四日目
明くる日、目が醒めると、今日も初夏にふさわしい、雨の日の朝だった。
朝早く家を出る両親が作ってくれた朝食を摂り、皿を洗うと傘を持って家を出る樹。まだ本降りではないようで、灰色の世界を細かい雨が時に強くなったり弱くなったりを繰り返している。そんな中、傘を持って歩く樹。ふと雨に混じって嗅ぎ慣れた臭いが鼻に届いた。これは、愛乃の臭いだ。まだ登校前なのでほんの微かだが、愛乃の臭いに間違いない。幼なじみと言うだけあって互いの家は近い。どうやら樹の少し後ろを歩いているようだ。
いつもならば特に話すことがないので、もし、途中で出会っても二人黙って学校まで歩くのが高校、いや中学に入ってからの、二人の流儀だった。どちらとも無く言い出したわけではなく、気がついたらそうなっていた。だが今日は違った。臭いがずんずん濃く、強くなってくる。ああ、と思い樹は足を止めた。あの巨体では自分に追いつくのも大変だろう。そっと振り返る。傘を持って息を切らした愛乃が、こっちに向かって走って、いや歩むようなスピードでゆっくりゆっくり近づいて来ている。
そうして、樹の前で足を止めた。
「……ありがと、待ってていてくれて」
荒い呼吸の中、愛乃は言う。
「言ってくれれば良かったのに」
樹は答える。
「わすれてた。ところで何でわかったの?」
「振動」
本当は臭いだったが樹は嘘をついた。今も臭いは凄く濃い。走って汗をかいたせいだろう。
「ひどい」
「まあ幼なじみの勘っていうやつかな」
「それなら、いいけど」
まだ息が荒い中、愛乃はハンカチで顔についた汗か雨かが入り交じったなにかを拭いた。
「何か用があったんじゃないか」
そんな様子を眺めながら樹は尋ねる。
「昨日はありがとうって、言い忘れてたから。ありがとう、いつき」
雨に濡れるのも構わずぺこりと頭を下げる愛乃。そんな愛乃に樹は慌てて傘を差しだした。
「いつきが濡れちゃう」
慌てて頭を上げる愛乃。
「お前が濡れる方が心配だよ」
まあ透けブラとかも悪くないけどな。そんな不埒なことを思いながら樹は愛乃が頭を上げるのに会わせて傘を引っ込めた。
「僕と話して大丈夫なのか。グループの人とぎくしゃくするんじゃないか」
樹が尋ねると愛乃は明るく言った。
「駅近くまでなら近くに友達もいないし大丈夫だよ」
「それじゃあ、少し話ながら歩くか」
「うん」
そうやって二人は並んで歩を進める。
「昨日、日野さんが襲われてたよ」
「そう……。なんだ」
「どうすればいいんだ。どうすれば向こうは諦める?」
縋るように愛乃に聞く樹。
「それなんだけどね、あれからね、少し向こうのグループの人と話してみたの。結局ね、そんなに怒っている人は居なかった」
愛乃の答えは希望を見いだせる物だった。樹は安堵のため息をつく。
「昨日はこの世の終わりのような顔してたくせに。話して見ればそんなものか」
「わたしもがんばったんだよ。ああいうのは良くないって。だいたいみんなわかってくれた」
「うーん。つまり、わからなかった奴もいるという意味にもとれるな」
「うん。それは、ね。……一人どうしても許せないって言う人が居た。きっと元々日野さんのことが気に入らなかったんだと思う」
「そうか、困ったもんだな」
「うん」
「何がそんなに気に入らないんだか」
困った半分不思議さ半分で樹はぼやく。
「それは……。あ、そろそろ駅だからわたし、ここいらで時間潰しているね」
「いいや僕がここのコンビニでパンを買うから愛乃は先に行っていなよ」
樹がちょうど目の前にあるコンビニを指さして言う。愛乃はそれを見て頷いた。
「わかった。それじゃあ」
「ああ、それじゃ」
そういうと愛乃は傘を差したままゆっくりと先行し始める。樹はそんな後ろ姿を僅かの間見送ると、駅のそばのコンビニに入っていった。
駅のそばのコンビニは樹がいつも使っているコンビニと違って非常に混んでいた。こんなことならいつものコンビニにしておけば良かったと樹は思う。混んでいる上売り場の勝手がわからずいつもより手間取ってしまった。そうして学校にたどり着いたのは始業直前。滑り込むようにして教室に入る。由衣とは目線で挨拶し、そのまま座りこむ。
確かに昨日ほどの憎悪の視線は感じない。臭いも雨に紛れて薄い。けれど異質な臭いを樹は嗅ぎ取った。前の席からだ。不安と緊張そしてためらい、それが入り交じったような臭いがする。前の席と言えば日野由衣だ。彼女がこうも臭いを発しているのは樹に取って意外なことであった。HRと一時限目の僅かな時間に樹は由衣に尋ねてみる。
「なにかあった?」
「……いいえ」
やや遅れて返答があった。
「そう?」
「はい、何もありません」
樹の疑問にはっきりと答えられる。
「そう、なら良いけど」
「すみません」
それで授業開始だった。結局何もわからなかった。けれど樹は奇妙な違和感を覚える。なんだろう。何かがおかしい。けれどそれが何なのか、わからない。
時限が進むにつれ、由衣の緊張の臭いはどんどん強くなっていった。そのたび声をかけるのだが、表面的な言葉であしらわれてしまう。かといって臭いのことを話題に出すわけにも行かない。樹は一人悶々としていた。
昼休み。由衣はしばらく教室で座っていたが意を決したように立ち上がる。そして何も持たずに教室を出て行った。教室の隅で待機していた樹は由衣には申し訳ないと思いつつ、彼女の後をつけることにする。樹は準備していたいつもとは違うコンビニ袋を持ち、由衣の後を追う。少し出遅れたが向かった先は、由衣の緊張した臭いが教えてくれた。そうして樹は拍子抜けしてしまう。由衣の行く先は樹の雨の日に昼食を食べる定位置だった。そういえば昨日は愛乃とパンを半分こしたっけ、そんなことを樹は思う。しかしそんな場所に今日は珍しく先客が居るようだった。臭いでわかる。嗅ぎ慣れた緊張の臭い。これは由衣のものだった。そうしていくつかの女子の臭いも。樹は由衣の危機を感じいつもの場所に踏み入れる。そこには由衣とクラスの女子達がいた。そうして朝からの由衣の臭いの原因はこれかと樹は一瞬で悟った。例の女子グループが、由衣を呼びつけたのだろう。おそらく自分には知らせるなと言い含めて。樹は階上の女子達に言った。
「何してるのさお前等」
「なんで……さてはこの女が言ったな」
「上月さん……どうして」
「違う。いや、ここ俺の昼飯の定位置なんだよ」
樹は言った。まあ事実でもある。むしろその事実に助けられた感もある。とはいえ、正確には由衣の臭いの後を追ってきたのだが。
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ。なんなら進藤にでも聞いてみればいい。昨日何かさせてた進藤に」
「何で知ってる?」
「どうやら進藤は何も言わなかったわけだな」
「あたりまえだ! あんな使えない奴」
「ひどい言われ様だな。進藤が聞いたら泣くぜ」
やれやれと樹。女子達に向き直り、聞いた。
「で、たった一人を取り囲んで何をしているわけさ」
「関係ないだろ!」
叫ぶ女子。しかし樹は冷静に分析していた。しゃべっているのは一人だけ。あとは周りにいてことの成り行きを見守っているだけの様だ。怒っているのは一人だけ、か。愛乃の情報とも一致する。ならばと樹は由衣に向き直り呼びかける。
「行こう、なんか怒っているのこいつだけみたいだし」
「けれど、こういうのはけじめですから」
樹の提案を由衣はきっぱりと断る。樹はしょうがないなと思う。
「じゃあ僕も参加して良いかな。僕が写真を破ったことが悪いんだろ? だったら僕にも、いや僕にこそ責任がある」
そのことばにざわめきだす女子グループ。そんななか由衣は樹にきっぱりと言った。
「呼び出されたのは私だけですから。……上月さんは帰ってください」
「それがわからない。何で僕じゃなくて日野さんなんだ?」
由衣の言葉に不思議そうに樹。実際樹には不思議だった。なんで由衣が標的になるんだろうか。自分の行動が悪いのに。それがさっぱりわからない。
「私にもわかりませんが、きっともともと嫌いなんでしょう」
「じゃあますます帰れなくなったな」
「……仕方ありませんね」
樹の言葉にため息をついて由衣。樹は怒鳴っている女子に向かって声をかける。
「おい、何が気に入らないのか知らないけれど、文句なら聞いてやるよ」
樹は叫んでいる女子を睨み付けながら凄む。帰ってくるのは沈黙。長い長い沈黙。
「言って見ろよ。聞いてやるって言ってるんだよ。このクソ女!」
さらに揺さぶりをかける樹。冷めた目で睨め付ける。一歩叫んでいた女子が下がるのがわかった。もう一押しか、樹が思っていると上の方から急に大声が降ってきた。樹ではなく、由衣に向かって。
「何でも上月君に頼るなこのクソ女!」
叫んだ。泣きながら樹の知らない女子は叫んだ。
「アタシはお前に、お前だけに送ったのに勝手に上月君の机に置いて、ひどい! なんで上月君に見せるの!」
「それは……上月さんにも関係あることかと思って」
由衣は弁解したが狂乱状態にある女子には通じない様子だ。
「うるさい! おかげで上月君に嫌われちゃったじゃない! どうしてくれるの!」
「あんな落書きをする時点でそもそも嫌いだよ」
樹が吐き捨てる。
「くっ……だからっ! こいつが見せなければ気づかれなかったっ!」
苦しそうに叫ぶ女子。それを見て樹は態度を変えることにした。なんだかこの女子もかわいそうに樹には見えた。ため息をつくと口調を改める。
「もうやめなよ。こんなことしても何にもならない。ただ自分を傷つけるだけだ」
「けど、コイツが……」
「やっちまった物は仕方ない。日野さんも悪戯された写真を僕の机の上に置いたのも仕方ない。それでいいじゃない。それで僕もさっき言った嫌い発言は取り消すよ」
「……けど、心の中では嫌いなんでしょ」
その女子は樹に向かってどこか寂しそうに言った。
「そんなことないさ。わりとどうでもいいってところかな。いままでと変らないよ」
「けど……」
「謝る必要もない。その代わり二度と日野さんに手出しするな。それを約束してくれればこちらはそれでいい。それでいいよな。日野さん」
念を押すように由衣に問いかける樹。
「はい」
「そっちもそれでいいかい?」
「わか……った……」
樹の言葉にうなだれてその女子は言った。
「じゃあ帰って良いかな。行こう、日野さん」
そうして樹は言葉も待たずに由衣の手を引いてこの場から立ち去った。後ろから大声で泣く声と女子の何人かがなだめる声が聞こえたが気にせずに歩いて行く。しばらく行ったところで樹は由衣に声をかけた。
「日野さんには事後承諾みたいな形になっちゃったけど、あれでよかったかな」
「それはかまいませんが、ちょっと腕が痛いです」
「ああごめん。掴んだままだった」
樹は慌てて由衣の細い腕を離す。そうして向き直ると屈んで由衣の腕を見た。
「ごめん。痕とかになってない?」
「……大丈夫です」
ふと樹は周りの視線に気がつく。手を繋ぎあっていたのだから当然か。樹は恥ずかしそうに由衣に言った。
「なんかみんなに見られているね」
「そうですね」
「それじゃあ僕は行くから。日野さんももう何もないと思うけど一応気をつけてね」
慌ててこの場から立ち去ろうとする樹。そんな樹を由衣が引き留めた。
「上月さん!」
「何?」
突然の大声に由衣の方を振り返る樹。
「色々と申し訳ありませんでした」
姿勢を正し、ぺこりと頭を下げる由衣。
「いいんだよ」
樹は笑って言った。そうしてその場を去る。いつもの場所が使えないし、昼食の場所をどこか新しく探さないといけない。昼の休憩はそうして終わっていった。
午後の時間。樹はぼんやりと考えていた。あの女子。自分のことが好きだったのかも知れないな、と。名前も知らない女子だけど、それを言うなら日野さんだって写真を撮られるまではその存在に気づかなかった。自分はどうやら鈍感であるらしい。樹はそんな自分自身を少し苛んでみた。
放課後。樹は生徒会室へと向かう。今日は定例会議の日だ。
「失礼します」
いつもと変らない挨拶をして生徒会室に入る樹。定例会議の日なのだがまだあまり人は集まっていないようだ。暇を潰したいのか霧絵会長が樹に言う。
「昼休み、あの子と手を繋いでるところ見たわよ。だいぶ進展しているみたいね」
「そういうわけではないんですけどね。ちょっとごたごたがあって」
樹が言うと会長が身を乗り出した。
「ふーん気になるわね。何があったの?」
「詳しくは話せません」
「そうなんだ。大変ね」
「大変だったんですよ」
疲れたように樹。会長は興味なさげに伸びをした。
「それじゃあもう少し人数揃ったら会議でも始めるかしらね」
「意外と冷淡ですね」
眼鏡の副会長が指摘する。会長は顔だけ副会長に向けて言った。
「叶った恋に興味はないの」
「まだわかりませんよ?」
「じゃあ賭けでもしましょうか」
「いいですね」
「二人盛り上がっているところ申し訳ないのですが、僕をおもちゃにするのは止めてください」
霧絵会長と眼鏡の副会長が盛り上がっているところに樹の嘆きの声が混じる。それは役員達が集まり、定例会議が始まるまでそのようなやりとりが続いた。
生徒会役員が集まるのと会議があったので樹の帰りは最終下校時間近くになってしまった。なにしろ樹の役職である書記は教師達に直接渡す議事を記帳しなくてはいけないから色々と面倒なのだった。ちなみに生徒会長は会議の後ハンコ一枚押してさっさと帰って行ってしまった。なんとなく、理不尽だと思う。しとしとと絶え間なく降っていた雨も上がり、まだ明るさが残る水たまりだらけの下校道を歩きながら樹はそんなことを考えていた。
「上月さーん」
唐突に呼び止められる。はて誰だっけと思い樹は足を止めた。
「ずいぶんお疲れのようで。臭いに出てるよ」
「ああ、この間の小学生か」
「元紀だよ。内山元紀」
それで樹は思い出した。この間ここで出会った自分と同じ性癖を持つ小学生。駅前のまだ濡れたベンチの前に立ちこちらに手を振っている。
「前から思っていたんだが、こんな遅くまで帰らなくていいのか」
「親は帰りが遅いからね。いいんだよ」
混みいった事情があるみたいだ。樹はあまり詮索しないことにした。
「それより何かいいことでもあったのか」
「どうしてわかるのさ」
「何となく、臭いでかな」
樹は言った。
「へえ、なかなか良い鼻してるね」
「で、いいことは何さ」
「この間のJKと遊んだ」
「ほほう手が早い」
樹は感嘆の声を上げた。元紀は得意がる。
「へへへ。まあね。肝心なのには逃げられちゃったけど。カラオケで二時間。たっぷり楽しませてもらったよ」
「肝心なの?」
「ほらぽっちゃりとした、上月さんの知り合い」
「ああ、愛乃か」
「あの子とも遊びたかったんだけどね。というかいまのところ本命なんだけど」
「本命?」
樹の言葉を無視して元紀は言葉を続ける。
「まああの子が居たらそれほど楽しくはならなかったかな。案外お堅そうだったから」
「おい、どんな遊びをしたんだ」
少し語気を強め樹は問いただす。元紀はぺろりと舌を出した。
「そりゃあ、ちょっと口には出せない遊びだよ」
「いかがわしい遊びじゃないだろうな」
さらに樹が尋ねると元紀はあっけらかんとした口調で言った。
「ううんいかがわしい遊びだよ。まあ向こうが望んだことだから、ボクは悪くないのさ」
カラオケボックスの密室で元紀とうちのクラスの女子が一体なにをしたのか、されたのか、考えただけで頭が痛くなる樹。
「白々しい嘘を」
「向こうの方が数が多かったし、僕は小学生だからね、逆らえなかったんだ」
「ますます白々しい」
顔が険しくなる樹と対照的に元紀の顔は笑顔で満ちてゆく。
「とりあえず、そんなこんなで今、僕は幸せなのでした」
「はぁ。マセガキめ」
片手を額についてため息をつく樹。
「今度はあのぽっちゃりとしたお姉ちゃんとも遊びたいなぁ。ねえ上月さん、良かったら手伝ってよ」
「やだよ」
「気があるの?」
「さあな」
無表情を装い、樹。けれどそんなことは元紀には筒抜けのようだった。
「……臭いに出てるよ。まあ、あれほどの物件、そうそう手放すはず無いよね」
「……まあな」
しかたなくそう返す樹。たしかにあの臭いは手放したくない存在だ。それは変っていない。最初から。
「でもそう言われるとますます欲しくなるんだ。どんなことをしてでも、ね」
「おい、お前、何する気だ」
元紀の言葉に少し慌てる樹。元紀はにやりと笑って言った。
「昨日も一昨日も別の子と歩いてたじゃない。上月さんはその子と幸せになればいいよ。僕はあぶれたあのぽっちゃりしたお姉さんを狙う。これで何も問題なし」
「ずっと見てたのか」
「うん。ボクは毎日ここいらにいるし。二人に悪いと思って声をかけなかったんだ。なかなかよさそうなカップルに見えたよ」
「そうか、たまたまが続いただけで別に付き合っているわけじゃないんだけどな」
「あれでそう言い張るのは無理があると思うよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「とにかく愛乃は渡さんぞ」
「よくばりだなぁ。そんなことを言っているとどっちも失うよ」
偉そうな口調でそう言う元紀。樹はそれを言葉ではねのける。
「やかましい」
「じゃあ勝負だね。ボクがあのお姉さんを手に入れるか、上月さんが昨日の子を振ってお姉さんと恋仲になるか」
「何でそうなる」
「ボクがあのぽっちゃりしたお姉さんの臭いを嗅ぎたいし、肉を揉みたいから。これでも上月さんに配慮してあげているんだよ? 感謝して欲しいな」
「偉そうに」
「それじゃあ、行くね。勝負だよ。それも上月さんの方が圧倒的に有利な」
「別に受けるつもりはないんだけどな……」
「とにかく、開始だよ。それじゃあ」
そういうと元紀は行ってしまった。後に一人取り残される樹。いつの間にかまた空は曇って来て、雨が降りそうになってきていた。歩き始める樹。なんだろうと思いながら。この不安感はいったいなんだろうと思いながら。
ふと、愛乃に電話をしてみようと思った。何のための携帯だ。こんな時に使わなくてどうするんだ。樹は駅の静かなところを探して電話をかける。だが通話中。一体誰と話しているんだと樹は思い、そうして思い出すのが舌を出した元紀の顔。まさか、そんな。ありえないと打ち消しても不安だけはどんどん高まってゆく。とにかく警告だけはしないと。焦る樹。しかし携帯が通じない以上、他の連絡手段は樹にはなかった。留守電に何か入れようと思ったけれど、こういうときに限って何も思い浮かばない。樹は連絡をくれとだけ留守電に入れて電話を切った。
『進藤の言うとおりSNSでもやっていれば……』
後悔してももう遅い。樹は焦燥感を抱えながら家に帰ることにした。――帰ることしかできなかった。
樹は家に帰ると鞄を置き服を着替え、夕飯を食べた。そうして自室に戻ると、携帯の着信ランプがついていた。慌てて開けてみると愛乃からだった。何という間の悪さ。留守電に何か入っているかと思ったけれど何も入っていない。もう一度電話してみる。繋がらない。樹は電話をを切って携帯をベッドの上に放り投げる。そうして自分もベッドの上へ。
『何なんだ一体』
衝撃で軽くベッドがしなり、そうして焦燥感は収まらない。気がつけば心臓がバクバク言っている。携帯電話を睨み付ける。今誰と話しているんだ? 何でこんなことになっている? 疑問は尽きることなく樹の心を苦しめる。
突然着信があった。神にも縋る気持ちで携帯を手に取る樹。それはまさしく愛乃からのものだった。慌ててボタンを押して携帯を耳に当てる。向こうからは間延びした声が聞こえてきた。
「いつき~。どうしたの、なんか慌ててたみたいだけど」
声を聞いてどっと安心する。そうして言われれば何を焦っていたんだとも思う樹。
「いや、ちょっとあってな。それより誰と話してたんだ」
「友達だよ」
「へえどんな話?」
「……。ひみつかな」
「小学生をカラオケボックスに連れ込んでいかがわしい行為をした自慢とか」
「! なんで知ってるの」
愛乃にしては珍しく声が鋭くなる。樹はそんな彼女に答えた。
「当の本人から聞いたから」
「……そういえば知り合いだったっけ。あーでもこれ秘密にしてよ。学校に知られたらかかわった人たち休学どころじゃすまないよ?」
「まあ話だけで証拠があるわけじゃないからな。それと愛乃、お前は参加してないんだよな」
「うん、してないよ」
「安心した」
「なんか嫌な感じだったから抜けて来ちゃった。あの子なんだかそれを期待していた感じがしたし」
「愛乃の判断は正しいよ」
「まさか、そんなことまでするとは思わなかったけど」
「あー。詳しい話は聞いてないし、聞きたくもない」
「わたしはさんざん話されてうんざり気味かな」
疲れたような愛乃の声。
「それで何だけどさ」
「うん」
「お前、狙われてるぞ。あのガキに」
「え? 何で? わたしが?」
「えーと、何でかは知らん。ガキの考えることだからな」
理由は適当にごまかす樹。これが良くなかったようだ。愛乃の好奇心に触れたらしい。
「え~。何でだろう。知りたいな」
「そんな悠長なこと言っている場合じゃないんだ」
愛乃の言葉に釘を刺すように樹。当然愛乃は不満げな反応をする。
「今日のいつき、なんだかおかしい」
「……そうかな」
「なんか、怖いよ」
「……ごめん」
「べつに、いいんだけど」
「……あのさ」
「なに?」
少しの逡巡。言うべきか言わざるべきか。樹は深く深く悩んだ。そうして心を決める。
「僕は愛乃が好きなんだよ」
「はい?」
電話の向こうで戸惑いの声がした。樹はそれに構わずに言葉を続ける。
「僕は愛乃のことが好きなんだ。だからそのガキに渡したくないんだよ」
とうとう言ってやった、言ってやったぞ。樹は思う。一番言いづらいところを言ってやった。これで勝利は間違いなし。なんだ簡単じゃないかと樹は思う。しかし返事は意外なものだった。
「……ごめん、なさい」
「え?」
「わたし、いつきの思いに応えられない」
「……何で、さ」
「とにかく、応えられない」
強い言葉。
「う……」
「ごめんね、もう切るね」
そういって電話は切られた。後に残された樹は一人部屋で呆然とし、携帯の画面を薄暗くなるまでぼんやり眺めるほかなかった。
「……なんで」
その口が言葉を紡ぐ。
「何でだよ!」
叫ぶ。携帯をベッドに叩き付ける。叩き付けられた携帯は信じられないくらい高く跳ね上がった。樹は天井を見上げる。まさか、こんなことになるなんて。
うぬぼれていたのかも知れない。樹は思う。愛乃ぐらい告白さえすればいつでも簡単に落とせると。そのうぬぼれが今は悔しい。そうして樹は愛乃のことを思う。
隠そうとする他の女子と違って気前よくなんでも与えてくれた。本人は気づいていないだろうが。自分が犯罪行為に走らなかったのは、手軽に臭いを嗅げる愛乃の存在があったからではないだろうか。あの臭いを失うことは、自分にとって人生の半分を失うような気がした。
愛?
今変な単語が浮かんだ。頭の中からかき消す。執着は持っているがこれは決して愛などではない。自分に彼女を愛する資格があるとは思えなかった。
そうして樹は思う。自分は愛乃のことが本当に好きなのだろうか。ただの臭いフェチの執着でしかないのではないだろうかと。自分で出した答えはその通りで、それを思うと樹はひどく落ち込んだ。力なくベッドに倒れ伏す。
『自分はただの変態だ』
ごろり。身体を回転させ、壁の一点を見つめる。
「彼女を愛する資格なんて無い」
実際に小さく口にしてみた。その通りだったと思ったから胸は痛まなかったが、何故か視界がぼやけてきた。目を閉じる。
闇。そして懐かしい臭い達の思い出。頬を走る熱い何か。急激に冷えて今度は熱を奪う。
愛乃、愛乃、愛乃、愛乃……。
そして呟かれる呪詛にも似た、愛の言葉。




