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さよなら 愛しのノスタルジア

作者: 伊川なつ

薄汚れたビルに挟まれた、暗く狭い階段。そこを降りて扉を開ける。すると広がるのは、落ち着いた大人の空間だ。

内装は階段の陰気さとは違い品がある。入り口のそばに置いてあるソファやコートハンガーは細かな装飾が美しく、しかし決してそれを主張する騒がしさはない。照明は絞られ、暖かい暖色系のライトと暗闇のコントラストが美しい。天井の小ぶりなシャンデリアはただの飾り物のようで、大人しくぶら下がっているだけだ。

カウンターの向こうには大きな樽が二つ。マスターの背後の棚には行儀良く並んだ様々な酒瓶。

手元にはワイン。マスターお勧めの白だ。口元に持っていくとそれだけで、鼻に抜けるような爽やかさ。それでいて果実の甘い香りが心地よい。俺好みだ。

隣には女。街の居酒屋で話しかけ、同郷だということで意気投合した女だ。メイクは派手過ぎずファッションも落ち着いている。髪型はどこにでもいるような、胸元までの巻いた黒髪。唯一特徴的なのは、少しつり目がちな、挑戦的ともとれる瞳だろうか。まあ、こちらもそこそこ好みだ。


「それでねぇ、学校の近くだったかな、その辺りに河原があってね。よく、そこで遊んでたなぁ」

女が懐かしさに目を細める。

居酒屋で酒を飲んだ後から、さらに強めのカクテルやワインだ。酒は強い方だと豪語していた彼女だが、目は潤み、身体も話し声もぐらぐらとしはじめている。そろそろかなと思いつつも、俺はそのまま彼女の話に相槌をうっていた。

「河原って言ってもね、そんな大きいのじゃなくて、道路の脇にあるやつで、ゴミとかも結構捨てられててね」

「それ、あそこか? 松岡屋があるとこの河原」

聞くと、女はぱっと顔を輝かせた。「そうそう、そこよ」と頷いている。

松岡屋は河原のそばにあった駄菓子屋だ。皮膚が骨に張り付いたような老婆が経営していて、よく学校帰りの子どもたちは、その老婆を怖がりつつも硬貨を片手に集まった。

「やだ、私たち、家も近くだったんじゃない? もしかしたら子どものころ会ってたりして……」

くすくすと、紅をひいた女の唇が動く。手元のナッツをつまみながら

「あるかもな。でも学年が違ってたらそう会わないものだろ」

と首を振ると、女も「そうね」と頷いて、ガラスの器に入った小さなチョコレートに手を延ばした。

「でね、ええと、どこまで話したっけ?」

「紙ヒコーキが折れない女の子の話」

「そうそう、衝撃だったのよね。都会から引っ越して来た子なんだけど、紙ヒコーキが折れないなんて、ありえる? 子どもが一番初めに作るものじゃないの、紙ヒコーキって。もう凄いカルチャーショックよね。クラスメイト騒然、って感じ」

酔うと饒舌になるタイプなのか、女はもうかれこれ30分近く、幼いころの昔話を語っていた。同郷でたまに見知った場所が話に出てくるからか、意外と退屈はしない。彼女の女性にしてはハスキーでゆったりした声も、耳に心地よかった。

「それでね、クラスで紙ヒコーキブームみたいになったの。今話した河原で集まって。ほら、放課後のグラウンドなんて上級生に取られるじゃない? だからそこで、誰が紙ヒコーキを一番遠くまで飛ばせるか、ってのをやってたの」

女は目を閉じて、ふぅっと小さな吐息をもらした。

幼いころの友達と、河原。それから空を滑る紙ヒコーキを思い浮かべているのだろう。どこか牧歌的な、その光景。

俺も同じ場面がイメージできる。

「でもね、紙ヒコーキただ飛ばすだけなんてすぐに飽きるの。だって小学生だもの。そりゃあ飽きるわよ。そしたらクラスの男子がね、紙に『ナントカをした犯人は誰々だ』とか『誰々が好きな女子は誰々だ!』とか書いて飛ばしはじめて。バカよねぇ」

バカ、本当にバカ。女はそう繰り返すが、それは不思議と悪態には聞こえなかった。おそらくそれは彼女自身のことを含めての言葉だからだろう。

悪態なんかではなく、「愛しい」「懐かしい」という響きだ。

あおるようにワイングラスを空けた。マスターがちらりとこちらを見るが、俺は首を振った。女性と夜を共に過ごすためにも、これ以上酔うわけにはいかない。

「それで?」

促すが女は首を傾げた。

「紙ヒコーキの話は終わり?」

「ううん。……あのね、貴方、こういう時に他の男の話をすると怒るタイプ?」

俺は思いっきり噴き出すように笑ってしまった。急に真面目な顔をして、何を聞くかと思えば。

「他の男って、小学生の話だろう?」

「いるのよ、たまに。そういう人」

女はまたくすくすと肩を揺らした。

「そう、それでね、そんなバカなことで遊んでたらね、私、クラスの男の子に告白されたの」

女の顔が、ふわりと緩む。細められた瞳。ちらりと歯が見える笑い方。グラスの淵をなぞる細い指。全身で、遠い過去の少年を思い描いているようだった。

「『好きです』って書いた紙ヒコーキをね、私に投げて来たの。間違えたのかなと思って、彼の方見たら、もう顔が真っ赤でね。首傾げたら、頷いてくれたの。……ちゃんと、私宛てだったの」

「……それ見てなんて思った? やっぱバカだなぁって?」

「思ったわ。バカだなぁって。本当にバカ。……でもね」

女の方も、グラスを空けた。コトリとグラスを置いて、それから蚊の鳴くような声で

「嬉しかったなぁ……」

と呟いた。

「本当に嬉しかったの。今までの告白の中でも一番よ。だって、ねぇ、あんなロマンチックな告白、なかなかないわよ。学生のころの告白なんて、好きです付き合ってください、それだけだもの」

「それ以降の告白は?」

「うーん、まぁ、いろいろ。でもやっぱり、あの紙ヒコーキが、一番」

うっとりとしている女の顔。頬が色付いているのは酒だけのせいだろうか。

「でもその男の子、すぐに引っ越しちゃってね……。名前も覚えてないなぁ」

もし、俺がその少年だと言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。

「もう一軒、付き合わない?」

俺の口から出て来たのは、紙ヒコーキの少年には程遠い言葉だった。




物音がして、ぼんやりとだが目が覚めた。隣では赤い小さな光が揺れている。

「ベッドで吸うなよ。危ないぞ」

「あ、起こしちゃった? ごめんなさい」

身体を起して、真っ暗な周りを見つめる。しばらくすると目が慣れてきて、隣の女の顔も見えた。唇には細い煙草。ゆらゆらと紫煙がくゆる。大人の匂いだ。

「煙草、吸うんだな」

「がっかりした?」

「少し」

女が唇を歪めるようにして笑った。手元の灰皿でタバコの火を揉み消す。

「男の人って、本当、煙草吸う女を嫌がるわよね。どうして?」

「……身体に悪いじゃないか」

「貴方だって吸ってるでしょう? 苦かったもの」

小綺麗なロマンスを求めているわけではないけれど、女性にここまではっきりと言われるのは若干の不快を覚える。俺は無意識に眉をひそめた。

「女は子ども産む身体だろう。男が嫌がるのも当然じゃないか」

「恋人でも夫でもない男からそんなことを言われるのも複雑ねぇ……」

首を大仰に振って、女はまた身体をベッドに沈めた。

「なぁ、さっき、紙ヒコーキの話をしたの覚えてるか?」

女は頷いた。

「私、いくら飲んでも記憶は飛ばないわよ」

「もし、今その男と会えたらどうする?」

俺はまだ寝ぼけているのだろうか、ぼんやりした思考が口からぽろりと漏れた。

本当のことを知っている者からすると、なんといじましい質問だろうか。自身のことながら、呆れる。

しん、と静寂。

少しの思案の後、女は口を開いた。

「そんな、ドラマじゃあるまいし、あり得ないわよ。会うなんて。それこそロマンチック。……でも、もし会えたら」

目が、合う。お互いに大人の目。

赤い頬を、綺麗な瞳を向き合わせていたのは遠い過去だ。

今は向き合っても、話を聞かなければ、彼女が過去の少女だとは分からない。それは彼女から見た俺の方も同じ。

あの河原も、空の青も、眩しい紙ヒコーキの白も、遠すぎる。

お互い変わってしまっている。別人と、どれほどの違いがあるだろうか。

「会えたら、煙草、やめようかな」

そんなことを呟いて、女は目を閉じた。




時刻は8時。夜は遅かったのにもかかわらず、意外と早く起きてしまった。連休は今日まで。明日からはいつも通り、ネクタイをしめ、電車に揺られ、デスクに向かう日々が始まる。

ぐるりと首を回す。酒はあまり抜けておらず、頭が重い。俺はペットボトルの水を煽るように飲んだ。

女はシャワーを浴びているところだ。この後、着替えやらメイクやらの時間がかかるのだろう。

なんだか億劫だ。先に帰ってしまおうかという考えが浮かぶ。

上着の袖に手を通した。財布から金を抜き、サイドテーブルへ置いておく。

なにか一言あったほうがいいだろうかと、周りを見渡した。フロントへつながる電話の横に、小さなメモ帳を見つけた。

一枚、千切る。

何を書こうか。俺はボールペンを持ったまま動きを止めた。お金のこと? 昨日のこと? それとも連絡先?

俺は首を左右に振って、ペンを元の位置に戻した。

千切った拍子に、くしゃりとよれてしまった紙。

昔、白い長方形に『好きです』と書いた時はどんな気持ちだっただろうか。

紙を、折る。

バスルームからはシャワーの音。部屋には自分一人。まるで過去と違う光景だ。あまりの馬鹿らしさに鼻で笑う。

ぽん、と軽く力をいれて紙ヒコーキを飛ばした。

幼いころ、ぐんぐんと青い空を飛んだはずのそれは、たいした距離も進まず、情けなく乾いた音をたてて床に落ちた。

紙ヒコーキを見た彼女は、何を思うだろう。

開いてくれるだろうか。

そして何も書いてないそれを見て、どんな顔をするだろうか。

「煙草、やめようかな」

俺はそれだけを呟いて、彼女のいる部屋から背を向けた。


小さな偶然が生んだ一夜。そしてそれが終わっただけの、なんとも気だるい朝だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 何というか少し寂しいような、染み入るような。 こういう小説大好きです(#^.^#)
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