毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~
生えないすね毛を取り戻そうとする藤田の件
生えないすね毛を取り戻そうとする藤田の件
薄暗い地下室。
技術主任は、机の上の資料から顔を上げた。
「藤田幹部。どうされました」
藤田は、扉の前に立っていた。
背筋を伸ばし。
両手を体の脇につけ。
重要な報告に来た者のような姿勢だった。
「少し、時間をもらえるか」
「もちろんです」
藤田は部屋に入り、扉を閉めた。
室内には技術主任のほかに、二人の部下がいた。
先日の、毛根破壊玉の照射試験を担当した者たちである。
藤田は、その場で一度、深く息を吸った。
かつて。
この言葉を口にすることなど、考えられなかった。
部下の前で。
幹部が。
すね毛の話など。
だが、今は違う。
必要なことは、言わねばならない。
「すね毛を、どうにかしてくれ」
室内が、静まり返った。
「……すね毛、ですか」
「そうだ」
藤田は、はっきりと言った。
「生やしたい」
技術主任は、手にしていたペンを置いた。
「詳しく、お聞かせください」
◇
藤田は話した。
この夏、脛ばかりを蚊に刺されていること。
露出を減らしても、刺され続けていること。
半月にわたって、記録を取ったこと。
手帳を開いて見せる。
技術主任と部下たちは、日付と時刻と数字が並んだページを、真剣な顔で覗き込んだ。
藤田は、少年時代の記憶も語った。
すね毛の中へ入り込み、絡まり、動けなくなる蚊。
自分は長い間、それが何を意味するのか気づいていなかったこと。
「すね毛は、防御壁だったのだ」
藤田は言った。
「失って初めて、わかった」
「失った、というのは」
「先日の照射試験だ」
藤田は、まっすぐに技術主任を見た。
「あのとき、足に被弾した。それ以来、一本も生えていない」
部下の一人が、はっと顔を上げた。
「……あのとき」
彼は、覚えていた。
次々と飛ぶ破壊玉。
右へ左へ身をよじる藤田。
そして、足に当たった瞬間。
――藤田幹部!?
――大丈夫だ……続けろ。
――しかし今、足に。
――続けろ!
「やはり、あれが……」
部下の顔から、血の気が引いていった。
「申し訳ありません!」
二人の部下が、そろって頭を下げた。
「我々が、もっと正確に頭を狙っていれば……!」
藤田は、首を横に振った。
「顔を上げろ」
「しかし」
「続けろと言ったのは、私だ」
それ以上は、何も言わなかった。
言えなかった。
角度を調整し、自ら脛を差し出したのが誰なのか。
それだけは、口にするわけにはいかなかった。
◇
技術主任は、しばらく黙って考え込んでいた。
やがて、口を開いた。
「正直に申し上げます」
「頼む」
「毛根破壊玉は、毛包を完全に不活性化させるよう設計しています。毛根再生剤も、毛包再構築治療も、効かないように作りました」
「知っている」
「さらに、市販の毛根再生剤は頭皮専用です。頭部以外への効果については、メーカーも開発を中止していると聞いています」
「それも、知っている」
藤田は、技術主任から目を逸らさなかった。
「それでも、試してほしい」
技術主任は、藤田の目を見た。
そこに、迷いの色はなかった。
「……わかりました」
◇
試験は、地下の実験室で行われた。
かつて、藤田が破壊玉の照射を受けた部屋である。
藤田は椅子に座り、ズボンの裾を膝まで捲り上げた。
部下たちの前で脛を出すのは、これが初めてだった。
照明の下で、両脚は妙な光沢を放っていた。
部下の一人が、小さく息を呑んだ。
「……一本も」
「一本もない」
藤田は静かに答えた。
まず、市販の毛根再生剤。
規定量を、右脛に噴霧する。
経過を観察する。
一日。
三日。
一週間。
生えない。
次に、量と回数を増やした。
朝と夜。
右脛と左脛。
技術主任が、毎日自ら記録を取った。
一週間。
二週間。
生えない。
産毛すら、生えなかった。
◇
最終日。
技術主任は記録用紙を手に、藤田の前に立った。
「……反応、ありません」
「そうか」
「毛包は、完全に不活性化したままです」
技術主任は、そこで言葉を切った。
その顔には、複雑な色が浮かんでいた。
破壊玉は、設計通りに機能している。
再生剤にも負けない。
時間が経っても、戻らない。
技術者として、それは誇るべき結果だった。
この兵器に、穴はない。
だが。
目の前には、その兵器によってすね毛を失った幹部がいる。
技術主任は、深く頭を下げた。
「我々の技術は、完璧でした」
「……」
「申し訳ありません」
藤田は、黙って頷いた。
誰も、何も言わなかった。
そして、誰一人として。
この破壊玉がすね毛の永久脱毛に使えるかもしれない、などとは考えなかった。
ここにいる全員にとって、それは「被害」だった。
藤田は、それを確かめるように室内を見渡し。
静かに目を伏せた。
あの夜の誓いは、守られている。
だが、脛は戻らない。
◇
扉が開いた。
「報告は聞いた」
会長だった。
全員が、姿勢を正した。
会長は、ゆっくりと実験室に入ってきた。
机の上の記録用紙に目を通す。
一枚。
また一枚。
それから、藤田の脛を見た。
しばらくの間、何も言わなかった。
やがて。
「藤田」
「はっ」
「生えないのだな」
「……はい」
「どうやっても」
「はい」
会長は、目を閉じた。
そして、静かに言った。
「生えないなら、装着すればいい」
室内の空気が、止まった。
「……装着」
技術主任が、呟いた。
会長は、目を開けた。
「我々は、何者だ」
誰も答えなかった。
答えは、全員が知っていた。
「毛を失った者に、毛を与えてきた。それが我々だ」
会長は、藤田の脛を見下ろした。
「頭であろうと、なかろうと。それは変わらん」
◇
カツラ。
ただし、頭ではなく。
脛。
沈黙が落ちた。
誰も、笑わなかった。
技術主任は、藤田の脛を見ていた。
部下たちも、見ていた。
それはもう、幹部の脛を見る目ではなかった。
職人の目だった。
毛流れは。
密度は。
固定は。
境目は。
全員の頭の中で、すでに何かが動き始めていた。
藤田は、立ち上がった。
そして、会長に向かって深く頭を下げた。
「……頼む」
◇
「脛用カツラの開発に着手する」
会長が宣言した。
「カツラに未来を!」
「カツラに未来を!」
「カツラに未来を!」
地下の実験室に、声が響いた。
藤田は、捲り上げた裾の下の、自分の脛を見下ろした。
光沢のある、何もない脛。
だが今は、少しだけ違って見えた。
――待っていろ。
藤田は、心の中でそう言った。
後日談第2話




