初日(前編)
ごく普通の高校に通い、ごく当たり前の高校生活を送っているように見える上月樹は自ら認める変態である。もちろんそのことは誰にも隠してはいるが。
変態である理由は樹自身が一番よく知っていた。樹がこの世界でもっとも執着しているものは異性の、すなわち女子の匂い――いや女子の発する臭いだからである。『女性』一般の、ではないのは後述する機会があるかも知れない。
教室、廊下、通学路、町中、つまりどこでもそれを嗅ぎ取ると樹はまるで宝物を発見したような嬉しい気持ちになれるのだ。
一言で断ずれば臭いフェチ。
それが上月樹の真実であった。
この嗜好が女子――特にクラスの女子に知られたら間違いなく『どん引き』されることを樹自身もよく承知している。だからこれは彼だけの大いなる秘密なのであった。
樹はよく知っている。女子にとって自分の体臭とは何よりも隠しておきたいものだと。
だからこそ樹は知っている。それを暴き立てる甘く密やかな喜びを。
けれども全ては心の中にしまってある。だから樹は楽天的に考えていた。
『何も悪いことをしているわけじゃない。むしろ人の秘密を暴き立てておしゃべりのネタにしている女子達よりはましな趣味なんじゃないか。なにしろ誰も傷つけず自分の内だけでこっそり楽しむだけなんだから』、と。
その通り、樹は犯罪行為を行っているわけではない。良くある変態のように女子トイレに忍び込んだり女子の体操着の臭いを嗅いだりするようなことはしない。いやしなくても良いと言うべきか。
『そう、この利き過ぎる鼻が良くないんだよ』
そう思いながら樹は誰ともなしに自分の鼻の下を自慢げにこすった。
『こいつがなんでも女子の秘密を嗅ぎ当ててしまうのさ』
確かに樹の鼻は良く効くのだ。現在の所、ではあるが犯罪行為に未だ至ることなく、女子の臭いを満喫できる状況に彼はいた。
そんな樹が今執着しているのが、同じクラスの女子高生、榊愛乃その人である。
彼女は普通の女子高生とはかけ離れていた。――異質の存在と言って良い。
ものすごく、ぽっちゃりなのだ。
それはそれは、もう、ものすごいのだ。
樽の鎧を着込んだ女の子。そんな状況を想像してみて欲しい。それがそのまま榊愛乃の第一印象だ。樽と言っても柔らかい樽だ。歩く――いや動くたびにふにゃふにゃ揺れる。
――デブとは言ってはいけない。あくまでもぽっちゃりだ。
そうして彼女が揺れる度、放逸に彼女特有の甘ったるい臭いを周囲にまき散らす。
それが樹にはたまらない刺激となって鼻をくすぐるのだ。
一言で言えば『たまんねぇ』という奴である。
彼女の存在は見る必要もなくまず臭いでわかる。だからそれを感知するたび、樹は目を閉じていた。今日も自分の席でそれを感知してゆっくりと目を閉じる。
別に愛乃の見た目が醜いからとかの理由ではない。ただ彼女の臭いに没頭したいだけだ。
それほどまでに愛乃の匂い――いや臭いは樹にとって蠱惑的なものなのだ。一心不乱に愛乃の臭いを樹は追い続ける。多幸感が樹の脳を刺激する。
“愛乃のスローボール”と心の中で樹は呼んでいる。彼女の甘ったるい臭いを嗅いでいるとなんとなくこっちも思考がスローモーになってしまうからで、麻薬のスピードボール(コカインとヘロインを混ぜたヤバイドラッグ)にちなんで樹の中で勝手に名付けられた。当然、樹は変態だが健全な日本の学生なので、麻薬などつゆほどもやったことはない。勝手に想像しているだけだ。
一方の愛乃の側である。彼女は毎日お風呂に入っているし、朝、寝汗をかいて気持ち悪ければシャワーも浴びるので別段不潔というわけではない。
ただ自分の臭いというのは自分ではわからないもので、ましてや愛乃はぽっちゃりである。もう一度言うがものすごいぽっちゃりなのである。少し動いただけで汗はかくし、ぽっちゃりなので臭いがこもる脂肪でできた襞をたくさん体にもっている。胸やおなか、脇や、腰。肌と肌がこすれ合うそこからこもった臭いが漏れ出でてくる。そうして愛乃はそれに対しては鈍感であった。
というわけで愛乃は自分の放つ臭いに気づいていないのであった。
女子の友人もこのことに関しては知らん顔をして普通に愛乃と付き合っているし、男子も臭いに関しては沈黙を守っているので、このことは彼女しか知らない秘密――つまり公然の秘密というわけなのだ。
それはある意味愛乃にとっては不幸であったが、樹に取っては幸福以外の何物でもなく、樹はこんな日々がずっと続けばいいと思っていた。
そんなことを思いながら樹が目を閉じてうっとりしていると、臭いの元がどんどん近づいてくるのを感じる。そしてほのかな振動も。それでも樹は目を閉じ続けていた。
「また、ねてる」
振動が止まり、声をかけられる。そう、樹と愛乃は知り合い――いや幼なじみなのだ。しぶしぶといった感じで樹は目を開けて愛乃の豊満な姿を視界に捉える。
「んぁ。まあね」
わざと寝ぼけ眼のふりを作って樹は答えた。
「ちゃんとねてる?」
「ん……どうだろう……」
たわいもない会話。まあ幼なじみの会話なんてそんな物だ。ただの長い知り合い。それ以外の何ものでもない。愛乃のぽっちゃりした姿も見慣れている。
「おそくまでおきてるの?」
「どーだろ」
投げやりな会話。けれど脳は愛乃の臭いを鋭敏に捉え続けている。顔がだらけてしまいそうな、愛乃の強烈な臭い。それを隠すために樹はわざと仏頂面を作っている。うーんと背筋を伸ばしてわざと鼻で息をして臭いを胸一杯に吸い込む。愛乃の臭いの粒子と鼻孔が触れあう幸せの一瞬。悟られてはいけない一瞬。樹はこの一瞬がたまらなく好きだった。
「んで、何しに来たの?」
そしてごまかすように樹。
「起こしに来たの。もうすぐ授業だよ」
「そりゃすまない」
実は全然寝てなかったのだが、樹は勘違いをそのまま受け入れる。
「つぎ、最初に漢字の小テストだよ。それじゃあね」
そう言って愛乃は手を振って樹から離れて女子のグループの隅っこに身を寄せた。女子のグループも愛乃を受け入れるような動きを見せる。
愛乃は――あの臭いにもかかわらず嫌われるということは特になく、むしろ意外とクラスでも友人が多い方ないのだった。ぽっちゃりとした見た目で第一印象はそれほど良くないが、話してみると意外と話題も豊富で機転も利き、何よりコロコロと良く笑い、明るいところが人気の秘訣なのだろう。もしかしたら、女子には愛乃と並んで自分を細く見せたいか、はたまた愛乃の緩みきった体を見て安心したいという理由もあるかも知れない。
『むかしは良くいじめられていたっけ』
そんな様子を横目で見て樹は思う。そうして目を閉じた。愛乃の残り香と戯れる。
『あれは小学校ぐらいだったかなぁ』
むかしから愛乃はあんな感だった。けれど、細かいことは思い出すのを樹は放棄する。今はこの残り香と遊んでいたい。
それにしても。
あの頃と比べたら愛乃は大きく成長したと樹は思う。心も精神も、そして体も。そうして樹はいつの間にか愛乃の臭いに惹かれるようになっていた。
――一瞬不乱に、嗅ぎ戯れる。
――一瞬不乱に。
――一瞬不乱に、邪魔が入る。若干緊張した臭いと、シャープペンシルの臭い。そうしてやってくる中年女の濃い化粧の臭い。授業が始まったのか。樹は目を開ける。戯れは終わった。授業の準備を始めなくては。と前の席の少女がこちらを向いていることに気がついた。目が合う。
彼女の名前は日野由衣。クラスでは目立たない少女だ。樹が目を開けたのを確認してさっと目をそらす。まるで猫のようだった。
『はて、変な顔でもしてたかな』
樹は不思議に思ったが、特に詮索をすることなく授業の準備をする。本当は休み時間に済ませておかないといけないのだが。
授業の冒頭は愛乃の言ったとおり漢字の小テストだった、前の席の由衣からプリントを受け取り後ろに回す。そういえば、日野由衣は臭いの乏しい――いや無臭の少女だ。樹は彼女の臭いを嗅いだことがない。
『本当に猫のような女子だ』
黒いおかっぱの後ろ姿を見ながら樹はそんなことを思い、すぐに頭の中から消し去ると、目を下に落とし、漢字テストに集中を開始した。
授業はつつがなく終わり、休み時間になった。樹は窓を大きく開けて顔を出し外を眺め見た。正確には外を見るふりをした。窓を大きく開けたのは教師の化粧の臭いが鼻についたのでそれを教室から掃き出すためである。
樹はこういうケミカルで人工的な臭いが好きではない。女性の香水の匂いとか化粧の匂いとかがそれに当たる。だから樹の好きな臭いはまだ化粧も知らないような女子の臭いに限られるのであった。
教室を浄化させている間、ぼんやりと外を眺める樹。こういう時間も樹は嫌いではなかった。街の臭いが微かに感じられる。それより遠くの森の臭いも微かに感じ取れる。世界が風に乗って樹の鼻に届く。それは視界よりも遙かに遠く、樹を遠くまで連れて行ってくれる。
折しも季節は初夏だった。制服も半袖になり、女子も世界も匂い立つ季節。
そんな樹の鼻にすっと別の臭いが紛れこむ。嗅ぎ慣れた臭い。愛乃の臭いだ。どうやら同じ窓から外の光景が見たいらしい。樹は体を隅に寄せ、愛乃が入れるスペースを作る。するっと入ってくる巨体。体がふれあいそうになるくらい近い。体温が伝わってくるくらい近い。
「風が気持ちいいね」
愛乃は外を見たまま樹に言う。
「ああ」
ぼんやりと樹。愛乃も猫だな。どら猫だけど。そんなことを樹は思う。
「授業中に覚えたことを全部忘れそう」
そう言って愛乃は小さく伸びをした。豊満な臭いが樹の鼻孔を刺激する。樹はそんなだらしない愛乃の姿を視界に収めた。
――ほんとうにぽっちゃりしてるなぁ。
愛乃のぽっちゃりとした体は美しいとはお世辞にも言い難かったが、伸びをして、しなを作ったその姿は案外女性らしく、美術のデッサンモデルにするにはぴったりの様に樹には見えた。
「そろそろ閉めるぞ」
「うん、わかった」
樹はそう言い、窓を閉めた。教室の空気はすっかり入れ替わり、樹の心を落ち着けさせる。目を閉じうぅん、と伸びをして教室の主に女子の臭いを鼻孔に入れる。まあ大半は愛乃の臭いだったけれど。
「変なの」
それを見て愛乃が笑った。
「どうしてさ」
閉じていた目を開けて樹は愛乃に聞いた。
「窓開けてからじゃなくて閉めてから伸びするなんて」
「……ああ、そうかもな」
自分が変態であるという自覚を忘れていた。気づかれたかも知れないと樹は思い、僅かに心を緊張させる。けれどもそれは杞憂だったようだ。愛乃はにこやかに手を振って、樹から離れてゆく。行き先はいつもの女子グループだ。樹も自分の席に戻った。
戻る途中ぼんやりと席に座ったままの日野由衣と視線を交錯させる。そういえばこの女子もねこだな。きらきらした瞳が樹の目に写る。その口が何かを呟いたような気がしたが、樹は特に気にも止めなかった。
自分の机に座り目を閉じる。そうして樹はいつものように授業の臭いが鼻孔に混じるまで初夏の暑さで匂い立つ女子と愛乃の臭いと戯れた。それが樹の日常であった。そうしてそんな樹を前の席の日野由衣が不思議そうにじっと見つめている。
いくつかの授業を終え、昼休みになった。樹は様々な弁当の臭いがこもった教室はあまり好きではないので、晴れの日は中庭で登校途中で買ってきた菓子パンを食べる。雨の日は、屋上と階段の間の踊り場が定位置だった。今日は晴れなので中庭へコンビニ袋をぶら下げて向かう。
樹の定位置には先客がいた。樹の姿を認めると、軽く片手を上げてくる。隣のクラスの進藤だ。去年までは同じクラスで仲も良かったが、学年が上がってクラスが別れた友人。いまではこうして昼食ぐらいを一緒に食べる程度の関係でしかない。樹もコンビニの袋を持った方の手を上げて答え、二人は座って食事をとる。
「お前もやれよ。いまなら俺達のグループに入れてやるぜ」
「めんどくさいし。そもそもスマホ持ってない」
会話の内容は、今はやりのSNSのことだった。あいにくと樹はアナログな方で、そういうのにはあまり興味ない。食事の時も頻繁に通知が飛んでくるのか、進藤はスマホ片手に食事をしている。樹はそれがなんだか下品な行為に思えて、それも乗り気でない一つの理由であった。
「機種変更して貰えよ」
「うちあんまりお金ないんだよ。それにそれ、毎月料金かかるんだろ」
「親に出してもらえ」
「だから貧乏なんだって」
「はいはい、上月は貧乏っと」
「何打ち込んでいるんだよ」
スマホをいじりながら呟く進藤に樹は非難めいた声を上げた。
「上月がこれやらない理由。これ使ってお前と会話したい奴結構いるんだぜ。それも女子で」
進藤はそんな非難を気にした様子もなくスマホを持つと樹に向かって笑いかける。
「へぇ」
「興味でたか?」
進藤は尋ねたが、樹は首を横に振った。
「別に。直接話せばいいのに。それに貧乏なのは変らないからなぁ」
「馬鹿、女子だぞ女子。それにこういういつでも繋がっている感覚が良いんじゃないか」
「そうかなぁ。なんか、めんどくさそうじゃね」
樹の言葉に進藤は少し考え言った。
「まあ、そう思うときもあるな。でもな、やっぱり仲間って大事だなって思うときもあるんだ」
「ふむぅ」
樹はパンを噛みながら生返事した。
「話すだけで大抵のことは解決するしな」
「そんなものかね」
「そんなものさ。おっと、ちょっと落ち込んでる奴がいるから集中するぜ」
そう言って進藤は食べかけのパンを袋にしまうと、本格的にスマホに集中しだした。言葉を選んでいるんだろう。その表情は真剣そのものだ。樹は声をかけられず、ぼんやりパンを食べる。
『その相手に恋しているな』
おそらくだが。そんな匂いが進藤の体から感じ取れる。緊張の匂いと僅かに感じる弛緩の匂い。どうでもいいので、遠くを見るふりをして匂いから少しでも遠ざかる。男の色香なんて食事の邪魔でしかない。菓子パンを口に押し込みながら思う。
「おおっ! こりゃすげえ情報」
と、先まで真顔だった進藤が大声を上げた。思わず振り返ると、スマホを持った進藤がニヤニヤした顔でこちらを見ている。
「なんだよ。薄気味悪い」
「いや、お前に関するいい情報が入ってきてな」
「なんだよそれ」
「まあこういうのは秘密なんだが、特別に教えてやるか。ほれ、このショット」
そういって進藤がスマホの画面をいじり、一枚の写真を見せる。おそらくスマホで撮った物だろう。そこに座って目を閉じる樹と前の席の日野がこちらを向いている写真があった。
「俺が映っているが、なんか変か?」
「相変わらずお前自分の席で目を閉じてるの好きだな……ってそんなことはどうでもいいんだ。問題は前の席の日野だよ」
「日野がどうかしたか?」
「写真についていた文章だと、日野、お前のことをずっと見てたらしいぜ」
「写真だと別に俺のこと見てないようだけど」
樹の言うとおり、日野はまっすぐに写真の撮り手を見つめている。
「それは撮るときに気づかれたんだろ」
進藤の言葉に樹は興味なさそうに進藤に言った。
「それじゃあほんとかどうか疑わしいな」
「いや信頼できる奴からの情報なんだって」
興味ありげに進藤は身を乗り出す。樹は僅かに身を引いて尋ねる。
「信頼できる奴って誰さ」
「それは言えない。お前はメンバーじゃないからな」
急に妙に真面目な顔をすると進藤は答えた。樹はその物言いに僅かに鼻白んで答えた。
「そうかい。でも俺知らないし。知らない物は答えようもない」
「ええっ! お前気づいていないのかよ」
「ああ。目を閉じてるからな」
樹は当たり前のように答えた。
「あの日野に見つめられているんだぞ。普通気付けよな」
「いやだから目を閉じているんだから普通気づかないだろ」
樹は同じような言葉で進藤の言葉を否定した。
「でも日野だぜ。普通気づくって」
「お前は気づくのか」
樹は聞いた。
「気づいた」
「ほほう。隅に置けないな」
進藤の告白に樹は僅かに心を動かした。笑みを作って進藤の顔をのぞき見る。そんな樹の行動に進藤は慌てて弁明する。
「俺はたまたま見られただけだって。去年のことだけどちょっと教室でヘマやってみんなの視線を浴びた時、真っ先に気づいたのが日野の視線だった。アイツの視線、目立つんだよ。どうしてか知らないけれど」
進藤の言葉に樹はやや残念そうに答えた。
「それだけじゃなんとも言えないなぁ」
「そうか? 俺は痛さで目を閉じてたし、視線を感じるなと思ったらそこに日野の視線があった。それで十分じゃね?」
「ふむん」
「だからお前も目を閉じていたとしても気づくはずだと思うんだけどな」
進藤は言ったが、樹はどうも信じられなかった。適当に言葉を返す。
「ふうん。顔をよく見てみればわかるんじゃないか」
「女子の顔なんか付き合ってもないのにまじまじと見られるわけないだろ。おまけに同じクラスじゃないのに」
「そりゃそうだ」
樹は同意した。そういえば同じクラスなのに愛乃の顔も最近はよく見てない。まあ臭いでだいたいわかるけど。愛乃は――はて、何だろう。可愛いとは違うような気もするし、美人では決してない。
『愛乃は――とにかく、ぽっちゃりだ』
結局そう納得させる。あと自分好みの臭いのする女子。幼なじみ。そんなところか。それ以上でもそれ以下でもない。
『なんで愛乃のことを思い出したんだろうな』
ぼんやりと思う。答えは出なかったので、樹は食事を再開した。進藤もスマホに視線を落としなにやら片手でいじり始めた。昼食の時間はこうして過ぎていった。
午後は体育だった。女子は着替えを持って更衣室へ向かう。男子は教室で着替える。女子が消えた教室は、樹にとって火の消えた暖炉のような物だ。極力臭いを嗅がないように、手早く着替えると校庭に出た。女子は体育館でバスケのようだ。男子は持久走。理不尽の極みである。けれども。
『いまは我慢我慢』
樹はそう覚悟し、淡々と走った。なるべく集団には入らないように、風下には立たないように、注意しながら位置取りしてゆく。まあそんなに体力がある方ではないので、あくまでも努力目標だ。実際、樹は何度も男子の汗臭い臭いを嗅いだし、その他、口に出すのも憚られる臭いを嗅いだ。体操着ぐらい体育の度に洗ってくれと叫びたくなるのを押さえながら。
そんなことを思いながら何とか走り終える。くたくただ。自分の汗の臭いが鼻につく。けれど、疲れ果てて座り込み、空を見るのは悪い気分じゃないと樹は思う。もんわりと自分の汗と臭いが初夏の大気に溶けてゆく感覚。息が荒い。荒いままに任せ、外の空気を取り込んでゆく。
体育は終わった。あとはお楽しみタイムだ。手早く着替え自席に座り、目を閉じると更衣室から帰って来た女子の隠しきれない臭いを嗅ぐ。次々と女子は教室に帰ってきて匂いを周囲にまき散らす。いつもは感じられない人からも臭いを感じ取れて、樹は嬉しくなってしまう。
けれどもそれを阻害する要素もあって。様々なデオドラントや消臭スプレー、そう言った匂いが樹の鼻孔に入ってくる。
『邪魔な匂いだ』
そんなことを思いながら本物の女子の臭いを嗅ぎ分けてゆく。このときの樹はまるで鑑定士のようだった。真贋を確実に嗅ぎ分けるプロの臭い鑑定士。たまに男子の臭いとかもあってそれは地雷である。ひときわ強烈な臭いが教室に入ってくる。これは愛乃だろう。目を閉じていてもわかる。やはり愛乃の臭いは華やかだった。いつもの臭いに汗臭さも加わってそれはそれは極上の臭いを発している。デオドラントなんかも使わないところが好感を持てた。馥郁した臭いを楽しんでいると、カタンと机に椅子が僅かに触れる振動が起き、前の席に誰か座ったことがわかる。臭いでわかった。というより無臭だからわかった。これはおそらく無臭の少女、日野由衣だ。
そういえば。
樹は昼に言った、進藤の言葉を思い出していた。前の席の日野由衣が自分が目を閉じている姿を見ていたと。今も見ているだろうか。目を開けたら目を合わせることができるだろうか。
『ま、どうでもいいか』
いまはクラスの女子の臭いを嗅ぎ分けることが先決だ。樹はそう決定した。
前述したが樹の本質は変態なのである。その本領をここで発揮しないでどうすると言わんばかりに、鼻孔を広げクラスに充満した女子の臭いを嗅ぎ分ける。樹にとっての至福のひととき。体育の後特有のたわいのない会話の花がところどころで咲き乱れ、豊満な臭いが教室中を包む。それは次の授業が始まる、僅かな時間に咲いた花。樹はそれを存分に楽しんだ。
今日の授業が終わり、放課後になった。辺りを包むのは弛緩した臭いと空気。樹の前の席の日野由衣は鞄と体操着の入った袋を持ってそそくさと教室を出て行った。
そういえば樹は彼女が何部か知らない。まあいままで気にもとめてなかったのだから当たり前なのだが。そんなことを思いながら樹がぼんやりしていると強烈な臭いに頭を殴られる。これは愛乃だ。樹は振り返る。午後に体育があったから今日の臭いは一段と冴えている。甘い匂いがするのは、多分体育の後に糖分たっぷりのジュースを飲んだからだろう。愛乃は甘い物が好きだ。まあ女子で嫌いという人間はあまりいないだろうが、愛乃は群を抜いている。
ノンカロリーのジュースはまず飲まない。人工的な甘さが気に入らないらしい。
かといってお茶や水を飲むわけではない。『うちに帰ればただで飲めるでしょ?』それが愛乃の言い分だ。樹にしたらどこか時代がずれているような気もするし、かといって家で愛乃が水やお茶を飲んでいる姿も想像できない。まあ砂糖入りの紅茶はたまに飲んでいるのを見るけれど。
「今日も生徒会?」
愛乃が尋ねる。
「ああ」
「がんばってね」
「頑張るも何も、たいしたことしているわけじゃないさ」
樹は一応生徒会のメンバーである。役職は書記。生徒会と言っても教師と生徒の橋渡し役のごくごく普通の生徒会だ。超権力を持ったり、生徒会特別の制服があるというわけではない。普通すぎて誰もやりたがらないので、樹が立候補して普通に推薦された。書記という役職は生徒会の会議でそういうふうに決められた結果である。
「それでもすごいよ。わたしだったら立候補なんて目立つことできないよ」
愛乃が言った。樹は軽くからかう。
「お前はいるだけで目立つからな」
「ひどい」
樹の軽口に愛乃がふくれる。
「まあ、あのときは――、誰も立候補する奴がいなくて空気が重かったからな。俺が真っ先に折れた、それだけだよ」
実際、樹の言うことが正しかったのである。クラスから一人代表を選ぶとき、誰も手を上げずにじりじりと時間だけが過ぎていった。結局その空気に真っ先に折れたのが樹だっただけだ。けれど、入ってみればそんなに悪くはなかった。放課後まで残って運動部の汗の臭いも嗅げるし、クラブ活動の写真撮影だと言って、堂々と部活中の女子の写真を収めることができる。まあ写真は割とどうでも良くて、樹はいつもは入れない部活中の汗も拭かない女子の臭いを堪能できればそれで良いのだが。
「愛乃は帰りか」
「そう。……友達と、今日はカラオケかな」
愛乃は帰宅部である。帰宅部と言っても女子は友達づきあいがあるからそれなりに忙しいらしい。樹は手を振って愛乃を送り出した。
「そうか。じゃあな」
「うん」
臭いと巨体が離れてゆく。そうしてわずかな熱も。教室は静寂を取り戻す。
『こんなに静かだったかな』
樹は不意に不思議な違和感に囚われたが、自分の鞄を持つと、生徒会室へと向かった。それにしても女子だらけのカラオケか。いい匂いがしそうだ。ぼんやりとそんなことを思っているうちに生徒会室前までたどり着いていた。