中日(なかび)
月曜日になった。全てを失った変態がそこにいた。
もう女子の臭いだけ嗅いで、高校生活を過ごそう。花も実もない高校生活。それも良いじゃないか。樹はそう開き直り、笑みさえ浮かべて学校へ向かう。
教室に行き席に座る。樹にはもう話しかけてくれる相手もいない。先に来ていた由衣は口を閉ざしている。二人の間にいつものような言葉もない。臭いもない。そう、彼女は無臭の少女だった。今更ながらそれを思い出す。ここ数日はそんなことすらも忘れていた。ああ、愛乃のスローボールが嗅ぎたい。臭いだけでもせめて嗅ぎたい。そう樹は思ったけれど愛乃の姿はなく、樹は静かに時を過ごす。そうして愛乃が来ないまま、HRは始まった。結局愛乃は登校してこなかった。
放課後、人と話さない学校生活がこんなに味気ない物だとは、樹は思ってもみなかった。臭いだけで満足できると考えていた自分は甘かったのだと思い知らされる。今日も様々な女子の臭いを嗅いだ。いつもなら樹が待ち望んでいたはずの体育もあった。けれども満たされない。変態としても未熟な自分に絶望する。愛乃の臭いが恋しい。恋しくて恋しくて堪らない。なんで今日休んでいるんだ。樹は腹さえ立てていた。休みたいのはこっちだというのに。樹は怒りを抱えながら生徒会へ向かう。
「同好会。先生の許可が下りたわよ」
そこには嬉しそうな霧絵会長の姿があった。
「あの子にはさっそく教えてあげないとね。上月君は彼女の連絡先ぐらい知っているわよね」
「あの……知りません」
その言葉を聞いて会長は不思議そうな顔をする。
「どうして? 恋人同士なら交換してても不思議はないと思うけど」
「日野さんとは別れました。というか、最初から付き合っていなかったというか。周りが騒いでいただけというか……」
樹は途切れ途切れながら言い、それを聞いて霧絵会長は心底残念そうな顔をする。
「はぁ……。本当に馬鹿ね。上月君は」
「……馬鹿でもいいんです。それに周囲にはやし立てられてカップルになるのはなんか違うなって」
樹の言葉に会長は不満そうに言う。
「それに乗るのも一つの道よ。そんな道さえ与えられない人も居るんだから。上月君の境遇はむしろ羨ましがられるべきだと思う」
「それはそうかも知れませんが、案外なってみると、そうでもなかったです」
樹は正直な感想を言った。すると眼鏡の副会長が口を挟む。
「さては本命がいますね」
それを聞いて霧絵会長が色めきだつ。
「本命? 上月君が好きなタイプってどんなのかしら」
「ただの普通の女の子ですよ。でも振られました」
樹は正直に言った。けれど愛乃は普通の女の子だろうか。ちょっと違うような気もする。しかし特定されるような言い方は樹はしたくなかった。
「へーそうなんだ」
「意外ですね」
霧絵会長と眼鏡の副会長はそれぞれそんな感想を言った。
「じゃあ孤独な上月君をあたしが慰めてあげよう」
そんな樹に会長が好奇心に満ちた顔で言った。
「結構です」
樹は静かな声で言い返す。
「何で?」
「……副会長の視線が怖いから」
「え?」
「それに人の色恋沙汰にかかわっているほど元気がないんです。本当に」
そう言うと樹はまた机に突っ伏した。樹がそんな具合なので、生徒会の空気もどこかだらんとしたものになった。そうして何となくそんな感じの空気のまま今日の生徒会は解散し、樹は家に帰ることになった。
何かが欠けている。圧倒的に何かが。そう愛乃だ。愛乃の存在が欠けている。樹は下校中そんなことを考えながら歩いていた。自分には愛乃が必要だ。どうしたって必要なんだと痛いくらい感じていた。
声が聞きたいな。
臭い嗅ぎたいな。
フラフラと思いながら歩いて行く。と、いつもの駅前で元紀に出会った。嬉しそうに、そうしてどこか勝ち誇ったように、樹の方に近づいてきて言った。
「どうやら勝負はボクの勝ちみたいだね」
「勝負?」
「ほら、上月さんとボクであのぽっちゃりしたお姉さんの取り合いをしていたじゃない」
「ああ、覚えているよ。でも勝ったとは何だ?」
「今度、知り合ったJKとあのぽっちゃりなお姉さんも交えて遊ぶことになった」
「それじゃあまだ勝ちとは言えないな」
「もう根回しはすんでるから。あのお姉さんの周りのJKはボクの味方だよ」
「なんだと」
「これでも苦労したんだよ。まあ上月さんにはどうでもいいことかも知れないけどね。とにかく苦労した」
「お前の苦労なんてどうでもいい」
「そう? 聞くも涙語るも涙の苦労だよ。いやぁ最近のJKは肉食系だね。たががはずれるとどうしようもない」
「もうどんなことをしたのか、考えたくもない」
「ボクも思い出したくないよ。でも全てはあのお姉さんを手に入れるためさ」
「そこまで執着してたのか」
「うん」
あっさりと頷く元紀。
「前にも言ったよね。あれは極上の素材だって」
「それをお前はどうするつもりだ」
「徹底的に汚す。僕自身の臭いで」
「そんなことさせるか」
「おやそっちの趣味はないんだ上月さん」
「そっちの趣味?」
樹は怒りを一瞬忘れ不思議そうに元紀に聞く。
「女の子を自分の臭いで汚す趣味」
「それってまさか」
「まさかも何もその通りだよ」
「……っ」
元紀の言葉に樹は固まる。こいつ本当に小学生かと思う。樹は空恐ろしさすら感じていた。
「やっぱりそんな趣味はないんだ。つまんないの。自分の臭いでメチャクチャに汚してやるのが気持ちいいんじゃない。ボクの臭いと女の子の臭い。混ざり合った臭いが最高なのに」
うっとりと元紀は言う。そして言葉を続けた。
「だから童貞なんだね」
「うるさいな」
「へへへ」
元紀は樹の童貞の臭いを嗅ぎ分けたのだろう――いやそんな臭いはないから態度でわかったのだろう、いやらしい笑みを浮かべる。樹は自分の匂いを嗅ぎ取られたと知って――実際には感づかれただけなのだが――顔が真っ赤に染まるのを感じた。
「なんだ。上月さんでも自分の臭いを嗅がれるのはやっぱり恥ずかしい?」
「……」
樹は答えられない。急に恥ずかしさの感情が体中からわき出してくるのを感じる。
「臭い、どんどん強くなるよ。うわぁたまんねぇ」
元紀は手で臭いを追い払う仕草をする。それが樹の恥ずかしさの感情をますます強くさせる。殴ってやろうか。そう思って樹が拳を握りしめたのとほぼ同時。
「こっちくるなよ! 童貞!」
くるりと身体を反転させて元紀はそう言うと走り去る。見事な煽りっぷりであった。
一人怒りに震える樹。それよりも愛乃が心配だ。樹は思い、携帯電話で愛乃の番号にかける。出ない。繋がってはいるが、出ない。眠っているのか、それともまだこの間のことを引きずっているのか。わからない。わからないから辛いのだ。
わからない。会いたい。
――愛乃に会いたい。
そうして樹は覚悟を決めた。
直接。直接会いに行く。
理由は何とでもなる。
樹はそう結論づけ、帰路を急いだ。いつもの帰り道をちょっと横道にずれて、愛乃の家へ。
ここに来るのも久しぶりだ。愛乃の家の前に立ち、樹は思う。いつ頃から来なくなっただろう。良く覚えていない。けれどあまり変っていないような気もした。懐かしい思い出がいくつか蘇って消えた。そんなことのために来たんじゃない。
一つ呼吸をし、つばを飲み込み、樹は玄関のチャイムを押す。しばらくした返事の声は当の愛乃のものだった。
「何か御用でしょうか」
「樹だけど。学校でもらってきたプリント持ってきた」
とりあえず考えていた嘘をつく。けれども愛乃の返事は頑なだった。
「いつき? ごめん、今は会える状態じゃない……。プリントは郵便受けに入れて……」
「具合、そんなに悪いのか?」
「……ううん。それは大丈夫」
「よかった」
「でもこっちの都合も察してよ。このままの格好で会えるわけ無いじゃない」
確かに愛乃といえど女の子だ。人と会うにはそれなりの準備という物が必要なのだろうと樹は察した。けど、それでもと食い下がる。
「……そうか。プリントの件は嘘だ。本当は会いたくて来た。良かったら開けてくれないかな」
「だめ……だよ……」
「電話も駄目。学校に来ても話せない。なら直接会うしかないだろう。僕は愛乃と話がしたいんだ。この間のことは驚かせてしまったかも知れないけど、会って話がしたいんだ」
「日野さんは、どうするの……?」
「別れた」
「そんな、ひどいよ」
ドアホン越しにくごもった声がした。
「けじめだからな」
「けじめって……意味がわからないよ」
「とにかく会いたい。顔だけでも見たいんだ」
そうして臭いだけでも嗅ぎたいんだ。樹は次の言葉をぐっと飲み込む。長い長い沈黙。
「わかった。でも準備とか必要。三十分ぐらいしたらまた来てくれる……?」
そんなか細い声がした。これが今の愛乃にできる精一杯なのだろう、樹は折り合いを付けた。インターホンの向こうの愛乃に呼びかける。
「こっちもわかった。僕も一度家に帰る」
「……うん」
「それじゃ」
樹は言って少し待つ。もう愛乃の返事はなかった。少し残念に思ったが、樹はもう待たずに足早に家路に急ぐ。家に帰って服を着替えると、何か手土産が必要かなと急に思い立った。手持ちの小遣いを確認し、近くの手作りの饅頭屋によって饅頭を八つ買った。この饅頭は愛乃の好物だ。愛乃ならこれくらい平気で平らげられるだろう。愛乃が無理でも両親ならば。樹は愛乃によく似たぽっちゃりとしたおばさんの姿を思い出しながら店を出る。父親はどんなだったけな。影が薄くて良く覚えていない。あとお茶かな。病人にはスポーツドリンクの方が良いかなと思ったけれど饅頭にはやっぱりお茶だろなと樹は思い、近くのコンビニでペットボトルのお茶を買う。そんな寄り道をしていたので、愛乃の家の前まで戻ってきたのはぎりぎり三十分ちょどというところだろうか。
『もう少し遅い方が良かったかな』
ぼんやりと思いながら、もう一度玄関のチャイムを押す。
「愛乃、いるか?」
「うん……ちょっと待って」
扉が開く。樹はこの瞬間を待っていた様な気がする。長い長い間、ずっと待っていたような気がする。久しぶりに見る愛乃の姿は相変わらずぽっちゃりだった。そうしてどこか湯上がりの臭いがする。
「久しぶりだな。愛乃」
「うん」
「風呂入ってたのか」
「シャワーだけ。髪がまだ濡れてるからわかったの?」
「まあ、そんなとこ」
樹は適当に愛乃に合わせた。
「……ふうん。とりあえず上がって」
「わかった」
居間に通された。まあ昔みたいにさすがに愛乃の自室というわけにはいかないか。樹はそんなことを思いながら愛乃が勧めてくれた椅子に座った。
「ここも懐かしいな」
「そう?」
「昔来たことがある。ここでご飯を食べたことも。……みんな懐かしいな」
樹の回想を遮るように愛乃が言った。
「いま何か飲み物持ってくるよ」
「いいよ、お前病人だろ。そうだ、お見舞いがてらお土産買ってきたんだ。ほら、愛乃が好きな饅頭屋の饅頭だぞ」
そう言って樹は手に持っていた袋を差し出してみせる。愛乃の顔がほころんだ。ほとんど反射的に。
「ホント? 嬉しい」
「だから茶菓子は心配しなくていい。お茶もペットボトルの冷えてないのを買ってきた」
「気が利くね。というか高かったでしょ」
「いいんだ、暇だったし。それに僕も食べるし」
そういって机の上にてきぱきと饅頭とお茶を並べる樹。そして愛乃に言った。
「ほれ、愛乃も座れよ」
「……ごめんね待たせちゃって」
「いや、お前にも女の子らしいところがあるんだなーって逆に見直したぞ」
「なに、言っているんだか」
樹の言葉に恥ずかしそうに愛乃。樹は尋ねる。
「それで病気の方はどうだ。大丈夫か?」
「平気。というか、ほぼずる休み」
「なーんだ」
安心したように樹。椅子に深く座り込む。
「なーんだですめばいいんだけどね」
それとは反対に気鬱そうな愛乃。向かいの椅子に座る。
「何か理由でもあるのか?」
「……まあね」
樹が持ってきたお茶の蓋を指でつつきながら愛乃。病気なのも確かなようで愛乃の様子はどこか気怠そうだ。口を開く。
「あのね、いま、逃げてるの」
「逃げる?」
「そう」
「誰からさ」
「……みんなから」
「僕も含まれる?」
「かもしれない」
愛乃は饅頭を一つ手に取り包装をはがしてゆきながら言った。
「けれど、いつきには追いつかれちゃった。やっぱり上手だよね。わたしへのあしらい方が」
そう言うと愛乃は手にした饅頭を一口で口の中に放り込む。樹も一つ饅頭を手に取りゆっくり食べた。そしてペットボトルのお茶の蓋を開け中を少し飲み、口の中をさっぱりさせて言った。
「やっぱり饅頭にはお茶だよな」
「もー。大事なこと話してたのに」
二つ目の饅頭に取りかかりながら愛乃が言う。どこが真面目な話なんだろうと樹はいぶかしんだが、あえて追求はしなかった。
「で、結局、何から逃げているんだ」
「友達」
「小学生のガキといやらしい遊びでもしようって、誘われているんだろう」
「また本人から聞いたの?」
「ああ、自慢げに話してくれたよ」
愛乃の言葉に樹。
「そういうところは子供よねぇ」
それを聞いて愛乃はため息をつく。饅頭をもう一つ手に取る。口に運ぶ。
「で、愛乃、お前はどうするんだ」
「それがいやだから逃げているんじゃない」
「そっか」
「何よ」
樹の気のない返事に愛乃が横目で睨む。
「この前の電話で興味ありげだったからさ。愛乃もそういうのに興味あるんじゃないかって」
「ひどい。わたし、そんなんじゃない」
愛乃は不満げにそう言いながら、もう一つ饅頭を手に取り口に運ぶ。四つ目。残りは三個。樹ももう一つ饅頭を取った。残りは二個。
「それにそんな話してたっけ?」
「……してた」
饅頭を食べながら樹。
「いきなりいつきが告白してきたことしか覚えてない」
「したな」
「なんで、したの?」
「好きだったから。今も好きだから」
愛乃の目を真っ直ぐ見て樹。見つめられて愛乃は目線を下にそらす。そしてぽつりと言った。
「……おかしいよ」
「なんでさ」
「だって日野さんが居るじゃない」
「別れたって言った」
「まだその時は付き合ってた」
「別にその時も付き合ってはいなかったんだけどな……。周りがはやし立てているだけで」
樹は言うが愛乃は小さな声で言った。
「わたしにはそう見えたよ」
「ああ、だから正式にお断りしてきた」
そういうと愛乃は口調を僅かに激しくする。饅頭をもう一個手に取ると、口にする。残りは一個。樹の目が僅かに光る。
「なんで? なんで別れちゃうの」
「なんでお前が怒るんだ」
逆に樹が言うと愛乃はどこか困った顔で言った。
「え? だってお似合いのカップルだなって思ったから」
「それをはやし立てると言うんだ」
「けど、わたしはそれを遠くで見ているだけで幸せな気分になれたから」
樹の言葉にもかかわらずどこか遠くを見つめる目で愛乃は言った。
「そうか、それは残念だったな」
「うん……。残念」
そう言いながらようやく愛乃は残りの一つの饅頭にほぼ無意識に手を伸ばす。愛乃が手を伸ばすのを狙っていた樹も同時に手を伸ばす。お盆の上で手が触れ合う、いや重なり合った。温くて柔らかく少し湿った手の感覚が樹の手のひらに伝わってくる。
「あ、ごめん。いつきも食べるんだったよね」
お盆の上から手を引こうとする愛乃の手を樹はそっと握りしめた。
「え?」
手を握られ、困惑した表情を浮かべる愛乃。
「僕の気持ちはもう伝えた。もう一度伝えようか。何度だって伝えようか」
手を握ったまま真っ直ぐに愛乃の目を見る樹。愛乃は目をそらしていった。
「わかってる。だから言わないで」
「わかった、言わない」
そっと手を離す樹。愛乃は手を引っ込め、反対の手で樹に触られた所を軽くさすった。そうして長い沈黙の後、愛乃は静かな声で言った。
「なんで、わたしなの……」
「そんなの僕にだってわからない。けれど愛乃には魅力的な部分がたくさんあると思う」
樹は言葉を選びながら言った。
「なんでわたしなんて選ぶの」
「選んじゃおかしいか」
「おかしいよ。こんなの」
困惑した顔で愛乃。
「愛乃を誰にも渡したくないんだ。他の誰にも。どんな奴にでも。あのガキにですらも」
その臭いを。いや臭いだけだろうか。樹は自分に問いかけてみる。違う気がする。もっと本質的に、自分は愛乃が好きなんだと思った。だからここまで来たのだと樹は思った。日野さんを傷つけて。知らない女子を傷つけて。その上に今の自分の選択がある。樹はそう思った。
「そんな恥ずかしいこと言わないで」
さらに困惑の表情を深める愛乃。
「付き合っちゃおうぜ。僕達」
「でも……」
「愛乃が逃げずにすむにはこれしかないんだよ。付き合っている人がいれば、例の誘いも堂々と断れるだろ」
「それはそうだけど……」
少しの沈黙。やがて愛乃は下を向いたまま言った。
「そんなつきあい方でいいの、いつきは」
「僕は愛乃がそばにいればそれでいい。上っ面だけでも構わない」
「なんでそんなに……」
「好きだから」
「また言った。言わないでって言ったのに。また言った」
困ったように頭を振る愛乃。生乾きの髪が臭いを軽く振りまいた。
「何度でも伝えるって言った」
それに少し酔いながら樹。
「……そうだね。……ほんとはね、凄く嬉しいんだけど、同時にいいのかなって気がするの」
「何度も言うけど、なんでさ」
「わたしなんかでいいのかなって」
「僕は愛乃がいい」
そう言っていい加減まどろっこしくなった樹は立ち上がる。そして愛乃の方まで歩いて行く。
「何するの……」
怯えた顔で、けれど逃げないで愛乃が言う。
「証拠を見せてやる」
そうして樹はそのまま椅子に座る愛乃に覆い被さるように抱きしめた。
「ほら」
「ん……」
なすがままにされ、甘い声を出す愛乃。樹はそれを愛おしく思った。顔を愛乃の肩に押しつける。洗い立ての愛乃の臭いを胸一杯に吸い込む。
「暑いよ……」
「熱いのは愛乃だろ」
顔をあげ樹は言う。抱きしめた愛乃の体はひどく熱い。
「熱あるんじゃないか」
「うん……ある……」
ぼんやりとした声で愛乃。続けて言った。
「……嘘じゃないんだね。いつきの言葉は、嘘じゃないんだね」
「わかる?」
「うん、だって固いもの……」
「え……?」
「これが固いと男の人は興奮しているんでしょ……?」
軽く体を揺する愛乃。それで樹は気がつく。愛乃のたるんだ腹肉と自分の勃起した男根が軽く触れあっていることに。一瞬恥ずかしくなったが、愛乃も許しているみたいだし、そのままゆだねることにした。腰を深く入れてもっと密着させる。
「そうだよ……。今、僕は愛乃で興奮してる」
「あん……」
腰を突き入れると愛乃は挿入したわけではないのに甘えた声を出した。樹の愛乃へのいとおしさが増してくる。樹は顔を上げ言った。
「キス、してみようか」
「えっ……」
愛乃の体がぴくりと動く。樹はそんな愛乃の顎を軽く掴む。
「ほら顔をこっちに向けて」
「うん……」
顔を上げた愛乃の唇を奪う。長い長いキスだった。息が苦しくなるまで唇を重ね続けた。
「饅頭の臭いがする」
「いつきだって」
「最後の一個、食べ合いっこしよっか」
「……うん」
樹は残った最後の饅頭を手に取ると、包装を剥ぎ、一口食べる。そうして残りを愛乃の口にそっと近づけた。愛乃は何かを察したのか、それを軽く咥える。
「?」
「ん」
樹は困惑したが愛乃が促す。少しして樹も理解した。樹も愛乃が咥えた饅頭の反対側を咥え、そのまま再びキスをした。二人の口の中で和菓子が溶け合う。樹も愛乃もこういった食べ物のほうがケーキとか洋菓子よりも自分たちらしいと思った。ときどき愛乃は舌を出し樹の口の中にある饅頭を奪おうとする。樹はそんなワガママな舌を自分の下で優しく撫でた。絡め合う。溶かし合う。とろける。そんな長く甘いキスだった。
「ぷはぁ」
「はぁ……」
キスの終わった後も、二人ぐったりとしていた。二人とも、甘い物を食べ過ぎたせいか頭がぼんやりしていた。そして顔中べとべとで、甘い匂いがそこら中から漂っていた。しばらく二人してそうした余韻を味わっていたが、やがて愛乃が小さな声で言った。
「顔、洗わなくちゃ」
「僕も」
樹も頷く。
「一緒に洗おう?」
愛乃の誘いに樹は頷いた。洗面所へ行って顔を洗う。まだ股間が勃起していて、少し歩きにくかった。
「……すごかったね」
顔を洗って少しさっぱりとしたのか愛乃が樹に言う。
「そうだね。想像以上だった」
火照りのさめやらない樹が言う。本当ならばこのまま愛乃を押し倒してしまいたかったのだが、さすがにそこは自制した。
「ありがとう」
「え?」
突然愛乃は樹にお礼を言った。樹は戸惑い愛乃を見る。潤んだ目の愛乃がそこにいた。
「こんなわたしを選んでくれて」
「いいんだ。最初から僕の心は決まっていたんだと思う。色々あってそれが少し早まっただけさ」
そっと愛乃の髪の毛を撫でながら樹は言った。そして名残惜しそうに言葉を続ける。
「そろそろ帰るよ。遅くなっちゃうし」
「うん、今日はありがとう」
樹は一度居間に戻り飲みかけのペットボトルのお茶を持って玄関の方に向けて歩き出す。その後を愛乃も追った。
「玄関まで送る」
「悪いね」
「いいの」
「それじゃ」
靴を履いて樹。そんな樹の後ろ姿に愛乃が恥ずかしそうに呼びかける。
「あの。最後にもう一度いいかな」
「ああ、わかった」
樹は手を広げ、愛乃を迎え入れる。そうしてそっと入ってきた愛乃を優しく腕で包み、短いキスをした。
「ありがと」
離れて愛乃は照れたような笑顔を見せて言う。樹は首を横に振った。
「ううん、僕もしたかったから」
「うん。ありがと」
「じゃあね。また明日」
「ううん、夜に電話するよ」
「わかった」
そうして樹は愛乃の家を出た。出て一息大きく呼吸をする。奇妙な達成感があった。そして若干の寂しさも。それはどうしようもないことだけれど、生まれてしまうものなのだ。
『いいじゃないか、これで』
自分に言い聞かせる。楽しいことはまだまだ続く。もう一人じゃない。もう一人ではないんだという寂しさにそっと樹は呼びかける。そうして彼には珍しく新鮮な空気を吸い込むと、明るい気持ちで帰路についた。
夜。愛乃の言うとおり携帯に電話がかかってきた。樹は電話を手に取る。たわいのないやりとりをする。明日には学校に出られそうなこと。明日が楽しみなこと。明日のこと。そうしてさっきのこと。
「キス、しちゃったんだね」
明日のことを話していたときはあんなにも明るかった愛乃の声が、小さく恥じらいの隠ったものに変る。
「ああ」
それに対して感慨深げな樹の返事。
「背中を抱きしめられもした」
「ああ」
「ちょっとエッチなこともされた」
「……もうしわけない」
「いいの」
優しく言う愛乃。
「ちょっと強引だったけど、嬉しかったよ」
「そう言って貰えるとありがたい」
「まだ体が熱いよ……」
「明日も休む?」
「ううん、行くよ。いつきに会いたいもの」
「じゃあ今日は早く寝ないと」
「寝られそうもないよ……」
――恋人同士の会話は、長々と続いてゆく。
とりあえずここで第一部完です
一応第二部の構想はあります。恋人になって初日の文章もあるけどとりあえずここで一区切り




