交渉12
夕食が終わり、青年は部屋に戻っていた。
部屋に設置された盗聴器はすでに取り外されたものの、居心地の悪さから別の部屋に変えてもらった。
ベランダで夜風に当たりながら溜息を吐く。
――おれって、そんなに軽薄そうに見えるのかなあ。
青年の金色の髪が夜風になびく。
暗闇に浮かぶ月を眺める。
雪はすでに止んでいたものの、風は氷のように冷たかった。
青年の頭を冷やすのにはちょうど良かった。
不意に部屋の扉がノックされる。
「若、入ってもよろしいでしょうか?」
部下の男の声に、青年は背を向けたまま答える。
「あ~、どうぞどうぞ。鍵は持ってるだろう?」
ふてくされたまま答える。
――どうせおれって、運のない男だよ。ばらばらになった財閥をまとめるのに、おれがどれだけ苦労してるか、みんな何も知らないんだもんね。みんなおれの苦労も知らないで、いい気なものだよ。
「失礼いたします」
男は律儀に声をかけ、鍵を開ける。
部屋の中に入る。
そしてベランダの青年の後姿に頭を下げる。
男について、何者かが部屋の中に入ってくる。
「では、私めは警護の仕事に戻りますので。これで失礼いたします」
「案内していただいて、ありがとうございます。話が終わりましたら、お呼びしますね」
女性の声が聞こえてくる。
背中越しに男の声を聞いていた青年は、外から鍵をかける音に振り返る。
そこには杖を持った私服姿のサラが立っている。
「夜分遅く申し訳ありません、アレクセイ兄さま」
サラは困ったように笑い、首を傾げる。
「お邪魔だったでしょうか?」
青年はぶんぶんと首を横に振る。
予想もしなかった再会に、青年の頬が紅潮する。
声が上ずる。
「そ、そんなことはない。そんなことはないよ、オリガ。おれも君と話しがしたいと思っていたところなんだ」
青年は慌ててベランダから部屋に戻る。
立ち尽くしているサラの手を取る。
サラは驚いて肩を震わせたが、青年の手を振り払うようなことはしなかった。
「あ、すまないね。べ、別に変な意味はないんだ」
それに気が付いた青年は、サラの手を離す。
「い、いえ、わたしの方こそ申し訳ありません」
青年はばつが悪そうに部屋の中を見回す。
ソファを指さす。
「とりあえず、座らないか、オリガ。何か飲み物も用意しよう。オリガは何がいい?」
「あ、あの、何か果物のジュースがあるのでしたら、それで」
「じゃあ、おれは果物のカクテルを頼もうかな」
サラは杖でソファの位置を確認し、そこに座る。
青年はテーブルを挟んで向かいのソファに座る。
本当はサラの隣に座りたかったのだが、そこは遠慮する。
間を置かず頼んだ飲み物がそれぞれ届き、部下の男がテーブルの上に並べるのを青年はじっと見ている。
グラスがテーブルに並べられるのを見て、青年は息を吐き出す。
自分の頼んだ果物のカクテルを手に取る。
向かいに座るサラも、クランベリージュースのグラスを手に持っている。
ストローから一口すする。
「あ、あの、アレクセイ兄さま。わたしは、その、アレクセイ兄さまをずっと誤解しておりました。申し訳ございません」
サラは開口一番、青年に謝った。
カクテルを手に持っていた青年はそのまま固まる。
目を丸くする。
「あ、あの、気を悪くしないで下さいね。わたし、ずっとアレクセイ兄さまは、女性にだらしない方だと誤解しておりました。女性であれば、誰でもいいのだと、ずっと思っていたのです。で、でも、本当は、わたしのことをずっと大切に思っていてくれたのだと知って。今度はいつアレクセイ兄さまに会えるかわからなかったので、一言お詫びにと思いまして。それで、こんな夜分遅くなってしまって」
サラの話を聞いて、青年は何者かが彼女に入れ知恵したのだな、と見当をつける。
そうでなければ、あんなことがあった後に突然サラ一人で、青年の部屋を訪ねてくるはずがない。
青年はふっと目元を緩める。
「いいよ、いいよ。オリガが誤解するようなことをしているおれにも、問題はあるからね。それにオリガを連れ戻したいがために、あんな卑怯な手を使ったおれにも嫌われる原因はあるから」
「あ、あれは」
サラはその時のことを思い出したようで、顔を赤らめる。
クランベリージュースをごくごくと飲む。
「あ、あのことは、突然のことで、驚きましたけど。兄さまにだって、色々な理由があったと思います。確かにあんなことは許されることではありませんが、兄さまはわたしのことを思って下さる気持ちは、十分に気付いていたはずなのに、その気持ちに気付かなかったわたしも悪いのです」
サラの顔が飲みかけのクランベリージュースのように真っ赤になる。
青年は頬杖をついて、そんなサラをかわいらしいと思いながら、笑顔で見つめている。
ストローに口をつけ、恥ずかしさを紛らわすために飲み続ける。
ついには空っぽになる。
「と、とにかく、わ、わたしは、兄さまのことは嫌いではないです。兄さまがわたしのことを思って下さるのは、とてもありがたいことだと思っています。ただ、兄さまの気持ちに応える勇気が、わたしの方になくて、それで」
サラの呂律がだんだん妖しくなっていく。
「兄さまにキスされた時、とてもうれしかったのです。でも、わたしは、兄さまに何も報いることが、できません。兄さまにご恩を返すことは、出来ない、の、です」
青年は顔を上げ、顔を真っ赤にしたサラの様子を不審に思う。
サラはついにソファに倒れてしまう。
「オリガ?」
青年は驚いて立ち上がる。
サラに顔を近付け、安らかな寝息が聞こえたことに安堵する。
テーブルの上に置いてあった空のクランベリージュースのグラスを手に取り、鼻を近付ける。
そこからはアルコールの匂いがする。
「やはり、おれのカクテルと間違えて飲んだのか」
サラも緊張していたために、気付かなかったのだろう。
青年はグラスをテーブルに戻す。
酔っぱらってソファで寝入っているサラを困ったように見下ろす。
部屋まで送って行こうかと考え、やめる。
もしも眠り込んだサラを青年がおぶって連れて行ったら、カルロたちに何と思われるかわかったものではない。
手近にあった毛布をかけ、青年はちょうどサラの寝顔が見える位置に座る。
ほんのりと赤く染まったサラの頬にかかった黒い髪をどける。
サラは幸せそうな顔でソファで寝入っている。
つられて青年も笑みを浮かべる。
「おれって、紳士的な男だと思うな。だって眠っている好きな女性に襲い掛かるような真似はしないんだから」
グラスを傾け、絨毯の上に座る青年はひとりごちた。
静かな部屋にサラの穏やかな寝息が木霊する。
ベランダの窓ガラス越しに、青白い月の光が降り注いでいた。




