ないわけで、そうして樹はまた一人の少女の姿を幻視する。日野由衣。そうだったな。あれもその一例だよな。樹は思い、その幻を消した。でも心には残っている。まだしばらくは苦しめそうだ。まあ仕方ない。それも自分への罰だろうと樹は考えた。


「何ぼーっとしているの?」


「ん、なんでもない」


「そろそろ駅つくね」


「ああ、そうだな。……あ、看板」


 樹は空いた手でゲームセンターの看板を指さす。そうして二人は駅の側にある若干古ぼけたゲームセンターに入っていった。


「いつきはプリクラって撮ったことある?」


「ないな。愛乃はあるのか」


「中学生の頃から友達と何度か」


「じゃあ、ここも先生にお任せしますか」


「はいはい、任されました」


 笑いながら愛乃は樹の冗談交じりの言葉に答えながら先行してどんどんゲーセンの中を進んでゆく。


「こっちの側は行かないな」


「男の子だもんね」


「だいぶコーナーが小さくなっちゃった」


「時代の移り変わりだね」


 プリクラの機能はだいたいスマホのアプリで実装されてしまっている。まあ肝心のシールにすると言う部分ではまだまだ現役なのだが、恋人同士にとって別にシールという形状にこだわる必要はないのだろう。


「そうだね……ここ、入ろう」


 どこか寂しそうに愛乃が言いながら機械を選ぶ。そして二人はプリクラのカーテンを開けて撮影エリアに入っていった。


「ここなら無理せずに写真が撮れるな」


 樹は中に入るのは初めてなので色々と見回す。そんな樹を楽しそうに見守る愛乃。やがて気がついたように言った。


「ああお金入れないと。とりあえず、わたしが出すね」


「悪いな。あとでジュースでもおごるよ」


「ありがと」


 愛乃は投入口に硬貨を入れてゆく。値段を見て樹は驚いた。四百円。


「うぁ。高っ。……こりゃジュースどころじゃ済まないな」


 樹はおそるおそる愛乃の顔を覗いながら言った。さっきの言葉はどうやら軽率な発言だったなと思いながら。


「昨日、休んだわたしにいろいろ差し入れ持ってきてくれたでしょ。それでおあいこ。……でもジュースはちょうだいね」


「ありがとう。そう言って貰えると助かる」


「うん。じゃ撮るね」


「わかった」


 そうして二人並んで写真を撮りはじめる。さすがにプロの機械。二人入ったポーズで不自然無くフレームに収めてくれる。樹は感心したが、愛乃はそれでは物足りないようだ。樹に言う。


「もっとお昼みたいに近づいていいんだよ」


「そう?」


「うん」


「じゃあ失礼して」


 樹も愛乃の体に触れることに否やはなかったので、腕を体を絡めてゆく。やっぱり昼のように軟らかな肉の感触が樹の触覚を刺激する。今まで歩いていたせいで愛乃の体は昼より熱と湿り気を持っていた。そして液晶パネルに絡み合う二人の姿が映って視覚でも樹の脳を刺激する。さらに嗅覚では――言うまでもない。最後に顔を傾けて、互いに頭をぶつけ合った。


「……これで、恋人同士に見えるよね」


「……これで見えなかったら困る」


 画面を見ながら二人で言い合う。


「じゃ笑って」


「うん」


「はい撮るよ」


 音声アナウンスが流れ、そうして二人は写真を撮った。


「らくがきとかする?」


「僕はいいよ。愛乃は?」


「初めてだから無しでいいかな。それにいつきは落書きにいい思い出無いでしょ」


「……まあね」


 些細な言葉がまた樹の心を傷つけた。けれど樹はそれをそっと隠す。


「はい、できた」


「もう出来たの?」


「とりあえず。実物はしばらくしたらここから出てくるよ」


「じゃあちょっと待つか」


「うん。出来たら、一枚樹にも渡すね」


「ありがとう」


 やがて排出口から、現像されたプリクラが出てきた。


「どんな感じ?」


 樹が尋ねる。


「ほら、こんな」


愛乃が樹に出来たプリクラを見せる。


「うーん、ちょっと恥ずかしいな」


 自分と愛乃が顔と体を寄せ合って微笑んでいる写真が何枚も並んでいるのを見て樹はそんな感想を言った。


「そうだね……」


 愛乃も手にしてしばらく眺めた後、慣れた手つきで備え付けの鋏を使ってプリクラを切り取っていく。ここは女子の独壇場だ。樹はそんな様子をぼんやり眺めるしかできない。


「はい」


 そしてその言葉と共に一枚樹に渡される。樹はそれを重々しく受け取った。


「ありがとう」


「生徒手帳にでも貼ってね」


「ああ、そうするかな」


 愛乃は残りのプリクラを鞄にしまい、樹もポケットから生徒手帳を取り出して愛乃にもらったプリクラを挟む。そうして愛乃は明るい声で樹に言った。


「じゃあジュースおごってよ」


「わかったわかった」


 ポケットに生徒手帳を仕舞いながら樹は愛乃に答える。


 二人で樹がお金を出したジュース――もっとも樹はお茶だったが――を飲み飲み、たわいのない話を続けながら帰り道を歩いて行く。駅を抜け、気がつけば二人の家の分かれ道まで来ていた。場所は閑静な住宅街。ぴたりどちらとも無く歩みを止める。


「それじゃあ」


「うん」


「また明日」


「うん」


 何か言葉だけでは物足りない。愛乃もいつになく寡黙だ。だから樹は愛乃の正面に回って彼女の巨体を軽く抱きしめた。愛乃もそれを待っていたかのように受け入れる。いや抱き返してくる。気がつけば今生の別れのように、抱擁はきついものになっていった。樹は愛乃の軟らかい肉と臭いに溺れ、愛乃は樹の固い男の肉体を感じる。


「また夜に電話するね」


 愛乃が樹の耳元でようやく『うん』以外の声を発する。


「ああ」


「絶対に絶対に電話するね」


「ああ」


 今度は樹が寡黙になる番だった。そうして互いに互いを離す。


「はは、近所の人に見られたかも」


 抱擁が終わって照れくさそうに樹。


「そうだね」


 顔を真っ赤にして愛乃。そうして二人の恋人はそれでも名残惜しそうに別々の帰路について行く。


「……」


 そうして樹は帰りながら思う。いや家に帰った後も思う。愛乃は臭いだけではなく触った感触も極上だなと。もっともっと触れあいたいと。いやこれからももっともっと触れあう機会があるはずだ。樹はそれを思うと幸福で胸がいっぱいになった。けれどもこうも思う。付き合う、と言うことの意外な大変さ。相手に合わせるのも違うし、自分勝手なのも違う。互いに互いの妥協点を模索すること、模索し続けることの難しさ。これから大変だなと樹は思う。けれど、あの臭いと感触を自分だけのものに出来ると思うと、やっぱり胸が高鳴るのだった。そうして樹は愛乃からの電話があるまでそんなたわいもないことを考え続け、愛乃との電話が終わっても考え続け、そうして樹はいつしか眠りに落ちた。

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