エピローグ
「お怪我はありませんか」
アタシは心配というより疑いの目で聞いた。あれだけの打撃をうけて、ぴんぴんしているほうが、おかしい。
「いやあ、」グレイン氏は言いにくそうだった。「……見ちゃいました? あれ」
アタシは、こくりと頷いた。
「見ちゃいました。大きな手の……」
オバケ? 何と表現していいのかわからず、アタシは口ごもった。彼はため息をひとつ吐くと、アタシの目を見た。
「あれはボクの守護天使です。守護手ン使です」
彼はダジャレを言った。ぜんぜん面白くない。
「ぷっ」
ヤメてよマジで。面白くなさすぎて逆にアタシは吹き出してしまった。
「手、だけですか?」
「いまのところは。あれの全体像は見たくないなあ……デカすぎる天使なんて」
グレイン氏はそう言って笑った。アタシは話を戻した。
「それで怪我のほうは……まあ、その様子でしたら大丈夫そうですね」
「ええ、悪魔に張り倒されたときも、じつは『手』が庇ってくれていたんです」
「ずいぶんと派手なリアクションでしたね。こう、ズササーッ、ゴロゴロゴロ……って感じで」
ヤバい、思い出したら笑いそうになった。
「でしょう? 若いころ、役者になるか祓魔師になるかで悩んだんですよ」
すごいニ択だな。でも彼は嬉しそうだ。
「……特別な方なんですね、あなたは」
アタシが言うと、彼は少し寂しそうな顔をした。
「もうここに留まることは、できません。この状況を見てください」
と、彼は周囲を見まわした。テーブルのシスターたちは昏倒し、目の前ではシスター・パトリックが気を失って横臥している。
食堂の入り口のドアには南京錠、ドア脇のステンド・グラスは無残にとび散っている。この宿舎の玄関も封鎖したとジョーンズが言っていた。それでグレイン氏がアタシの部屋の窓を破って侵入したのだ。侵入……?
「これってどう見ても、ボクが斧を持って宿舎に侵入し、シスターたちに害をなした体ですよね?」
「本当だ……」
いろいろとつじつまの合わない部分もあるが、悪魔と戦ったことを証明しないかぎり、彼が疑われるのは必至だろう。
「ボクはこれからFBIに電話して、彼らに捜査してもらいます」
「FBI? どうして」
「郡警察にやらせたら、ボクは即お縄です」
「ああ……たしかに」アタシは頷いた。「でもFBIなんて、」
相手にしてくれないだろう、というアタシの言葉を彼が遮った。
「コネがあります。ボクのような仕事はだいたい毎回ややこしい状況になるから、その度に逮捕されていたら堪りません。祓魔師を守るシステムが、この国にはあるんです」
†
悪魔との壮絶な戦いから一週間がたち、アタシの周囲もようやく落ち着いてきた。
食堂で妙な(?)スープを飲まされ昏倒していたシスターたちも、みな無事に意識を取り戻した。悪魔に憑依され、いちばん大変だったシスター・パトリックも大事には至らなかった。とりあえず、ホッとした。
FBIが捜査した結果、今回の事象は原因不明の集団幻覚として処理された。シスター・パトリックをはじめ他のシスターの誰も、あの朝の出来事を憶えていなかった。だからアタシ自身も、そういうことにした。
集団幻覚といっても、べつに実害があったわけじゃない。ただ宿舎の玄関を内側から封鎖し、食堂にたて籠ったというだけだ。誰が指示したかも定かではない。本当は悪魔の仕業などと、誰も思うわけがない。
ともかくFBIは上手く片づけてくれた。
グレイン氏のことは、まったく取り沙汰されなかった。あきらかに、いくつか揉み消された事象がある。おもに彼が斧を持ってガラスを何枚か打ち破り、男子禁制のアタシらの宿舎に侵入したことだ。
さいわい早朝だったこともあり、学校および教会関係者に彼が目撃されることはなかった。アタシらの宿舎がある意味離れ小島になっているのが、よかったとも言える。だから逆に本当の賊に押し入られたら怖いと思う。まあ、そんなバチ当たりはいないと信じたい。
グレイン氏はアタシとオハラ神父に軽くあいさつだけして、学校を去って行った。例のタマゴ型の発信機もお返しした。
この地域での危険が完全に去ったという保証はどこにもないが、グレイン氏がいなくなる以上、発信機だけが残っても意味はない。彼はもうアタシらの危機に駆けつけてくれないのだ。そう思うと、ちょっと寂しかった。
これでもう何度目になるだろう、アタシはオハラ神父の執務室を訪ねていた。アタシは自分の知るすべてを神父に話した。
「とりあえず、グラス・ディック・ジョーンズは消滅したのですね。トミーも、ジョーンズの話ではお払い箱になったと。……これで我々に関する危機が去ってくれれば、いいんですがね」
神父が瞼を指で押さえながら言った。だいぶ、お疲れのようだ。
「グレイン氏が去ってしまった今、ほかの悪魔が襲って来たらと思うと、正直怖いです」
アタシは言った。神父が頷く。
「まあ、悪いほうに考えても仕方がありません。我々は今までどおり、神にお仕えするのみです」
「そうですね……」
「オハラ神父。……もし一人だけ、その命を奪うことができたら、あなたは誰の名を挙げますか?」
「えっ」
神父は目がとび出さんばかりの表情をした。アタシはくすり、と笑った。
「……冗談は、やめてください」神父は安堵したようだ。「トミーがあなたに憑依したのかと思いましたよ」
「ごめんなさい。最近こんな話ばかりですものね」
頭を下げたあと、アタシは神父の顔を見た。
「でも、もし仮にそう質問されたら、どうお答えになります?」
「ううむ」
神父の回答は意外と早かった。
「じつは、その質問について私なりに考えたことがあったのです」
「ええ、それで?」
アタシは促した。
「主を指名しては、いかがでしょう。あの方は人びとの罪を背負い亡くなられたあと、復活されました。たとえ指名により悪魔の牙にかかったとしても、何度でも復活されると思います」
「ああっ、それは思いつきませんでした」
アタシは感心した。が、ちょっと考えると神父の誤りに気づいた。
「でも、主の名をみだりに唱えてはならない、って十戒に」
「あっ」