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 そこは市営の墓地だった。無人の小さな教会が敷地の隅に建っており、誰かを埋葬する時にだけ開かれて雇われ牧師が弔いの言葉を唱える。昼は遺族が墓参りする姿をたまに見掛けるが、今は夕暮れ時ということもあって、墓地のどこにも人影は無かった。

 古い白茶けた木製の扉は、そっと力を入れただけで内側へ開いた。蝶番ちょうつがいのキシむ音が教会中に響き渡り、俺は思わず肩をすくめる。外はまだ視界が利くくらいの薄闇だが、中は既に濃い闇が支配している。その中に目的の人物を探して、俺は必死に目を凝らした。

 教会の中は当然と言うか無人だった。この墓地もハズレだったかと思い、諦めかけたその時、すぐ傍で微かな衣擦れの音がする。

「……ッ!」

 いきなり物凄い力で体を後ろに引かれる。そして次の瞬間、仰向けに倒れかけた俺の首筋に黒い影がキバを剥いた。

「ブリンゲル! 俺だ、ブリンゲル!」

 慌てて叫ぶと、今まさに俺の首に喰らいつこうとしていた人影がピタリと動きを止める。そして、驚いたように「おお!」と叫ぶと、慌てて助け起こした。

「その声はミスター蒼!」

 それは間違いなくブリンゲルだった。

「もう少しで朝食に戴いてしまうところでした。申し訳ありません」

「いや、こんなややこしい時間に来た俺も悪いんだ」

 申し訳なさそうに謝るブリンゲルに、俺も無礼を詫びる。そして、改めて荒れ果てた教会内を見回すと、驚くと言うよりも呆れて言った。

「しかし……いくら無人とはいえ、酷い荒れようだなこれは」

 以前は美しかったであろう信者用の長椅子はあちこち壊れ、埃が真っ白に降り積もっている。窓に嵌められたステンドグラスも欠けたまま放置されているので、床中に枯葉が散らばっていた。祭壇の横にあるマリア像にも埃が積もっているのを見て、俺は思わず溜息をつく。するとブリンゲルが、はい、と答えて、嬉しそうに言った。

「お陰で誰も寄り付きません」

 ブリンゲルは笑顔でそう言うと、俺を奥へと招き入れる。そして、中央の祭壇に歩み寄ると、蜀台の蝋燭にライターで火を点けた。

「我々のような者が教会にいると、どうして思われたのですか、ミスター蒼?」

「そうだな。『木を隠すなら森』ってところかな」

 ここなら寝ているところを見つかっても怪しまれない。雨風をしのぐために教会に入った浮浪者が、そのまま餓死することはよくある話だった。そう言うと、ブリンゲルが頷きながら笑う。

「我々が恐れるのは教会でも十字架でもありません。我々を『忌む物』として嫌う人間こそが一番恐ろしい」

「ソフィアはもういないよ」

 俺の言葉に、ゆっくりとブリンゲルが振り返る。その目にたちまち希望の光が灯った。

「今、なんと……」

「あの後、ウチにソフィアが来たんだ。彼女からすべて聞いたよ。で、悪いとは思ったけど、彼女の記憶からあんたを消させてもらった。大変だったな」

「おおッ……!」

 ブリンゲルは大喜びで歩み寄ると、両手を伸ばして俺の手を握る。

「依頼料はいらないよ。俺が勝手にやったんだから」

「そういうわけにはまいりません! なに、家に帰れば蓄えは腐るほどあります!」

 ブリンゲルはそう言うと、さっそく帰らなければ、と言いながらウキウキと帰り支度を始める。しかし、すぐに手を止めて俺を振り返ると、不思議そうに尋ねた。

「それを私に伝える為だけに探してくださったのですか?」

「んー……」

 俺はちょっと言い淀む。しかし、ここまで来たのに目的を果たさなくては意味がない。俺は意を決すると、挑むようにブリンゲルを見た。

「実は聞きたいことがあって来たんだ。あの夜、あんたはソフィアに『印を付ける』って言っただろ。それってどういうことなんだ? ただ単に『自分の妻にする』ってことだけなのか?」

「あぁ……」

 途端にブリンゲルがソフィアとのことを思い出してがっくりと肩を落とす。俺が慌てて謝ると、ブリンゲルは、いいんですよ、と言って笑った。

「もう終わったことです。人生は長い。わたしはきっと、また新しい恋をするでしょう」

 そしてそう言うと、気持ちを切り替えるように大きく息を吐き出す。そして再びこちらに視線を戻すと、晴れやかに笑った。

「『印を付ける』というのは、我々の一族に加えるということです。わたしの血を花嫁になる女性の身体に送り込むことにより、その首筋に真っ赤なバラの花のような『印』が付きます。その者はしばらく仮死状態になりますが、再び目覚めた時には永遠の命を手に入れているというわけです」

「それって、女限定?」

 俺はブリンゲルの表情を窺いながら尋ねる。ブリンゲルは始め、質問の意味を図りかねていたようだったが、すぐに得心した顔になると、ニヤと含みのある笑みを浮かべた。

「永遠の命が欲しくなりましたか?」

「永遠の命なんか欲しくない。俺はフィーを独りで置いていきたくないだけだ」

 俺はブリンゲルの言葉にぶっきらぼうに答える。

「フィーとは『お友達』のことですね。そのお友達には頼まなかったのですか?」

 ブリンゲルがそう言いながら、部屋の隅から何かを持って来る。それは、先日土産だと言って貰ったものと同じ赤ワインのボトルだった。ブリンゲルは手馴れた仕草でコルクを抜くと、二つのワイングラスに中身を注ぐ。

「断られた……俺を不幸にしたくないからと言って」

「不幸!」

 途端にブリンゲルは大声で言うと、すぐにゴホンと咳払いして不躾を詫びる。

「失礼。しかし、なぜ君のお友達は君の申し出を断ったのかな。わたしには分かりかねる。わたしだったら大切な人と共に生きることに何の躊躇いも感じないが」

 ブリンゲルはそう言うと、不意に人差し指を口の前に立てる。そして、そっとドアに歩み寄ると、外の気配を伺ってからしっかりと閂を掛けた。

「それで? わたしに聞きたいことはそれだけですか?」

 ブリンゲルに尋ねられて、俺は躊躇う。何故だかそれは口にしてはいけないことのように思えたからだ。しかし、望みはもうブリンゲルしかない。

「あと一つ……その……あんたに『印』を付けてもらっても俺は死ななくなるのかな。ああ、でも、あんたにとっては結婚の儀式でもあるわけだから、それはマズいのか。俺にはそこんとこがよくわからなくて……」

 語尾が小さくなって中途で途切れる。途端に襲ってきた冷気に、俺の本能がすくみ上がった。それを見て、ブリンゲルがフッと口の端を横に引いて笑う。

「乾杯をしましょう、ミスター蒼。上等のワインですよ。さあ、グラスをお取りなさい」

 俺は思わず一歩下がる。目の前でブリンゲルが一息にグラスを傾けるのを見詰めながら、『飲むと後悔しますよ』というフィリップの言葉を思い出した。

 カシャン!

 赤ワインを旨そうに飲み干したブリンゲルが、俺を見つめながらゆっくりとグラスを床に落とす。グラスは冷たい音を立てて床の上で砕け、破片が辺りに飛び散った。

「あなたの望みを叶えましょう、ミスター蒼。わたしには『それ』が出来る」

 もはや、目の前にいる男は自分の知っているブリンゲルではなかった。教会に入った途端にもの凄い力で引き倒されかけた時のことを思い出し、思わずゾッと震える。

「赤い花は『所有印』。あなたがわたしのモノであるという証です。あなたが自分から望んだのですよ、ミスター蒼。もう離しません」

「所有印ってなんだ、所有印って! 俺はそんなこと聞いてないぞ!」

 ブリンゲルの言葉に、俺は慌てて言い返す。しかし、ブリンゲルは俺の言葉など聞いていなかった。もう一つのグラスを持ち上げると、うっとりとその赤い液体を見つめる。

「美しいでしょう。これはヒトの血で造られたワインです。あなたが目覚めた時には、これを手ずから飲ませてあげましょう。あなたもきっと気に入りますよ」

 俺は慌ててドアに走る。しかし、はまっているだけに見えた閂は力を入れてもビクともしなかった。

「あなたは若く美しい。わたしの血を送り込む前に、たっぷり楽しませていただきましょうか」

 ブリンゲルは祭壇の上にグラスを置くと、ゆっくりと俺を振り返る。口の端に浮かんだイヤな笑みが、普段は若く見える容貌を老獪な醜いものに変貌させた。

「なぜでしょうね。他人の物というだけで、奪う喜びも格別に感じる」

 ザアッと音を立てて全身から血の気が引く。俺は身を翻すと、ドアを諦めて窓に走った。しかし、一瞬早くブリンゲルがマントを翻して目の前に立ちはだかる。

「恐れることはありませんよ、ミスター蒼。痛みは一瞬。すぐに甘美な世界へといざなって差し上げましょう」

「冗談はよせ! 別に俺は聞いただけで、頼んでなんかいないだろ!」

 俺の必死の抵抗も、鼻息ひとつであしらわれる。もはやブリンゲルには俺を解放する気など微塵も無さそうだった。

 『それがどういうことを意味するのか、分かって言っているのですか』

 フィリップの険しい表情を思い出す。

 フィリップ、ごめん! ごめんごめんごめん!

 俺は自分の愚かさを心中で詫びる。こんなことになるなんて思いもしなかったのだ。擦りガラスから差し込むおぼろな月明かりを背に、ブリンゲルの双眸が赤々と燃え上がる。その目を見た瞬間、俺の身体は呪縛されたように動けなくなった。青褪める俺を見て、ブリンゲルが笑みを深める。

「チェックメイト」

 その瞬間、すぐ脇にある窓ガラスが大音響と共に砕け散った。


「蒼ッ!」

 窓ガラスを蹴破って飛び込んで来た人物が、そのままブリンゲルの体をも薙ぎ倒す。いきなり手を掴まれて、俺は呪縛から解放された。しかし、そいつがドアへと走り出すのに気付いて俺は慌てる。

「ダメだ! そのドアにはッ……」

 最後まで言い終わらないうちに、古ぼけた扉がそいつの一蹴りで呆気なく吹き飛ぶ。俺は引っ立てられるようにして走りながら、ちょっと怯えて先を走るフィリップを見た。フィリップはそうとう怒っているのか、俺の手を掴んだまま無言でひた走る。振り返ると、教会の入り口に黒い人影が見えた。赤く燃える双眸がこちらを憎々しげに睨んでいたが、どうやら追って来る気は無いらしい。間もなくそれも木立の向こうに消えた。

「フィリップ……」

 表通りに見慣れた車が停まっているのを見た途端、安堵からか不意に足の力が抜ける。カクンと転びそうになった俺の身体を、フィリップが掬い上げるようにして軽々と抱き上げた。

「ごめん、フィリップ……」

 夢中で首にしがみつくと、フィリップがそっと溜息をつく。

「無事で何よりでした。さあ急ぎましょう」


 家に戻ると、フィリップは明るい照明の下に俺を立たせて顎をぐいと持ち上げた。素早く両方の首筋を確認し、痣が無いことを見とめてやっと安堵したように息をつく。

「奴は来るかな……」

 俺はもう一度ドアの鍵を確認する。同じように窓を確認したフィリップが、再び傍に戻って来た。

「ごめん、フィリップ。俺……」

「いいえ、わたしが悪かったんです。あなたがブリンゲルの名前を出した時に、きちんと説明すべきでした。かえって危険な目に遭わせてしまって……」

 そして、そう言うと両手で俺を抱き寄せる。

「でも、あなたをこんな呪われた生き物にしたくないのも事実です。わかってください」

「わかんねーよ……」

 俺はフィリップの肩口に顔を埋めて小さく呟く。フィリップが俺の背中を優しく撫でた。

「ここは危険です。残念ですが、すぐに引き払いましょう」

「行くったってどこへ……」

 俺は慌てて尋ねる。しかし、フィリップの表情はいたって平静だった。

「そうですね。しばらくは南の島ででも暮らしましょうか。大丈夫、あなた一人を食わせていくくらいの蓄えはあります」

 フィリップが俺を抱き締めたまま優しく囁く。俺はちょっと考えてから頷いた。

「お前の淹れてくれるコーヒー付きならいい」

「そうですね。トーストにカリカリのベーコン、オープンエッグも付けましょうか」

 俺の言葉に、フィリップがそう言って明るく微笑む。その言葉に俺も必死で笑い返した。

 怖い、と純粋に思った。闇の中で赤く燃えた目は絶対に人間のものではなかった。しかし、俺はあれと同じものを確かにどこかで見たことがある。なぜだろう、俺はそれを思い出すことがブリンゲル以上に怖いのだ。俺は間近にある綺麗な顔を見つめる。俺を映す優しい瞳は、青くどこまでも澄んでいた。


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