十四日目
目を覚ます。遮光カーテンの向こうはすでに明るかった。樹は現状を確認する。まだ喉が痛い。濡れているのに干涸らびているような感覚。とりあえずカーテンを開けると階下に降り軽く腹に何か入れ薬を飲んだ。自室に戻って一息つくと、まず愛乃へ電話を入れる。
「いつき?」
電話口から元気な声が聞こえてきた。樹はまず昨日の不手際を謝罪する。
「ああ、昨日はごめんな。何回も電話してくれたのに」
「いいよ。それより、どうしたの、その喉」
「風邪引いた」
樹が言うと電話の向こうにいる愛乃の声色が変わる。
「えっ、だったらお見舞いに行くよ」
「別にいいって」
樹は断ったが愛乃は引き下がらなかった。
「ずっと部屋にいるんでしょ。行くよ。彼女だもん」
「はぁ、……僕は気苦労が増えるんだけどな」
「どうして?」
愛乃が尋ねると樹は答える。
「部屋を片付けないといけないから」
「そっか……それは考えつかなかった」
「だからこなくていいよ」
「でも行く。部屋は片付けなくていいよ」
「片付けるさ。彼氏だもの」
樹はきっぱりとそう言うが愛乃も負けていなかった。
「いやほんとに片付けなくていいよ」
「そう言われてもな。汚いところ見せたくないし」
「わたしは気にしないよ?」
「僕が気にするんだ」
「でも。……ねえ、来て欲しくない?」
しかしそう言われてしまえば、こう答えるしかなかった。
「……来て欲しい」
「じゃあお昼頃行くね」
「ああ」
電話は切られた。樹はこれでよかったのかと少しの間思いにふける。そしてふう、とため息をついた。これから会長に断りの電話を入れないといけなかった。愛乃に電話するのとは違い気が重く、電話をするのに少し時間がかかった。
「ああ会長ですか。おはようございます」
「そうだけど。……どうしたのその声」
向こうの声は若干訝しんだものだったが、樹のかすれた声を聞いていつもの生徒会長に戻った。樹は説明する。
「風邪を引いてしまいました」
「そんなの言わなくてもわかるわよ」
「すみません。それでなんですが……」
「今日、これそうにない?」
「すみません」
樹は二回目の謝罪をする。
「こっちはお弁当とか準備してたのに」
「すみません」
三回目。さすがに言葉のレパートリーが少ないなと自分でも思う。それだけ頭がやられていると言うことだろうかと樹は頭の中で自嘲した。しかし会長の次の言葉で硬直する。
「とにかくそっち行くから」
「え? いいですよ」
驚愕の言葉に慌てて樹が返事をする。
「というかお弁当もう作っちゃったし」
「僕、食べられませんよ」
「いまから食べられるようにするから」
「いえ結構です」
「とにかく家で待ってなさい。昼前には行くから」
それだけ言うと強引に電話は切れた。……。樹は携帯電話を持ったまま硬直する。これは明らかにまずい。明らかにまずい状況だ。樹はどうすればいいのかわからず、いても立ってもいられなくなる。とにかく何かしないと。何かをしないと行けない気がする。ぼんやりした頭でそう思う。そして思いつく。
……部屋を片付けよう。とりあえず綺麗にしないと。
樹はフラフラした頭で自室に戻り部屋を片付け始める。そしてそんなことをしているうちに自分が何のためにそんなことをしているのか樹は忘れてしまった。それを思い出したのは玄関のチャイムが鳴ってからである。そこからの樹の行動は早かった。家に残っている母親が出る前にダッシュで玄関へ向かう。
「霧絵生徒会長ですか?」
二分の一の確率でインターホン越しに呼びかける。若干驚いた様子の会長の声がインターホンと外から二重に響いてきた。
「上月君? ……あたりまえじゃない」
「……それもそうですね」
樹は同意する。その瞬間にはどうして自分が何故そんな質問をしたのか忘却していた。しばらく何故そんなことをわざわざ言ったのか、思い出そうと頭の中を整理していると、外と中からまた声が聞こえて来る。
「ごめんなさい。上がっていいかしら」
「……どうぞ」
その声に押されるように樹は玄関のドアを開けた。
開けるとそこには大きなスポーツバックを持った霧絵生徒会長が立っていた。そして吹き込んでくる熱風とそれに載って届く生徒会長の臭い。樹は風邪のせいであまり効かない鼻でぼんやりと思う。これは何かを作っていた臭いだ。そして少しの汗臭さ。いままで気がつかなかったが外は日差しが照って蒸し暑い。
「あけてくれてありがと」
ため息をつくように会長は言った。その臭いすらもどこか甘い。
「それじゃあ、失礼します」
そう言って軽く頭を下げると会長は樹の家の中に入っていった。樹は物珍しげに樹の家の中を見る会長を二階の自室へと案内する。
「上月君の部屋に案内してくれるんだ?」
「居間は家族が使っているので……」
休みの日はのんびり過ごしたがる自分の母親の顔を思い浮かべながら樹は言った。
「それじゃあ失礼させて貰うわ」
「……ええ、どうぞ」
何故かわずかに頬を染める会長の心理を今の樹の頭は読み取ることができなかった。自室のドアを開け、会長を招き入れる。
「思ったよりもずいぶん綺麗にしているのね」
部屋に入るなり会長は言った。
「会長が来るって言うから慌てて片付けたんですよ」
体のふらつきをなんとか押さえながら樹は言う。
「そりゃごめんさない。だったら休んでなさいよ」
「それじゃあ失礼して」
樹はベッドに座った。実際、遠慮なんてしている場合ではなかった。そして立ったままの会長を見上げ尋ねる。
「……会長はどうするんですか」
「うん、台所借りるのも何だし家で準備して来ちゃった」
「何をです?」
「病院食」
「そんな大げさな」
樹が言うと会長は照れたように笑って言う。
「まあ作った物を柔らかく細かくしただけなんだけどね」
「はあ、なんか申し訳ないです」
「いいのよ、勝手にやったことだし」
そう言って生徒会長はスポーツバッグの中からタッパーを取り出す。
「味気なくなっちゃったけど、汁物だから仕方ないよね」
「いえいえ、何から何まで、すみません」
樹がいつものように謝っていると早速タッパーを開け中身をスプーンですくう会長。そしていそれを樹に差し出すと言った。
「はい。あーん」
「あーん、ってなんです?」
樹が戸惑っていると会長がせかす。
「何ですって、ほら、口開けなさいよ」
「いや自分で食べられますし」
「いいのよ。病人でしょ。ほら遠慮しないでよ。あーん」
「大丈夫です!」
そう言ったとき玄関のチャイムが再び鳴った。一瞬、救われたと思ったがどうしてチャイムが鳴ったのかを樹は思いだした。地獄の始まりである。
やがて階下にいる樹の母親に促されでもしたのか、ドスンドスンとした足音がこの部屋まで響いてきた。足音の持ち主はノックもせずに部屋のドアを開ける。そして言った。
「二人で何してたの、いつき? ってかかかか、会長?」
「あなたも来たの? ふうん」
二人の視線が交錯し合う。とはいえ愛乃も負けてはいなかった。
「か、かかかか、かかかか、かのじょですから!」
どもりながら会長に言い返す。けれどもそんな愛乃を面白そうな珍獣でも見るような目で見る会長は首をかしげて不思議そうに言う。
「彼女? ふうん。ふうん」
「なななな、何ですか? 何なんですか! 何か文句でもあるんですか!」
「べっつにー。ないこともないけど」
「あーあー。そういうの、勘弁してくれ」
二人を見て樹は声を上げる。そしてそう言い捨てると樹はベッドに横になり二人に背を向けてしまった。そんな樹を見て会長が言う。
「ああ、すねちゃった」
「もう二人とも帰れ。僕に構うな」
樹は背を見せたまま吐き捨てるように言う。
「いよいよ重傷ね」
女同士の諍いなんて見たくもないと樹は心から思った。そんなのは漫画やドラマの中だけにしてほしい。臭いだけ嗅いでいられればそれで良いのに。樹は久しぶりに以前の自分が戻ってくるのを感じる。
「でも、そんなこと言ってると……」
「ああ、だだだだ、駄目ですよ!」
会長の臭いが近づいてくるのを感じる。影が自分を襲うのを感じる。何をされるのか。構うものか。樹はぐっと体を丸くする。それこそ気にしていることの証左に他ならないのだが。
しかし、会長の手は樹の寝ている敷き布団に触れすぐに離れた。
「なにこの布団へにょってして!」
そして驚いたように会長が言う。
「ん?」
「ほら、これこれ!」
首だけ曲げて樹が疑問の声を発すると、会長は何度か布団を叩くように触って樹に自分の違和感を教えた。
「ああこれ、あの宣伝してるよく眠れる奴」
仕方なく説明する樹。
「何で高校生がこんなの持っているのよ」
「中学までに溜めてたお年玉を使いました」
「若いんだからもっと建設的なことに使いなさいよ!」
「べつに会長に怒られるようなことでは」
言いながら樹は起き上がりベッドに座り直す。このままだと首が寝違えそうだった。そして二人に改めて向き直る。そんな樹に会長はおねだりするように言った。
「ふうん。……ねえちょと寝かせてよ」
「だめですよ」
「けち」
「先に病人扱いしたのはそっちなのに」
「だってこんな良い布団持っているなんて知らなかったんですもの」
「わわわわ、わたしも寝たい、かも」
まったく。騒ぎ始める二人を見ながら樹は思う。頭もますます痛くなってきた。もう限界だ。樹は言う。
「みんな何しに来たんだ。用事がないなら帰れ」
「わあ、怒った」
「すねたり怒ったり、忙しいのね」
「いいかげんにしてください」
樹は言う。実際もう頭が限界だった。下に降りて薬を飲みたいと心の底から思い、だったらそうすればいいと考え、むくりとベッドから立ち上がると二人に言う。
「ちょっとトイレ」
「その間ベッドで寝てていい?」
会長が樹の背中に尋ねる。
「好きにしてください」
それだけ言うと樹は部屋を出てトイレとは逆方向の階段へと向かった。階下に降りて薬を飲み、椅子に座って少し休む。それだけでだいぶ頭痛も気分も良くなってくるのを感じた。良くなったついでに二人に何か飲み物でも持って行ってやるかと思い、樹はお盆にペットボトルのジュースとコップを並べる。そんな様子を母親がにやにや眺めているのがなんだか樹には不快だったのでさっさと二階に上がる。そして違和感に気がづいた。
「……」
二階はひどく静かだ。そして凄く嫌な予感がする。やはり自分は部屋を離れるべきではなかった。樹は自分の部屋なのにノックをしてからドアを開ける。
「……」
目に飛び込んできた光景を見て樹はああやっぱりだと思った。ノックなど気にした様子もなく二人はまた互いに火花を散らし合っている。女というのは目を離すとこれだ。樹は頭を抱えたくなった。
「ジュース、持ってきたんだけど……」
ぼそっと言うが二人ともにらみ合っていて樹の方を振り向きもしない。まったく。人の家で何しているんだろうとか思わないのだろうか。樹は少し腹を立てて二人の視線の間を通り抜けて勉強机の上にお盆を置いた。それでも二人は微動だにしない。仕方ない。道化にでもなるか。樹は覚悟を決めると二人に向かって言う。
「あのっ、黙っているとおっぱいもみますよー」
「……」
「……」
返事がない。おそるおそる言葉を続ける。
「……本当にもみますよ?」
「上月君、ちょっと黙っていて」
会長が樹にびしりと言う。樹は助けを求めるように愛乃の方を見るが、愛乃も頬を膨らませたままコクコクと会長に同意する。
「これは女同士の話なの」
「……」
だったらよそでやって欲しかった。樹は心の中でぼやく。
「で、さっきの話の続きだけど、やっぱりあなたは上月君にふさわしくないと思う」
「そそそそ、そんなのわかってます! はははは、はじめっから、まままま、まるっきり、わかってます!」
会長の言葉にさっきと同じようにどもりながら答える愛乃。そんな愛乃に会長はさらに辛辣な言葉を浴びせかける。
「じゃあなんで付き合っているのよ」
「わわわ、わたしだってそう思って初めは断っていたんです! でででで、でも、いつきがそれでもいいって言ってくれたんです! こここここんなわたしでも好きだって! こんなわたしでも大丈夫だって!」
「上月君、そうなの?」
愛乃の言葉を聞いて樹に尋ねる会長。樹は遠い目で返事をする。
「女同士の話じゃなかったんですか?」
「それもそうね」
そう言うと会長はまた愛乃に向き直って言った。
「でもあなた、だったら身を引くべきだったんじゃない」
「わわわわ、わたしだってそうしたかった。でもいつきは追いかけてきたんです! 追いかけてきてくれたんです。こんなわたしを!」
「……」
黙り込む会長に愛乃は必死になって言葉を投げつけていく。
「だだだだ、だからわたしは追いかけてきてくれたいつきのことを受け入れようって。自分自身の体型のことも含めて受け入れようって……」
「……」
聞いてて恥ずかしいなと樹は思った。それは会長も同じだったのか、僅かに頬を染めている。けれど会長は真顔に戻ると愛乃に言った。
「でもだめよ。あなたでは。だって致命的な欠点があるもの」
「そそそそ、それは何ですか!」
「あなたのにおいのことよ」
「え?」
会長の言葉に愛乃が固まる。
「気づかない? あなたがまわりにどれだけの悪臭を振りまいているか。そんなんことを気づかないで上月君の隣に立とうなんて許されることじゃない」
「そ、そんなの……」
「そこまでにしてください」
劣勢に立たされた愛乃の代わりに樹が静かに声を上げた。その言葉に会長が振り返り少し口元をゆがめて笑って言う。
「女同士の話じゃなかったの?」
「目の前で彼女を馬鹿にされてはそうも言ってられないもので」
「ふうん」
鼻白んだ会長に樹は確かめるように言葉をかける。
「愛乃の言っていることは正しいです。彼女が僕を選んだのではなく、僕が彼女を選びました」
「どうして?」
「それは……」
「ぽっちゃりだから?」
「それとも、その臭いかしらね」
あっけらかんと会長。言葉を続ける。
「まあ上月君の趣味についてとやかく言うつもりはないわ。でも節度ってものがあるの。次期生徒会長が付き合う相手としてこの人はふさわしくない」
「またそれですか」
呆れたように樹。
「何度だって言うわ」
「正直どうでもいいです」
「どうでもよくない」
「どうでもいいって言ってるだろ! 何回言えばわかるんだ! このクソ女!」
「くくくく、くそおんな?」
突然の樹の豹変に言葉を詰まらせる会長。そんな驚いた様子の会長に樹は荒い言葉を浴びせかけ続ける。
「いいかげんにしろ! 好きな人を切り捨ててまで、生徒会長の座なんて欲しくない! そんなことを強制するならさっさと出てけ! このクソ女!」
「……。くっ」
「いつき……」
愛乃は止めようとするが樹はもう止まらなかった。会長に向かって叫び倒す。
「もう勘弁ならない。何でも好き勝手に出来ると思ったら大間違いだ! 自分の道ぐらい自分で決める! 会長の好きにはさせない」
「あたしは好意で……」
「それが余計なことなんだ! あんたはもっと回りを見ろ! 人を育てろ! 人をつまらないことで振り回すな!」
「……」
「……はぁ、はぁ……。ゴホッ」
言い終わった樹は勢い余って咳き込む。しかし目はじっと会長を睨み続けていた。しばらく二人はにらみ合っていたが、やがて会長がポツリと言う。
「わかった。出てく」
「二度と来んな」
吐き捨てるように樹。
「わかった。……さよなら」
そう言ってふらふらと会長は樹の部屋から出て行った。樹はしばらく立っていたがやがてベッドに座り込み激しく咳き込んだ。なぜだか鼻水も出てきたので愛乃の前で恥ずかしかったが鼻をかむ。そうして自分が今泣いていることに樹は気がついた。そんな樹に愛乃は近づき小さな声で言った。
「いいの。それで」
「いいんだよ」
「そういえば、会長、そもそも何しに来たの」
「勉強をする約束をしてたんだ。でも風邪でいけないって言ったら家まで来てくれた」
「そう、なんだ……」
「お弁当まで作ってくれてさ、結構楽しみにしてたんじゃないかと僕は思うよ……」
樹はため息をつく。また人の好意を踏みつけてしまった。それがいくら押しつけがましい物だと言え好意は好意だった。それを自分はまた踏みつけてしまったのだ。
それでも。樹は無言で側にいる愛乃を抱き寄せる。
この決断は間違っていなかったはずだ。自分にゆっくりと言い聞かせる。
しかし。
「!」
愛乃は樹の手を振りほどく。
「? どうしたのさ」
樹は驚いて愛乃を見た。その瞳には涙はなく、真剣に樹を見つめている。
「ねえ。正直に答えて」
「何?」
「わたし、くさい?」
「え?」
「くさいから付き合ったの?」
「……」
樹は黙り込む。会長もとんでもない爆弾を置いていったものだ。さっきまでの苦恨の念が静かに消えてゆくのを樹は感じた。ぐっと手を握る。
「答えられないの?」
尋ねる愛乃に顔を上げる。心はもう決まっていた。
「そんなことないさ」
「え?」
「くさくなんてないさ」
「……いつき」
安堵の表情を浮かべる愛乃。しかし答えはまだ先にあった。
「僕にとってはとってもいい匂いがするんだ」
「じゃあ、それって……」
「そうだね。人によってはそれを嫌うかも知れないな」
「……やっぱり、くさいってこと?」
「そう、だね。……そうかもしれない」
樹は答える。
「あう……」
「でも僕はそんな愛乃が好きなんだ」
「それは、わたしのにおいが好きってこと?」
「始めはそれに執着していたかも知れない」
静かに樹は言った。
「……」
そして黙り込む愛乃に樹は言葉を重ねていく。
「でも執着してわかった。愛乃のいいところもわかってきた。今の僕はもっと愛乃のことを知りたい。愛乃といろんな所へ行きたい。愛乃ともっと戯れていたい」
「……そんなこと言われるとわたし、困っちゃう」
「うん。わかってる」
愛乃の言葉に樹は頷いた。
「……どうすればいいの?」
「愛乃の好きにしたらいい」
「でも、そうしたら嫌いにならない?」
「大丈夫。僕の臭いへの執着は終わったから」
「……」
「何をしても愛乃は愛乃だよ。だから好きにすればいい」
念を押すように樹は言った。
「うん」
「僕は愛乃のこと、愛してるから」
「うん……」
「疲れた。少し休む」
そう言って樹はベッドに横になった。そんな樹に愛乃は静かに囁きかける。
「……ありがとう」
樹は目を閉じた。何だかひどく眠かった。そんな樹の眠りを邪魔するかのように愛乃の声が聞こえてきた。
「ところでさ、お弁当、どうする?」
「捨てちゃえば?」
目を開けそう言う樹。
「もったいないよ。食べようよ」
「……あんなこと言った奴の弁当食べるのか」
「食べ物に善悪はないよ」
「む……」
口ごもる樹に愛乃は自ら食べてみせる。そして言った。
「ほら、おいしいよ?」
「まったく……」
「食器は洗っておくから後で会長さんに返してね」
「わかったよ」
やれやれと樹。そんな樹に愛乃は尋ねる。
「樹も食べる?」
「僕はいいよ」
ベッドの上で首を横にふる樹。
「そっか」
「うん」
「……少し寝る」
「おやすみ」
樹は再び目を閉じる。そうして会長のことを思い出しながら少し眠った。
目を覚ますとまだ愛乃はいた。樹はぼんやりとした頭で愛乃に尋ねる。
「どれくらい眠ってた?」
「一時間ぐらいかな」
「なんか悪いな」
「はい洗って置いた食器。ここに置いておくからね」
「ああ」
愛乃がまとめたタッパーを差し出し樹の見える所に置いた。よく見るとスポーツバッグも綺麗に畳まれている。樹は感心しながら頷く。
「あとジュースも貰ったから」
「そういえば持ってきてたっけ」
「うん」
樹はベッドから起き上がり大きく伸びをして言った。
「よく寝た」
「おはよう」
「うん」
樹は一呼吸置いて言葉を続けた。
「これからどうしようか」
「起きたの見たから帰るよ」
樹の言葉に愛乃はそう返した。樹は申し訳なさそうに少し笑う。
「そっか。なんか本当に悪いな」
「いいの。でも本当にへにょってしてるのね」
「何が?」
「布団」
「ああ……」
思い出したように樹が言う。そんな樹に愛乃は優しくお願いをする。
「今度、寝かせてね」
「ああ、いいよ」
「……ありがと。じゃ帰るね」
「悪いな。玄関まで送るよ」
「うん、悪いね」
そうして二人はゆっくりとした足取りで玄関へと向かった。愛乃は靴を履き、樹と向かい合う。そして言った。
「じゃあね」
「うん。それじゃ」
そう返す樹。すると愛乃は少し声をひそめて言う。
「お母さん、何も言わなかったね」
「まあ言われたら困る」
同じく樹も声をひそめる。
「そうだね。……明日来れそう?」
「とりあえずこれるかどうか朝電話するよ」
「うん」
「それじゃ」
手を振る樹に愛乃が囁くように尋ねる。
「……今日はキスは無し?」
「うつると困るだろ」
そう返す樹。愛乃は小さく頷いて言う。
「そっか」
「ああ、じゃあな」
「おやすみ、しっかり休むんだよ」
「わかってる」
愛乃の言葉に頷く樹。そして最後にバタンと軽い音がして玄関は閉まった。樹はそれを見届けると一仕事終えた職人のようにほっと息をつく。今日はなぜだかひどく疲れている。いや、理由はわかっているのだけれど。樹はそんなことを思いながらフラフラと玄関に背を向けた。
居間に行くと母親にえらく笑われると同時に妙に感心もされた。なんでも我が子ながら偉いそうだ。樹にはよくわからなかった。とりあえずもう一度寝よう。そう思い、樹は水と薬を持って自室に戻り、また眠った。夜にまた目を覚まし、そばにあった薬を飲み眠る。途中何度かの水分補給の目覚めを挟みながら、樹の一日と次の日の朝までの時間は過ぎていった。




