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お雛様

 ――パキッ。


「ゲッ!?」


 手の中から嫌な音がしてはしたない声をあげてしまったのは、蝉も鳴き始め暑さに弛み始めたある日の朝の事だった。

 私の手の中には首がポキッと折れてしまったお雛様の姿。祖母が危篤になり、座敷部屋の奥にあるものを整理している最中に見つけた想い出の品だ。


 数年前に鬼籍に入った祖父が孫の誕生に大いに喜び買ってくれた立派なお雛様。

 懐かしくてつい取り出してしまったそのお雛様が、粗忽者な私の手の中でご臨終している。


「お母さん。どうしようこれ?」

「やっちゃったものは仕方ないでしょう。とりあえずしまっときなさい」


 押し入れから出てきた普段は使わない布団をたたみながら言う母。

 仕方ないと言われても、それでは納得できないのが人情だ。どうにか復元できないだろうか。


「もう飾る機会も無いでしょう。アンタも来年成人なんだから」

「え? 子供がつかうかもしれないじゃん」


 壊れてしまったとはいえ、祖父の買った七段雛は私一代で役割を終えるにはあまりに惜しい逸品だ。

 将来娘でも生まれたらそのまま使えるだろうに。


「お雛様は身内でも人にあげたらダメなのよ。縁起が悪いから」

「何で縁起が悪いの?」

「……縁起が悪いのよ」


 知らないんだな。そう思い母を胡乱な目で見ていたが、ふと視線を感じて首を傾ける。


「……」


 手の中に居るお雛様。首を折られて上を向いたそのお雛様が、恨めしそうに私を見ている気がした。


「……ごめんなさい」


 悪事がバレた子供みたいに小さな声で謝ると、私はお雛様を元居た箱へと戻し丁重に蓋をした。



 大学生になったら遊びまくる。そんな夢を語っていた高校時代の同級生のうち実現に至ることができた人間はどれほど居るのだろうか。

 少なくとも大学で学んだ知識と技術が就職にダイレクトに響く理系の大学生には殆ど居ないに違いない。

 デザイン科という左脳よりも右脳を主に使う科に所属する私ですらそうなのだ。さらに専門的な事を学ぶ工業学部の学生はさらに忙しいに違いない。


「今日はカレーにするか、五十円プラスでカツカレーにするか」


 お昼休み。私は学食の食券販売機を前にして悩んでいた。

 たかが五十円。されど五十円。

 バイトをする暇もなく身銭を親に依存した私には切実な問題である。

 しかし一度食べたいと思えば口に広がるカツの幻想。ふりきれるか? 否!


「やっぱ今日はカツカレーに……」

「あら、佐倉さんじゃない」

「ゲッ!?」


 聞きたくない声が耳に入り、下品な声が口から漏れた。


「こんにちは佐倉さん」

「……こんにちは」


 振り返ったそこに居たのは、日焼け対策か暑いのにキッチリと長袖の上着をまとい、にも拘わらず暑さなど知らないと言わんばかりの凛とした顔をした亜麻色の髪の女性。

 彼女の名は五十嵐リンカ。工業大学という男だらけの大学では数少ない女性らしい女性である。

 友人らしい男たちを五人ほど引き連れて、にこやかにこちらへとやってくる。


 距離が近付くにつれ汗が額に浮かび、胃がねじ曲げられたみたいに痛み出す。

 まったく、どんだけ正直なんだ私の体は。


「これからお昼? なら一緒に……」

「ごめんなさい。私賑やかなのは苦手だから」


 ピシャリと言い放ち、私は食券のボタンを押すと出てきたそれを手にしてすぐにその場を離れる。


「あ、佐倉さん」

「ほんっとうにごめんなさい!」


 本気の感情を込めて謝れば、五十嵐さんも何も言えなくなったのか黙して私を見送ってくれた。

 ついでに後ろに居た男の内の数名は、愉快そうに笑って私を見ていた。


 あー、やだやだ。



「ったく、少しは下心隠せっての。大学に何しに来てんだか」


 学食の隅っこに座りざるそばをすする私の視界の端には、五十嵐さんを中心に談笑する一団の姿。

 その姿に嫌悪して、同時にそんな感情を抱く自分にも苛立ちが募る。


 五十嵐さんに特定の相手は居ない。かと言って不特定多数を相手にするような不誠実な人間でもない。

 五十嵐さんの取り巻きは僅かな例外を除き健全な友好関係を結んでいる友人でしかない。

 それなのに私が五十嵐さんを避けるのは、私が男嫌いの潔癖症だからに過ぎない。


 自分の都合で五十嵐さんの好意を拒絶している。己の不様さに吐き気がしてくる。

 しばらくそうやって食事もせずに俯いていたが、不意に体が軽くなり、重かった胃が解放されたみたいにスッキリする。


「こんにちは佐倉さん」

「え……?」


 声をかけられて視線を上げれば、そこには中性的な顔に微笑みを浮かべた美人さん。

 うどんを乗せたトレイを手にして私を見下ろしていた。


「一ノ宮さん!?」

「はい。向かい側に座っても構いませんか?」

「どうぞ!」


 驚きつつも返事をする私に、一ノ宮さんは苦笑すると席につく。

 その様子に恥ずかしくなったが、不思議と先程のように気分が沈むようなことはなく、むしろ穏やかな気持ちになってくる。


「今日はざるそばですか。珍しいですね」

「えーと、間違えて押しちゃって」


 そうなのだ。五十嵐さんから逃げることばかり考えて、うっかり押すボタンを間違えた。

 口の中がカツカレーになっていたのにざるそば。金銭的には優しいがどうにもやるせない。


「それは残念でしたね」


 そう言って割り箸を割ると「いただきます」と礼をしてうどんに手をつける一ノ宮さん。


 一ノ宮さんは五十嵐さんほどではないが大学では有名な人だ。

 丁寧な話し方をする人だが、大学に入ったのは22歳になってからと遅く殆どの学生よりは年上。

 だが一ノ宮さんが有名なのは年齢が理由では無い。


「……」


 長い黒髪を片手で押さえながらうどんをすする一ノ宮さん。

 一見上品な女性に見えるが、女性にしては背が高くて肩幅が広く胸が平らすぎる。

 かと言って男性にしては腰が細すぎるし、ズボン越しにも分かるお尻から足へのラインが美しすぎる。


 性別不詳。

 それが一ノ宮さんが有名な理由の一端だったりする。


「何かありましたか?」

「え?」

「顔に陰りが見えたので」

「別に何も……」


 ないと言いかけて、不意に恨めしそうなお雛様の目が脳裏に浮かんだ。

 確かにいつもより気分は優れなかったが、まさか原因は五十嵐さんではなくお雛様だったのだろうか。

 良い歳をして何を気にしているのだろうか私は。


「実は……」


 それでも一ノ宮さんなら馬鹿にしないだろうと思い話してしまっていた。

 そして予想通り、一ノ宮さんは茶化すことなく私の話を聞いてくれた。



「お母さんの言う通り、気にしなくて良いと思いますよ」

「……え?」


 話を終えた所でそう言われ、私は知らず間の抜けた声を漏らしていた。


「お雛様は元々そういう役割を担っていますから」

「……壊されるのが?」

「それも含めてですね。送り雛というのを聞いた事がありませんか? 雛人形というのは本来子供の厄を肩代わりするものなんです」

「あんなに綺麗なのに」


 あの豪華な人形が厄を背負うために存在するというのは何だか納得できなかった。

 でも母が言っていた人にあげてはいけないというのはそういうことなのかと理解する。


「ですから、お雛様の首を折ってしまったのが故意でないなら、それはきっと貴女に降りかかるはずだった災厄を身代わりに受けたからでしょう。負い目に感じるよりはお礼を言った方がお雛様も喜ぶのでは無いでしょうか」

「……そうですね。そうしてみます」


 ネガティブに考えるよりはポジティブに。

 そう結論すると不思議と気分も良くなってくる。


「それにしても一ノ宮さんって結構信心深い方なんですか?」

「ええ、実家が古い家なので。しきたりや縁起といったものは気になってしまいますね」


 そこまで言うと、一ノ宮さんは箸を置いて「ご馳走さまでした」と丁寧に礼をした。


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