第5話 暗闇の中で始まる痛み
すみません、ちょっと長くなります。
車が止まったのは、桜の木の裏手の斜面を滑り落ちた先だった。
雨に濡れた車体はライトの光で鈍く光り、その姿はもはや原型をとどめていなかった。
運転席側はまだ“車”としての形を保っていた。
ドアミラーはへし折れ、ドアの外板は波打つように所々凹んでいるものの、なんとか原型は判別できた。
だが、助手席側は――
まるで鉄の塊を叩きつけられたかのように変貌していた。
ボンネットの左角から後部座席にかけて、鉄板が泣き叫ぶように大きく内側にへこみ、表面は波打って醜く歪んでいた。
給油口付近は後部座席の内側へ向かって大きく折れ曲がり、金属が悲鳴を上げるかのようにひしゃげていた。
まるで「半分だけ別の力で丸ごと押し潰された」ような、異様な歪み方だった。
フロントガラスは左半分が大きくひび割れ、蜘蛛の巣のように広がった破片が左側の視界を完全に奪っている。
車内はさらに惨状を極めていた。 折れ曲がったハンドル、剥がれ落ちたプラスチックの内装が散乱し、その破片の中に赤黒い自分の血が混じっているのが見えた。
古い車だったため、エアバッグは付いていない。
守ってくれるものは、何もなかった。
ただそこにあったのは、血がこびりついたシートと壊れた車体、そしてむき出しの鉄の匂いだけだった。
世界が斜めに傾いている―― そんな感覚が、意識が戻った最初の瞬間に襲ってきた。
上半身は助手席側の足元に投げ出され、下半身は運転席側の足元に残されたまま。
腰の部分に何かの硬い構造物が強く押しつけられていた。
息を吸うたびに胸の奥がズキンと痛み、肺のどこかがひしゃげたような不快な音が自分の中で鳴った。
ぼんやりと目を開けると、車のライトが何かに向かって反射していた。
だが、それは安心とは程遠い光だった。
ライトは前方の“何か”を照らしているはずなのに、割れたフロントガラス越しでは形が歪んで見え、不気味な光だけが車内に広がっていた。
外の世界は白いような、黒いような、霧がかったような…そんな曖昧な景色に飲み込まれていた。
助手席側の足元は妙に近く狭い。 本来なら空間があるはずなのに、歪んだ影がすぐ目の前に迫っている。
ただ、その影が“何の形”なのかは、今の僕には判別がつかない。
倒れ込んだ身体では、それを確かめる術もなかった。
周りを探ろうと手を動かそうとするが、腰から下が鉛のように重く、わずかに動かすだけで鋭い激痛が走った。
「……どこだ、ここ……何が……どうなったんだ」
声は震え、かすれ、まともに出ていなかった。
そのとき、鼻を刺す金属臭がした。 鉄の匂い、油の匂い、湿った土の匂いが混ざったような、事故の瞬間にしか生まれない、死を予感させる濃密な匂い。
(……炎上していないのが、奇跡だ)
本能がそう告げていた。ライトの反射で照らされた先に見えるのは、ひび割れたガラスで白く濁った光と、その奥に続く夜の闇だけ…
自分の車がどんな姿になっているのか、この時の僕には想像すらできなかった。
ただひとつ分かったことは…
まだ終わっていない。
そして、 ここから、本当の地獄が始まるということだけだった。
《次回予告》
事故の衝撃で一度は失われた意識。
目覚めとともに、凄惨な現実が輪郭を現し始める。
次回『第6話 絶叫の中で目覚めた現実』
現実の奥で、絶望が動きだす。




