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「なんか凄く疲れたんだけど……しかも、やっぱり仕事になんなかったし」

 俺はぐったりとソファに崩折れる。フィリップは俺の傍らに腰掛けると、目の前のテーブルに温かな湯気の立つコーヒーカップを置いた。

「お疲れ様でした。なんとか丸く収まったようで良かったですね」

 フィリップはそう言うと、ソファの上でひっくり返った俺の伸びっぱなしの前髪を分ける。

「全然そんな感じしないんだけど……だって、何ひとつ解決してないんだぜ、あの二人」

 俺はそう言うと、フィリップの細い繊細な指先を感じながら目を閉じる。指先は暫く俺の前髪を優しく撫でていたが、やがて右耳の縁を辿り、首筋を軽くなぞる。羽毛で撫でられるようなその感触に、俺は眠気を誘われた。

「あいつ、今夜彼女に『印』を付けるって言ってた……なんだろな」

 帰る間際にブリンゲルが言った言葉を思い出して呟くと、途端にピクッと指先が止まる。俺はどうしたのかと目を開けると、フィリップの顔を見上げた。

「どうした?」

 フィリップは一瞬俺を見つめると、すぐに目元を和らげる。

「あなたが悩む必要はありませんよ。仕事ではないんですからね」

「そうだな」

 その言葉に俺は頷き、再び目を閉じる。部屋はとても暖かで、コーヒーの香りがふんわりと満ちていて、この至福のひとときにこのまま沈んでしまいたくなる。

「蒼……?」

 フィリップがそっと俺の名を呼ぶ。眠りに落ちていく心地良さに返事をするのも億劫でいると、不意にヒョイと抱き上げられた。身長も体重も自分とさして変わらなくなった俺を、フィリップは十年前と同じように軽々と抱き上げ、ゆっくりと階段を上って行く。ベッドに下ろされ、離れて行く気配になぜだか慌てて手を伸ばすと、ほっそりとした手で優しく握り返された。

「大丈夫……ここにいますよ」

 その言葉に俺は安心して身体から力を抜く。そう、もう何も心配しなくていいのだ。飢えも、寒さも、腹を空かせた野良犬も来ない。残った家財や金目の物を狙う泥棒も、親を無くした子供を売って金にしようと企む人さらいも来ないのだ。

 ベッドがキシみ、フィリップが腰掛けたのを感じる。衣擦れの音がして、額に柔らかく口付けられた。いつ言うのだろう、と俺はぼんやり霞んでいく意識の中で思う。それとも一生言わないのだろうか。頬に柔らかな吐息を感じる。しかし、訪れると思った痛みは感じなかった。



 七歳の頃に俺は両親を失った。事故だったのだと思う。警察らしき人間と、市のナントカという職員が来て、両親には親戚がいないらしいことや、したがって俺を引き取る人間が誰もいないことなどを目の前で話していたが、少しして二人とも帰ってしまった。

 それまで親の庇護の元で何不自由なく暮らしていたのだ。どうしたらいいのかもわからず、少しの間は台所にあった食料などで食い繋いでいたが、それも底をつくと、水だけで飢えをしのいだ。夜、物音に目覚めて両親が帰って来たのではないかと思い、大喜びでドアを開けた途端、大きな黒犬が唸り声と共に飛び掛かって来たこともあった。人声に気付いて外を見ると、見知らぬ男達が窓の外から屋敷の内部を物色していて悲鳴をかみ殺したこともあった。物音がする度に怯え、震え、縮こまり、俺はベッドの中で一日のほとんどを過ごした。

 ある日、飢え死に寸前で意識も朦朧としていた俺の前に、一人の天使が現れた。天使は横たわる俺を無言でじっと見下ろしていた。窓から差し込む月光に、黄金色の髪がキラキラと輝いている。俺を見下ろす表情は暗くてよく見えなかったが、なぜか恐怖は感じなかった。ああ、神様が迎えに来てくれたのだ、と思った。これでまた両親に会えるのだと……。天使はその日から痩せ衰えた子供に食料を運んで来るようになり、俺は毎晩天使が訪れるのを心待ちにするようになった。『天使』とは、もちろんフィリップのことである。

 フィリップの素性は俺も知らない。いつ、どこで生まれたのかも、どこで育ち、どんな風に今の町に流れて来たのかも知らない。知っているのは、今までに出会った誰よりも綺麗な容姿をしているということと、そして、俺が死ぬまでずっと、たぶん一生俺の傍にいてくれるということ。そして、俺にとってはそれだけで十分だった。奴が吸血鬼であることや、生きていく為には『何か』で栄養摂取をしなければならないということはたいした問題ではない。しかし、俺が知らないと思っているフィリップは、絶対にそのことを言わない。まあ、それが普通かもしれないが、もはや運命共同体とも言うべき俺に何も言わないのはまったくもって水臭いと思う。

 今回のブリンゲルの件も、俺はできれば自分の正体をソフィアには話して欲しかった。少なくとも彼女の一生に関わるのだ。彼女が一番欲しいものを自分は絶対に与えてあげることが出来ない辛さ、とフィリップは言ったが、確かにソフィアは子供を欲しがってはいたが、それはブリンゲルと血が繋がっていなければいけないというわけではないらしい。彼女の言葉を借りるならば、彼の子だと言って産めばいいわけで、彼女にとって子供とは単なる『婚姻の証』に過ぎないのだ。

 あとの問題は何か。相手が吸血鬼であるということは俺にとっては大した障害にはならないが、彼女にとってはブリンゲルが何で栄養を摂取するかは大きな問題だろう。十年前のあの日、七歳だった俺は『もうここには来られない』と悲しそうに告げたフィリップに抱きつき、泣きながら懇願した。『どこにも行かないで』と。『ずっと傍にいて』と。それが俺の望みの全てであり、そしてフィリップには叶えてあげられる願いでもあった。

「わたしが怖くはないのですか?」

 美しい顔をゆがめて尋ねるフィリップに、俺は首を横に振った。

「あなたの首筋に噛み付いたのに?」

 俺は激しく首を横に振る。涙が頬を伝った。

「僕は『忘れる』よ。フィリップが忘れて欲しいなら、僕は自分で『忘れる』。だからお願い、僕を置いていかないで……」

 そして、フィリップは俺を自分の家に連れ帰った。あれから十年。フィリップは毎日俺のためにコーヒーを淹れ、ベーコンを焼く……。



 悲しい夢が途切れて目を覚ます。昨夜フィリップがベッドに運んでくれたのを思い出し、俺は辺りを見回した。カーテンの隙間から明るい陽光が差し込んでいる。隣のキッチンに入ると、サンドイッチが作ってあった。冷蔵庫にはサラダが、コーヒーメーカーは既にスイッチを押すだけでいいようにセットされている。

 奴だけがいない……。

 昼間はひどく味気ない。フィリップがいないというだけで、なぜにこうも手持ち無沙汰なのか不思議でならない。夜は起きていて昼に寝ようと思うのだが、健康な身体は昼に活動できるよう常に調節をしかけてくる。そして、また独りの朝だ。そこへ、階下から呼び鈴が来客を告げた。

「突然でごめんなさい!」

 入って来たのはソフィアだった。彼女はコートも脱がずにつかつかと部屋の中に入って来ると、勧めないうちから昨夜と同じソファに座り、開口一番こう言った。

「聞いてちょうだい! 彼、吸血鬼だったのよ!」

「……はぁ」

 では、ブリンゲルは彼女に言ったのか。それが一番いい選択だな、と考えながら、俺は淹れたばかりのコーヒーを彼女に勧める。すると、彼女が突然目尻を吊り上げて詰め寄って来た。

「吸血鬼よ! わかっているのッ? その『はぁ』っていう気の抜けた返事は何ッ?」

 なぜ俺が怒られなければならないのか。しかし、確かに『恋人が吸血鬼だった』という事実は大変な事に違いない。ちょっと同情を覚えてフォローの言葉を考えていると、彼女が突然スカーフを外して俺に首筋を見せた。

「見て! 昨夜、彼が噛んだ痕よ!」

 彼女の首筋には一対の犬歯の痕が付いていて、まだわずかに血が滲んでいる。では、『印を付ける』とはこのことだったのか。ブリンゲルは彼女を捕食することに決めたらしい。しかし、どうやら俺の考えは外れだったようだ。彼女は突然ワッと泣き崩れると、チーフを取り出して涙を拭いた。

「家に帰ると、彼はすぐに自分が吸血鬼だということを告白したわ。私、もの凄く驚いて……でも、貴方が貴方であることに変わりはないから、と言ったの。変わらず愛しているわ、と。彼はとても喜んでくれて、私を自分の伴侶にすると約束してくれたわ。そして、誓いのキスを……」

 彼女はそう言うと、自分の首筋に手を当てる。

「でも、なぜかしら。途端に彼が苦しみ出して、口から血を……」

 では、吸血鬼が処女を好きだという話は本当だったのだ。しかし、現代の成人女性の中から処女を探すのは途方も無く難しいのではないかと思われる。少なくとも売春婦は無理だろう。

「私、何がなんだかわからなくて……すると彼が聞いたの。まさか妊娠しているのか、って。彼、どうしてわかったのかしら?」

「……さあ」

 俺はちょっとブリンゲルが気の毒になる。そうか、処女じゃなくても大丈夫だが、妊娠してるとダメなのか。

「だから私、言ったのよ。貴方の子よ、って」

 女性の面の皮はどこまで厚くなれるのか。心臓の毛は? 棚の最大積載量は?

「なのに、彼は突然家を飛び出して行ってしまって、それきり朝になっても帰らなかったの。ねえ、彼が行きそうな所を知らないかしら?」

「…………」

 俺はとことんブリンゲルが気の毒になる。絶望の淵に立たされた彼は、もう二度と戻って来ないに違いない。いや、彼女が家にいる限り、自分の家にすら戻れないのだ。今頃はどこかの墓地の片隅で眠っているのだろうかと考えて、俺はやるせなくなった。

「ソフィア……前にも言ったと思うが、彼は子供を作ることが出来ないんだ」

「え?」

「精子が作れないんだよ。彼らは『生きていない』。君の言葉は、そのまま君の不貞を暴露したことになるんだ」

「そんなッ……!」

 彼女が初めて事の重大さに気付き、青褪める。

「それじゃあ彼の家は? 車は? 財産は? 彼と結婚すれば全てが私の物だったのよ?」

 俺はため息をつくと、彼女の隣に腰掛ける。

「自分と結婚すれば永遠の若さが手に入ると彼は言ったわ! もう顔のしわを気にすることも、体型が崩れるのを気にすることもなくなるって!」

「でも、子供は産めないよ。美味しい物を食べることも、お酒を飲んで酔っ払うこともできなくなる。太陽の下を歩くことも、もちろん真夏のビーチで日光浴もできない」

 俺は、自分としては最大限の優しさで言った。

「でもッ……もう貧乏はイヤよ」

 顔を覆って泣き崩れるソフィアの語尾が震えて小さくなる。俺は再び溜息をつくと言った。

「目を閉じてソフィア……君を助けたいんだ」

 俺は右手を彼女の額に当てる。そして、意識を彼女の内側に向けると、そのまま『ブリンゲル』を彼女の記憶から引き抜いた。


 憑き物が落ちたように呆けたソフィアは、とりあえずコーヒーを飲むと、しきりにその味を誉めてから帰って行った。もちろん、彼女の本来の家にだ。これでブリンゲルも家に帰れるだろう。彼がそれに気付けばだが……。

 臨時で『力』を使って疲労を感じた俺は、とりあえずキッチンに入る。空腹を覚えてフィリップが作っておいてくれたサンドイッチとサラダを全部平らげると、何となく人心地ついた。

 そうだ、フィリップが起こしに来るまで寝ていよう。それから奴の焼いたベーコンを食べよう。それから……。しかし、俺の耳からはソフィアの言葉がいつまでも離れなかった。


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