深淵の来訪者
日本人形の類いを恐いと思う人はよく居るのだろうけど、私はそんなことを感じたことはない。
例えば先日首を折ってしまったお雛様が毎晩恨めしそうに枕元に来たらそれなりに恐いだろうけど、そんな目にあったことなどない。
「……」
よって今手の中にある祖母の人形もまったく恐くない。
一ノ宮さんに長い黒髪の女性と言われ真っ先に浮かんだ人形。しかし家に帰り手に取ってみれば、嫌な気配など感じない、むしろ見ていると落ち着く人形でしかない。
「というか本当に一ノ宮さんに似てるねあなた」
手の中の人形をよーく眺めて思うのはそんな事。どう見てもこの人形が体調不良の原因とは思えない。
かと言って一ノ宮さんがたちの悪い冗談を言ったとも思えないが。
「……まあいいや」
考えても仕方ないと私は人形を棚の上のガラスケースの中に戻した。
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――やけに寝苦しさを感じた。
体に鉛を入れられたみたいな何とも言えない怠さと居心地の悪さを感じて、私は目を開いて室内を見渡した。
蛍光塗料の塗られた時計が見えないということは明かりを消して寝入ってからそれなりに経っているらしい。
横向きに寝て背を向けた網戸の向こうは静かで、虫すらも眠っているみたいだ。
「……」
夏の夜にしては涼しいが、体はどうにも倦怠感に包まれている。
何か冷たいものでも飲もうか。そう思いドアに目を向けた所で、私は背に氷柱を刺されたみたいに身を硬直した。
「……」
僅かに開いたドアの向こう。何も見えない闇の中で、赤く血走った目が二つ宙に浮いていた。
「――ぁ」
声がでなかったのは幸いか。しかし体は異常なそれに、恐怖に支配され動かせない。
いや、動かせたとしても動こうなんて気にはならなかっただろう。
闇に浮かぶそれは獲物を探してさ迷う獣を思わせ、ただ息を殺してやりすごす以外に選択肢が浮かばなかった。
――イブキ!
不意に甲高い、鳥の鳴くような声が聞こえてきた。同時に廊下に浮いた目は室内へとやってくる。
――イブキ!
微かに入り込んだ月の光に照らされて露になったのは、赤い着物を着た女だった。
自分の体を支えきれないのか、一歩踏み出す度に不自然に足が折れ曲がり、長い袖と一緒に腕を振り回しながらドアの前を左に右に歩き回る。
体が沈むのに合わせて水に濡れたみたいに重そうな黒髪が揺れる。その間から見える目は赤く染まり、何かを探し求めるようにギョロギョロと動き回っている。
――イブキ!
そして不意に叫ぶと、一瞬だけ私の方を見て、また室内を左右に歩き始める。
何を探しているのか。
考えるまでもない。先程から女は私の名前を呼んでいるのだから。
どうしよう。どうすれば良い。
一つ確かなのは私は今何も反応を返してはいけないということ。私を探しているらしい女は、しかし私を見ながらも見つけることができていない。
今下手に動けば、私はこいつに見つかってしまう。見つかった結果何をされるのかは分からないが、決して愉快な事では無いだろう。
――イブキ!
また一度、女が私の名を呼んだ。そして私はあることに気付き、漏れそうになった悲鳴を必死に噛み殺した。
――イブキ!
ただ部屋の入り口を右往左往しているように見えた女は、少しずつ、ほんの少しずつだけドアから離れ始めていた。
それはつまり少しずつ女が私に近づいてきている事に他ならない。
――イブキ!
名前を呼ばれる度に、命を削られているような気がした。
そして女は削られた命の分だけ私へと近付いているのだと。
「……」
逃げ出すことも出来ない恐怖の中、しかし私は目をそらすこともできなかった。
目を閉じてしまったら、その瞬間女は一気に距離をつめてくる。そんな予感がしたのだ。
だから私は刑の執行を待つ罪人のように、ただじっと女がすり寄ってくるのを見ているしか無かった。
――イ……
どれ程の時間が経ったのか。
部屋の半ばまで進んだ女が、急に動きを止めた。
それまで私の名を呼ぶとき以外は世話しなく動いていた赤い目。その目がジッと私の方を見つめていた。
「……っ」
見つかったのか。そう思い声を漏らしそうになったが必死に耐えた。
血走った女の目が見ているのは自分では無い。そう言い聞かせた。
――はははははははは!
突然、女が抑揚のない声で嫌に規則的な笑い声をあげた。
それに驚いた刹那の間。瞬きをした僅かな隙に、女の姿は霞のように消え去っていた。
「……」
助かった。そんな感慨すらわかなかった。
一体何だったのかと考える余力すら残っていなかった。
ただ私は終わったことだけ理解すると、そのまま眠るように意識を手放した。