交渉8
すべての思考がマヒし、抗いがたい衝動が全身を支配する。
このまま青年と一夜を共にし、快楽を分かち合いたいという気持ちさえ生まれてくる。
その一方で、青年と一夜を共にする代償があまりに大きいことを、サラは自覚していた。
恐らく、青年と一夜を共にしたことを理由に、サラは祖国に連れ戻されるだろう。
そこでサラはオリガとして、青年の婚約者としてその隣に並び、再び財閥の権力争いに巻き込まれることになるだろう。
青年のキスの心地よい感触を味わいながら、サラは必死に自分を保とうとする。
――このままじゃ。このままじゃ、駄目! わたしには、まだやるべきことがあるんです。
抗いがたい衝動を振り払う。
「アレクセイ兄さま」
青年が唇を離した時を見計らい、声を掛ける。
サラの両目に涙が溜まる。
「何だい、オリガ」
青年はベッドに横たわっているサラからゆっくりと体を離す。
その顔を見下す。
「ごめんなさい、アレクセイ兄さま。やはりわたしは、兄さまの気持ちに応えることは出来ません。本当に、ごめんなさい」
サラの両目から涙がこぼれ、その紅潮した頬を伝う。
曲げた両足に力を込め、青年の急所を膝で蹴り上げた。
「ぐっ!」
青年は小さく呻き、沈黙する。
体を丸め、ベッドの傍らに倒れる。
サラは青年の体の下からはい出すと、乱れたバスローブを整え、出口に向かって駆けだす。
「ま、待て、オリガ」
背後から青年の苦しげな声が聞こえてくる。
目の見えないサラは、いつ青年が追ってくるか気が気ではなかった。
部屋に置かれた調度品に何度もつまずいたが、サラは出口までの道は覚えていた。
出口の扉にしがみつき、扉の鍵を開ける。
扉を開けて、部屋の外へと飛び出す。
サラが部屋の外に出ると、通路にいた男たちがいっせいに振り返る。
「オリガ様?」
「そんな恰好で、どちらに行かれるのですか?」
その話し方から、男たちが青年の部下であることに予想がついた。
サラは壁に手をついて、その男たちに近寄る。
「アレクセイ兄さまの命令です。わたしを今すぐカルロさんたちのところへ連れて行ってください」
サラは青年の名前を出し、男たちに命令する。
そうすれば青年の部下である彼らが従うと思ったのだ。
男たちは困ったように視線を交わす。
男たちのまとめ役である中年の男性がサラの前に進み出る。
「オリガ様、申し訳ありませんが、そのご命令をお受けすることは出来ません。たとえオリガ様であっても、何人であろうとも、ここを通してはいけないと、アレクセイ様から厳命を受けておりますので。そして、アレクセイ様ご本人でない限り、誰のご命令であろうとも従ってはいけないことも厳命されておりまして」
「そ、そんな」
サラの顔から血の気が引く。
男は強い口調で話す。
「さあ、オリガ様。お部屋にお戻りください」
行く手を男たちに阻まれ、サラはこわごわ背後を振り返る。
振り返った先から声が聞こえる。
「そうだよ、オリガ。さっきのは結構痛かったんだよ。オリガは、本当はそんな乱暴な子ではないだろう? 恩を仇で返すような悪い子ではないだろう? いい子だから、一緒に部屋に戻ろう」
部屋の扉にもたれかかり、青年は苦しげな表情を浮かべ、サラを見下ろしている。
「アレクセイ兄さま」
サラは真っ青な顔で青年から距離を取る。
その背中が男の大きな体とぶつかる。
「オリガ様、どうかアレクセイ様と一緒にお部屋へお戻りください」
男の手がサラの肩にかかる。
「い、いやっ」
サラは首を横に振る。
長い黒髪が揺れる。
もし戻ったら、今度こそ青年から逃げることは出来ないと、サラにはわかっていた。
――わたしには、まだやりたいことがある。普通の学校生活も送りたかったし、歌だってもっと上手になりたかった。普通の学校の友達だって欲しかったのに。
サラが求めていたのは穏やかな生活だった。
社交界でもてはやされ、注目を浴びる日々を求めているのではない。
サラの原点は、両親と共に過ごした貧しいが平穏な毎日だった。
男は困ったように言う。
「オリガ様、そんな聞き分けのないことをおっしゃらないで下さい」