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目覚めはやはり、微かな痛みだった。
「おはようございます、ハニー。いい朝ですよ」
フィリップが俺の顔を覗き込んでにっこりと微笑む。バスタブに湯を張る音。ベーコンを焼く香ばしい匂い。コーヒーメーカーのコポコポいう音。それはいつもの『日常』だった。この十年間変わらず続いてきた風景。そして、これからも変わらず続いていくのだと思っていた風景。
「……昨日、ソフィアが来た」
「え?」
フィリップが一瞬目を見開いて俺を見る。しかし、すぐにフイと視線を逸らすと、俺が床の上に脱ぎ散らかした服を拾い始めた。
「用は何だったんですか?」
「ブリンゲルが逃げたらしい」
俺はフィリップの姿を目で追いながら答える。その言葉にフィリップが微笑んだ。
「彼にとってはそれが最善の策だと思いますよ」
「俺もそう思う」
他人の子供を宿した女を好き好んで嫁に貰うバカはそうはいまい。
「仕方ないから彼女の記憶を『触った』。彼女にもブリンゲルにとってもいいことだと思ったから。今頃は前の男の所に戻ってるだろ。これでブリンゲルも家に帰れる」
「そうですか。それが一番いいかもしれませんね」
俺の言葉にフィリップは頷くと、ふとこちらを見て表情を曇らせた。
「蒼? 顔色がすぐれませんね」
俺はベッドの上に起き上がると、形の良い眉を心配そうにひそめているフィリップを見る。この顔を俺は何年も見てきた。出会った頃とまったく変わらないこの美しい生き物を……。
「……ソフィアは、たとえブリンゲルが吸血鬼でも奴の『伴侶』になりたいって言ってた。奴の伴侶になれば歳もとらないし体も老いないと聞かされたらしい。『印を付ける』っていうのはそういうことなのか? 印を付けられた者は吸血鬼になるのか?」
別に永遠の命など欲しくはない。しかし、フィリップは俺が死んでしまった後も一人で生きていかなければならないのだ。ブリンゲルが『永遠の孤独』を恐れて彼女を自分の伴侶にしようとしたように、フィリップもやはり『永遠の孤独』の寂しさに震える時があるのではないか。俺が一緒にいてやれる時間など何年でもないのだから。
「伴侶って何だ? フィリップは? フィリップもいつかは伴侶を作るのか?」
「えっ……」
問い詰めるように言うと、一瞬フィリップの表情が強張る。少しして、フィリップは俺の靴下を拾い上げながら困ったように微笑んだ。
「私が結婚するかどうかということでしたら、まだ予定はありませんね」
そしてそう言うと、これ見よがしに拾い集めた服を俺に見せながら、貴方のお守りだけで十分多忙です、と付け加える。
「じゃあ俺が死んだら? 俺が死んだら見つけるのか?」
俺は畳み掛けるようにして尋ねる。いつかは置いて行かなければならない自分にとって、それは重大なことだった。
「そうですねぇ」
俺の言葉に、フィリップが思案顔で首を傾げる。しかし、すぐに肩をすくめて笑った。
「そんな先のことを聞かれてもわかりませんよ。それとも、そんなに早く死ぬ予定でも出来たんですか?」
「茶化すなよ! 俺は真剣に聞いてんだ!」
本気で怒って言うと、フィリップが「困りましたねぇ」と言って笑う。
「伴侶って女? 女じゃないとダメなの? 俺とかじゃだめ?」
更に食い下がって訊ねると、とうとうフィリップが笑いながら『降参』と言うように両手を上げる。
「今日はどうしたんですか、蒼? 確かに男性が結婚するとしたら相手は女性でしょうが、私はまだ結婚するつもりなどありませんし、したがってあなたをここから追い出す予定もありませんので何も心配することは……」
「そういうことじゃない! 俺は『永遠の孤独』の話をしてるんだ!」
その途端、フィリップの表情がそれこそ真っ青になって凍りつく。フィリップは俺の顔を凝視すると、その奥にある何かを探そうとするかのように必死に目を凝らした。
「何を言って……」
「おれ、嘘をついてた」
俺はついに白状する。十年間つき続けてきた嘘をフィリップは許してくれるだろうか。
「俺の『力』、自分には効かないんだ……忘れてない……何もかも全部」
「そんな……」
フィリップが俺の言葉に激しく狼狽える。抱え集めた衣服が腕の中から滑り落ちた。
「俺、知ってるんだ。十年前、なぜフィリップが俺の前から消えようとしたのかも……同居を始めてから毎朝目覚める時に感じる『痛み』が何なのかも全部知ってる。全部知ってて、それでもいいと思ってた。いいっていうよりも嬉しかった。俺にとってはフィリップが傍にいてくれて、そして俺を必要としてくれることが何よりも嬉しかったから……」
「蒼……」
フィリップが肩を落として項垂れる。罪を暴かれた罪人のように。しかし、俺は全てを伝えなければならなかった。俺の気持ちの全てを。
「でも、ソフィアの言葉を聞くうちに怖くなった。俺もそのうち年をとる。年をとって干乾びて、そして死ぬ時にもフィリップは今と変わらないんだろう。今と変わらず綺麗で優しくて、そしてまた『永遠の孤独』を生きるんだ」
フィリップが両手で顔を覆う。俺はベッドから降りると、いつの間にか同じ高さになっていたフィリップの肩を抱きしめた。
「俺じゃあダメかな……俺じゃあお前の伴侶にはなれないかな」
「蒼……!」
フィリップが俺の肩に顔を埋める。抱きしめた細い肩が小刻みに震えた。
「俺に『印』を付けてくれ、フィリップ。二人なら永遠でも孤独じゃないだろ?」
なんだかプロポーズのようになってしまったが、俺はいたって真剣だった。それが一番伝えたかった言葉だったから。まだ何もわからなかった子供の頃から漠然と諦めてきたことが、やっと十年後の今日『希望』になったのだ。大丈夫、俺はこいつを置いて行かなくてもいいのだと……。
しかし、フィリップの答えは『否』だった。
「ありがとうございます、蒼。でも、それはできません」
俺は驚いて体を引く。
「なんで!」
折れそうに細い腕を掴んで問い質すと、フィリップは首をゆっくり横に振って悲しげに微笑んだ。
「あなたが好きだから……あなたが大切だから不幸にはしたくないんです」
「なんで不幸なんだよ! 俺はお前がいれば……!」
「でも、きっと後悔します。そして、わたしを憎むでしょう。わたしが母を憎んだように……」
フィリップはそう言うと、バスルームへ湯を止めに行く。少しして戻って来た奴は、既にいつものフィリップだった。
「食事の支度が出来てますよ。早くお風呂を済ませてキッチンへいらっしゃい」
その何事も無かったかのような顔に、俺は悔しさを噛み締める。あくまで奴が自分を子供扱いするつもりなら、俺にも考えがあった。
「じゃあブリンゲルを探して『印』を付けてもらう。永遠の命が手に入るなら、俺は誰に付けてもらったっていいんだから」
途端に、部屋を出て行こうとしていたフィリップが振り返る。その形相に俺は一瞬たじろいだ。
「……それがどういうことを意味するのか、分かって言っているのですか」
フィリップはそう言うと、俺を置き去りにして部屋を出て行く。一瞬部屋の空気さえ凍えたかと思い、俺は思わず自分の両肩を抱き締めた。