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目覚めはかすかな痛みだった。
「おはようございます、ハニー。素晴らしい朝ですよ」
カチリと小さな音がして、どう見ても『朝日』ではない明るい光に襲われる。俺は首筋に手を当てると、眩い光に顔をしかめた。確か昨夜は遅くまで仕事をしていたので、寝たのは朝だったような気が……。時計を見ると既に5時。もちろん夕方のだ。しかし、熟睡感はあったが、まだ身体は疲れを訴えていた。
「悪いけどもう少し寝る……依頼が来るまで起こさないでくれ」
「そうしてあげたいのは『やまやま』なんですけどね、蒼」
フィリップはそう言うと、ひとの布団を容赦なく捲る。慌てて手で押さえたが、それはあっけなくベッドから隔離された。
「その『依頼』なんですよ」
『依頼』、その一言で俺はパチッと目を開ける。仕事となれば話は別だ。すると、晧々と輝く照明をバックに、いやになるほど整った顔の男が俺を見下ろしてにっこり微笑んだ。
「火災報知器が鳴っても起きない貴方が、さすがですね。魔法の呪文みたいです」
金髪碧眼のフィリップは肌も透き通るように白い。それが今日はいっそう青白く見えて、ちょっと眉をひそめる。
「具合でも悪いのか、フィー。顔が青いぞ?」
「え……?」
俺の言葉にフィリップは一瞬表情を翳らせたが、しかしすぐに微笑んだ。
「光の加減でしょう。それより、本日の商談は貴方ひとりだけでお願いいたします。わたしはちょっと所用で出掛けて来ますので」
「いいけど……」
珍しいな、という言葉を俺は呑み込む。一人ではちゃんと聞いていないことが多いからと、いつも心配して同席しているくせに。それとも、やっと俺だけに仕事を任せても大丈夫だと思うようになったのだろうか。いや、あり得ないな。十七歳になった今でも、奴の頭の中では俺は七歳の子供なのだ。
寝室の隣にあるバスルームから湯船に湯を張る音が聞こえている。反対側の開け放たれたドアの向こうからは香ばしいベーコンの香りがした。毎日フィリップは俺のために湯を張り、食事の支度を整える。十年前に同居を始めてからずっと、それは奴の日課となっていた。
フィリップがバスルームに消え、湯舟に落ちる水音が止まる。フィリップはすぐに戻って来ると、洗濯してきれいに畳まれたバスタオルを手渡した。
「商談は録音しておきますからご心配なく。後でちゃんとまとめておきますからね」
「……うん」
やはり、俺一人でも大丈夫だと思ったわけではなかったらしい。ちょっとヘコんだが、ちょっと嬉しい。十代の青少年は複雑だ。
「ところで、どこに行くんだ?」
何気なく尋ねると、フィリップが一瞬こちらを見つめてからフッと笑う。
「心細いですか? 大丈夫、今日中には帰りますからね」
完全に子供扱いされている。俺はキッチンに向かう奴の背に、思いきり舌を出した。
依頼人が来るのは六時の予定だった。まだ夕刻の時間帯だが、十一月だと外は既に真っ暗だ。俺は玄関の外灯を点けて依頼人が来るのを待つ。ほどなくして、来客を告げるベルが鳴った。
「夜分にすみません」
黒いマントに身を包み、現れたのは三十代半ばくらいの男だった。まあまあハンサムな顔立ちは北欧系にも見えたが、髪は黒に近い。なんとなくフィリップと同じ匂いを感じて俺は慌てた。
「失礼ですが……」
「ああっ」
男はすぐに察したようで、マントと同色の黒いシルクハットを脱ぎ、胸に当てて丁寧に頭を下げる。
「私はブリンゲルと申します。中に入ってもよろしいでしょうか?」
それがフィリップから聞いていた依頼人の名前と同じだったので、仕方なく部屋に招き入れる。ブリンゲルが脇を通り抜ける瞬間、全身の毛穴がゾワッと粟立ち、俺はそこで確信した。やはり、この男は……。
「まったく、本能とは凄いものですね」
部屋の中央に通され、勧められるまま応接セットのソファに腰掛けると、ブリンゲルがそう言って笑う。俺はいつもフィリップがやっているように予め落としておいてくれたコーヒーをカップにそそぐと、それを客人の前に置いた。
「すると、やはりあなたは……」
「はい。あなた方が言うところの『吸血鬼』です」
『吸血鬼』という存在を絵本や文献以外で存在すると思っている人間は多分そうはいないだろう。昔、吸血鬼信仰の教徒が若い女の首筋に二本の管を突き刺し、逆さに吊るして全身の血抜きをしたという騒ぎがあったが、同様の事件は今でもたまに起きている。しかし、それらはすべて『人間』の仕業であり、犯人は全て検挙されていた。
「ご心配なく。あなたを襲ったりはしませんから」
男はにっこり微笑むと、部屋をぐるりと見回す。
「それに、ここは既に『お手付き』のようだ。気配を感じる」
それがフィリップのことだとわかり、俺はちょっと慌てる。と同時に、フィリップが同席したがらなかった理由もわかった。文献によると、吸血鬼は互いに距離を置いて出会わないようにしているらしい。つまり、互いの縄張りに侵入しないことで狩場が重なることを避けているのだ。狩られる側にとっては有り難いのか有り難くないのかよく分からない話である。俺は男の正面に腰掛けると、とにかくさっさと商談を結んでしまおうと、申し込み用紙をテーブルの上に置いた。
「各項目全てにご記入ください。依頼主の氏名はフルネームでお願いします。住所は最後の枝番まで、電話番号は市外局番からお願いします。お勤め先は名称までで、勤め先の電話番号は差し支えなければで結構です」
「領主をしておりますので勤め先は……」
「では、『自営』とだけご記入願います」
領主をつかまえて『自営』も何かと思ったが、他に書きようがないので仕方がない。しかし、男は特に気にしたふうもなく、律儀に『自営』と書いている。
「『生年月日』とありますが……」
「はい」
「なにぶん、昔のことですので……」
「ああ……」
俺はすぐに得心し、そこはいいです、と言って頷いた。吸血鬼が長寿なのは知っている。目の前にいる一見三十代の男も、きっと三桁くらいの年齢に違いない。そんな奴に『誕生日』がどんな意味を持つというのか。人間だった自分が生まれた日は、吸血鬼として生まれ変わった時点でその意味を失うのだろう。母親も、兄弟も、親戚縁者すべてが遠くに過ぎていく。『永遠の孤独』と言った時のフィリップの目を思い出し、忘れていた痛みが胸中に蘇った。
俺は一瞬抱いた憐憫の情を脇へどかすと、気を取り直して先を促す。それこそが、俺の仕事の必須項目なのだ。
「それで? それであなたは何が『忘れたい』んですか?」
『イレイザー』と人は俺の職業を呼ぶ。文字通り『人の記憶を消す』商売だ。
人間は忘却することによって生きていける。しかし、それが心に傷を付けるような出来事だった場合、それはしっかりと記憶に根付き、消去することが出来なくなる。そして、それを思い出す度に人は傷つき、最悪の場合、自分の命を絶とうとまで考えてしまうこともあるのだ。その『忘れたくても忘れられない記憶』を消去し、心の負担を無くしてあげることが俺の仕事だった。
この特殊能力は、物心ついた頃には既にあった。当初はイタズラが親にバレそうになった時などにちょこちょこっと使っていたのだが、ある日、たまたま遊びに来た祖父に力を使ってこっぴどく叱られた。
『みんなが自分を信じなくなってもいいのか?』
『友達が一人もいなくなってしまってもいいのか?』
祖父に言われ、子供心にも恐怖を覚えた。なぜ分かったのかと問うと、『隔世遺伝』という言葉を教えられた。
「同じ能力を持っている者には通じんのじゃよ」
力が通じない者がいるということよりも、同じ力を持っている人間がいるということの方が嬉しかった俺は、『絶対に使わない』と祖父に誓った。しかし、時代が変われば考え方も変わる。俺がこの能力で仕事をしているなんて知ったら、天国の祖父は嘆くだろうか……。
「それで、あなたは何を忘れたいんですか?」
俺の問いかけに、ブリンゲルが一瞬躊躇う。しかし、意を決したように頷くと言った。
「ソフィアを……わたしに関する記憶を彼女の記憶から消して頂きたいのです」
「はあッ?」
俺は思わず目を見開き、男の顔を凝視する。しかし、すぐに表情を改めると、悪いけど、と言って謝った。
「俺は依頼主の記憶しか触らないんだ。彼女が依頼に来るように伝えてくれないかな」
「えッ……」
すると、今度はブリンゲルが目を見開き、俺の顔を凝視する。そして、すぐに力なく肩を落とすと項垂れた。
「それは無理です。彼女はそんな依頼はしないでしょう」
そしてそう言うと、頭を抱えて大きな溜息をつく。俺も同じように溜息をつくと、どうしたものかと思案しながらコーヒーに手を伸ばした。温かったコーヒーは少し冷めてしまっていたが、それでも人心地つく。同じ豆を使っているのに、なぜかフィリップの淹れるコーヒーは旨い。男にも勧めると、ブリンゲルはカップにちょっと口を付けてから微かに笑んだ。
「旨いコーヒーの淹れ方を知っていますか?」
「えっ?」
突然問われて、俺は目を丸くする。思わず答えに窮していると、ブリンゲルはゆっくりとカップをテーブルの上に戻して言った。
「大切な人に美味しく飲んでもらいたいと思う『気持ち』ですよ。これは、あなたの為のコーヒーだ。こんなのを飲まされたら、わたしはさっさと尻尾を巻いて退散するしかない。こんなに牽制されては逆に興味を抱いてしまいますよ、とお友達が帰られたらお伝えください。いや、冗談ですがね。はっはっは」
今の台詞のどこがどんな風に冗談なのかは全くわからないが、俺は合わせて微笑む。ブリンゲルがそんな俺を羨望の眼差しで見た。
「ソフィアとわたしは愛し合っています。しかし、彼女は人間、わたしは……。彼女はわたしの正体を知りません。わたしが人間ではないと知ったら、彼女はわたしから去って行くでしょう。それ以前に、彼女がわたしを見て恐れ慄く姿を想像することさえ耐えられないのです」
嫌われるのが怖いから彼女の前から去りたい、とこの男は言っているらしい。ちょっと理解に苦しむが、人の考え方は千差万別だ。
「でも、もしかしたら『そんな貴方でもいい』と言うかもしれないじゃありませんか。その、ソフィアさんは?」
「それはあり得ません。彼女が望んでいるのは私との結婚であり、子供であり、『人間』としての幸せなのですから」
ブリンゲルはそう言うと、再び頭を抱えて俯く。俺は再び溜息をつくと、ソファの背もたれに身体を預けた。とにかく、仕事は破談になったらしい。だったらとっとと帰って欲しいのだが、ブリンゲルはなかなか帰りそうにない。
「彼女があなたを忘れて違う人に嫁ぐまで、海外かどこかに雲隠れなさったら……」
ちょっと面倒になって言うと、ブリンゲルがぶんぶんと首を横に振る。
「そんなことで彼女がわたしを諦めるものですか。彼女はきっとわたしを探し当て、どこまでもついて来るでしょう」
「じゃあ、違う人と偽装結婚するとか」
すると、ブリンゲルは見る見る真っ青になって、再び激しく首を横に振った。
「そんなことをしたら、その女性は殺されてしまうかもしれません!」
「……」
俺は一瞬言葉を失う。少しして、思わず尋ねた。
「……本当に好きなんですか?」
「勿論です!」
ブリンゲルは大きく頷くと、再び頭を抱えて大きなため息をついた。
しかし、凄い女性がいたものである。こんなに愛されてはさぞ息苦しいのでは、と思ったが、男と女はわからない。相思相愛なのに、生きる世界が違うというだけでここまで苦悩しなければならないとは……。ちょっと男が哀れになったが、しかし俺にはどうしようもない。
「とりあえず、彼女が依頼に来ないかぎり、自分に出来ることはありませんので」
暗に帰宅を促すと、ブリンゲルはやっと重い腰を上げて俺に頭を下げた。
「夜分に申し訳ございませんでした」
「いや、こちらこそお力になれなくて。でも、やっぱり俺は、彼女には全部話した方がいいと思いますよ。俺がその女性だったら、きっと全部話して欲しいと思いますから」
差し出がましいとは思ったが、思わず言った言葉に、ブリンゲルが力なく微笑んで目を伏せる。
「恋とは人から自信を奪い去り、臆病にさせるものなのですよ」
そしてそう言うと、その吸血鬼は冷たい夜霧の中に去って行った。
「とにかく、訳分かんねーのよ。自分がどこへ行っても別の女を好きになっても彼女は自分を諦めないだろう、とか自信満々なことを言ったかと思えば、吸血鬼だってことを知った彼女が自分を恐れるのを見たくない、とか言うんだぜ。だったら誰かに自分が吸血鬼だってことを伝えてもらって、もう彼女には会わないってのが一番いいと思うんだけどなあ、俺は」
フィリップはブリンゲルが帰ってから少しして戻って来た。とにかく暇にしていた俺は、フィリップが自室でコートを脱ぎ、洗面所で手を洗い、キッチンでコーヒーを淹れる支度をするのを付いて歩く。そして、結局仕事にはならなかったことや、男から聞いた話などをかいつまんで話す。フィリップは俺の話を最後まで聞いていたが、やがて小さく笑うと、俺の空になったカップに淹れたばかりのコーヒーを注いだ。
「でも、『彼女には嫌われたくない』んですよ、彼はね」
「それで、何で自分のことを忘れて欲しいわけ?」
俺には訳がわからない。首を捻る俺を見て、フィリップが笑みを深める。
「彼女が一番欲しいものを自分は絶対に与えてあげることができないのですから、彼の苦悩は深いでしょうね。でも、自分の正体がばれて嫌われるのはもっと辛いのでしょう」
「ふ~ん」
俺はソファに背を預け、カップを両手で口に運ぶ。フィリップの淹れたコーヒーは、やはり凄く旨かった。
「そういえば、こんなことも言ってたな。コーヒーを一口飲んだ後で、こんなに牽制されたら逆に興味を持っちまう、とか何とか……」
「えッ」
途端にフィリップが慌てたようにこちらを見る。
「冗談だよって言ってたけどね」
俺が面白くも無く言うと、フィリップは小さく溜息をついて自分のカップに視線を落とした。
「……とにかく、依頼主でないのなら、二度と彼には接触しない方がいいですね。彼は『危険』ですから」
フィリップの言葉に、俺は奴とすれ違った時に感じた『恐怖』を思い出す。そう、あれは確かに『恐怖』だった。狩られるものが狩るものと対峙した時に感じる本能的な恐怖。そういえばフィリップと初めて会った時はどうだったかな、と考えて、俺は思わず首を捻る。すいぶん昔のことのなので、それは遠い霧の彼方だった。