交渉1
車から降りたサラは、見えない目で空を見上げた。
サラの目には、ちらちらと降っている雪は見えなかったが、冷たい空気を肌で感じることはできた。
厚い毛皮のコートを着込んだサラは、はあっと白い息を吐き出す。
黒く長い髪がふわりと揺れ、白い頬が赤く染まる。
「サラさん。雪が積もってるんで、足元に気を付けてくださいね」
同じように車から降りたカルロが、サラの隣に立つ。
「お気づかいありがとうございます、カルロさん」
サラはカルロを見上げ、軽く頭を下げる。
目の見えないサラでも、声の聞こえた場所から、カルロの大体の場所は把握できる。
目が見えない分、匂いや音には敏感だった。
「交渉相手とは、ここで待ち合わせのはずですけれど、どこに行ったんでしょうか?」
雪の降り続く人気のない公園をカルロが見回す。
待ち合わせの相手を探す。
サラは杖を握り、革の手袋の両手をすりあわせる。
そんなことをしても温かくならないのはわかっていたが、気分の問題だった。
――ここは、故郷イストアとの国境の街なんだ。
サラはぼんやりと考える。
数か月前に逃げてきた祖国のことを思い出す。
――ラスティエ教国に逃げて来て、数か月間。あっと言う間だったな。
祖国で過ごしてきた十数年間よりも、ラスティエに来てからの数か月間をひどく懐かしく思う。
祖国での出来事は、ずっと昔のことのように遠い。
彼女の中では思い出になりつつあった。
――ラスティエ教国に逃げてきた時、もうイストアには帰らないと思っていたのだけど、こんなに早く戻ってくることになるなんて。
弟と故郷を出る時、もう二度と帰ってこないだろうと、その時は思った。
まさかこんなにも早くの帰郷になろうとは、その時は思ってもいなかった。
「サラさん、交渉相手がみえられたみたいですよ」
カルロの声でサラは現実に引き戻される。
雪を踏みしめてくる数人の足音が聞こえる。
「やあ、オリガ。元気そうだね」
よく通る懐かしい青年の声がサラの耳に届く。
オリガとは、サラが捨てた名前。かつて故郷で呼ばれていた名前だった。
「お久しぶりです、アレクセイ兄さま」
サラは笑顔で答え、コートの裾をつまみ、丁寧にお辞儀をする。
青年はサラに親しげに話す。
「あぁ、そんなにかしこまらなくていいよ、オリガ。おれと君との仲じゃないか。折角こうしてまた再会できたんだ。これを運命と言わずなんと言おう。おれとオリガは、運命の赤い糸で結ばれた恋人同士なんだよ」
青年がサラに歩み寄り、腕を伸ばす。
サラを抱き寄せようとする。
寸でのところで、サラは身を翻す。
目が見えないとは思えないほどの素早い動きだった。
サラは青年に向かってにっこりと笑いかける。
「まあ、アレクセイ兄さまったら、冗談がお好きね」
「ははは、オリガは照れ屋さんだなあ」
青年が手を伸ばすたびに、サラが手に持っている杖でそれをはたき落す。
傍目で見ていたカルロは二人を見て、奇妙な顔をする。
サラと青年の不思議な光景に、しきりに首をひねっている。
青年に着いてきた黒服の男たちは二人のやり取りに慣れたもので、呆れた様な顔をしつつも黙って見守っている。
そんなやり取りが数度繰り返され、ようやく諦めたのか青年はふっと息を吐き出す。
「場所を移そうか、オリガ。こんな場所では、いつ誰に見られるか、わかったものじゃないからね。おれもお忍びである以上、安全な場所でゆっくりと君と話をしたいからね」
青年は雪に煙る街並みを振り返り、乗ってきた黒い車を示した。