私があなたを好きだということだけ知っていてくれたら、それでいい。(うそ、本当はあなたの一番になりたい)
数メートル先で、赤いスポーツカーが停車した。まるでそこだけ、日常から切り離されたかのように鮮やかだ。
助手席のドアが開き、そこから出てきたのは見覚えのある人物。自分と同じ年齢とは思えない、涼しげで大人びた雰囲気を持つ彼は――五十嵐拓人だ。
彼が歩道へと移動すると、運転席のウインドウが下がった。そこから現れたのは同性の私でも息を吞むような美貌の大人の女性。
彼はこちらに背中を向けているので、どんな表情をしているかはわからない。けれど、女性の顔は見えた。車の色と似た真っ赤な口紅が光る唇が、何かを告げた。
ウインドウは上がり、車は砂を噛むような音を立てて走り去っていく。
しばらくの間、彼は赤い車が去った方を見ていた。そして、ゆっくりこちらへと振り向く。
慌ててどこかに隠れようとして、動きを止めた。彼が涙を流していたから。
この日ほど、自分の視力のよさを恨んだことはない。映画のワンシーンのように非現実的で、美しく、そして痛々しい光景が私の網膜に焼き付いた。
足が地面に縫い付けられたかのように固まり、思考が止まる。
彼が俯き、再び歩き出したことで、ようやく私は我に返った。
そして、今度こそその場を逃げ出したのだった。
◇
九月の、湿気を帯びた暑さがまだ残る日のこと。
「ねえねえ、葵」
「なに?」
「もうすぐ文化祭でしょ。どうするの?」
「どうするって……あー」
友達の夢花に言われて思い出した。彼女には最近、彼氏が出来たのだ。例年は一緒に回っていたが、今年は当然彼氏と回ると言っていた。夢花は丸い大きな目をくりくりさせ、小首をかしげている。それに合わせて茶色い手入れの行き届いたボブが揺れた。
私は苦笑しながら答える。
「今年はてきとうに回るよ」
「え、ひとりで?」
「うん、ひとりで」
夢花は納得いっていない顔だ。けれど、残念ながら私は彼女のように誰にでも声をかけられるような性格ではない。普段さほど仲良くしていない人と一緒に回るくらいなら、ひとりの方がよっぽどましだ。
だが、夢花はどうしても私をひとりにはしたくないらしい。
「なら、私たちと一緒に回ろうよ?」
「え? いや、いいよ。カップルの邪魔なんてしたくないから」
「邪魔じゃないって! それに、実は彼の友達も一緒に回る予定なの。正直、三人で回るのは気まずいと思っていたから、葵がいてくれたら助かるんだけど……」
「そういうことなら、まあ。……っていうか、その友達とやらって空気読めない人なの?」
「ちがうちがう! むしろ反対っていうか……それがね……ここだけの話なんだけど。その友達、最近失恋しちゃったらしくて、大我ってそういうのほっとけない性格でしょ? だから、この文化祭で元気つけてあげたいんだって」
(それってむしろ逆効果なのでは? 失恋したばかりの人に、ダブルデートは酷じゃない? しかも片方は本物のリア充)
と思いつつ、口には出せなかった。
そういう強引なところが、夢花と山田君のいいところでもあるからだ。
「なるほどね……でも、それなら尚更私みたいな静かなタイプじゃない方がいいと思うけど」
「ううん! 私は彼と葵って合うと思うの!」
(いったい、その自信はどこから出てくるの?)
「ふーん。まあ、いいよ。別に断る理由もないし」
「ありがとう!」
私の手を両手で挟み、満面の笑みをこぼした夢花。その笑みが、あの時の衝撃をフラッシュバックさせるきっかけへと繋がるとは、この時の私は知る由もなかった。
◇
「で、こいつが五十嵐拓人」
「こっちの子が姫川葵ね」
「よろしくお願いします」
「あ、はい」
つい冷たい返事になってしまった。が、さすがは物腰が柔らかく紳士的な男子生徒だと有名な五十嵐君だ。嫌な顔一つせず、ほほ笑んでいる。ただし、その目には友好的な色も宿ってはいないけれど。
(一応、私一年の頃、同じクラスだったんだけどな……)
とはいえ、覚えられていなくても仕方ない。彼は山田君のようなクラスを率先してまとめようとするタイプではないけれど、気づけばいつのまにか委員長に選ばれているタイプの人間だ。私のような教卓の前に座っていても気づかれにくいタイプとは違う。
それにしても気まずい。いや、勝手に気まずく思っているのは私だ。あの日、赤いスポーツカーから彼が降り、泣いているのを見た後ろめたさから視線が合わせられない。
それが、彼にも伝染しているのだろう。
ぎこちない空気の中、最初は男男、女女で並んで歩き始める。しかし、しばらくしたらいつのまにか男女、男女の並びに変わっていた。
(仕方ないか。もともと夢花と山田君は二人で回る予定だったんだもんね)
「すみません」
「え」
いきなり話しかけられ、驚いた。何に対しての謝罪かわからず首を傾げる。
「僕の勘違いだったらアレなんですけど……姫川さんは大我たちから半強制的に参加させられたんでは? 」
「あー……うん、まあ。でも、それで五十嵐君が謝るのは違うと思うけど……。五十嵐君からしたら余計なおせっかいだっただろうし。まあでも私も、もともとひとりで回るつもりだったから、むしろ助かったというか」
「あ、僕の話も知って……いえ、助かったというのならよかったです」
「う、うん」
言葉を濁し、気まずげな五十嵐君。どうにかして雰囲気を変えようと、別の話題を振った。
「そういえばさ、私と五十嵐君って一年の頃同じクラスだったんだけど、覚えて……ないよね?」
「……すみません」
「いやいや、頭下げないで! 同じクラスっていってもまともに話したこともなかったから」
先ほどよりも眉尻が下がった顔で「すみません」と何度目かわからない謝罪を呟く五十嵐君。
「僕、人の顔を覚えるのが苦手で……」
「大丈夫大丈夫。私だって、一年のクラスメートの名前全員言え、って言われたら無理だから。それに、五十嵐君みたいな目立つタイプならともかく、私みたいな地味なのは尚更……」
「地味ではないと思いますけど」
「え」
真剣な表情の五十嵐君と目があい、固まる。嘘は言っていないのだろう。でも、その優しさが今は少しつらい。苦笑しながら「ありがとう」と返す。そして、前を見た。
「ねえ、そろそろいいんじゃないかな」
「え?」
「あの二人、後は二人にしてあげようよ」
「あ、ああ。そうですね」
「じゃあ……夢花!」
夢花がこちらを振り向く。その瞬間、五十嵐君の腕を引き寄せた。驚いている五十嵐君を無視して、夢花に「別行動しよう!」と告げる。夢花は目を開き、嬉しそうに笑って「うん!」と手を上げた。
五十嵐君を連れて、夢花たちとは逆方向へ進む。五十嵐君はされるがままだ。しばらく歩いてから手を離した。
「いきなりごめんね」
「いえ。むしろ、いつ抜け出すべきか迷っていたので助かりました」
「ならよかった。で、どこ行く?」
内心「ここで解散で」と言われたらどうしようと不安だったが、五十嵐君はそうは言わなかった。
「そうですね。でしたら、ここはどうでしょう?」
五十嵐君がパンフレットを広げ、一か所を指さす。その場所にあるのは美術部の展示だ。思わぬ場所に、私は目を瞬かせた。
美術部の展示があるのは校舎の端だ。人が多く集まるだろう場所は、お化け屋敷や喫茶店などの賑やかなクラスの出し物に使われている。
展示するだけなので係りを置かなくていいそこは、人も少なく、とても静かだった。
(つまらないと思われたらどうしよう)
というのは私の杞憂だったらしく、五十嵐君は興味津々で一つ一つ展示品を眺めている。
そして、五十嵐君はひとつの絵の前で止まった。
「この絵」
「……うん」
としか言えない。
道中で話そうと思えば、話せたはずだけれど、どんな反応をされるかわからなくて私はあえて黙っていた。
五十嵐君が見ている絵は私が描いたものだ。食い入るように見つめられて、頬が熱くなる。
けれど、その横顔に切なさが滲んでいるのに気づいて、熱は一気に冷めていった。
私も、彼が見つめる己の描いた絵を見る。タイトルは『夜の海』。以前、兄にドライブに連れ出された際に見た、月明かりが暗い水面に反射する光景を描いたものだ。
(もしかして……五十嵐君はあの赤いスポーツカーの女性と行ったことがあるのかな)
その風景が頭の中で鮮明に浮かび上がり、胃のあたりがきゅうっと痛くなった。
痛みを強引に打ち消すように、明るい声を発する。
「五十嵐君。この絵、気に入ったの?」
「……はい。それにしても、姫川さんって美術部だったんですね」
(嘘つき。気に入ったのならそんな顔しないでしょ)
と思いながらも、「実はそうなの」と笑って返した。
展示室を出て、私は高めのテンションのまま五十嵐君と一通り回った。夢花がこの場にいたらすぐ異変に気づいただろうが、ほぼ初絡みの五十嵐君は気づけなかっただろう。そのまま、なんとなくの流れで連絡を交換し、私たちは別れた。
夜、浮かれた声の夢花から『どうだった?』と連絡がきた。その時、「ああ。夢花たちはそういう狙いもあって、私と彼を誘ったのか」と理解した。
私は、「五十嵐君とは連絡交換した」という事実だけを伝えた。しかし、夢花はそれを脈ありと捉えたようで、なぜかそれ以降、山田君と夢花が「恋のリハビリ作戦」と称して私たちを誘い、四人で遊ぶことが増えた。
そんな穴だらけの作戦に私は満々とはまった。五十嵐君を知れば知るほど、好きになっていったのだ。彼の心にはまだあの赤い口紅の女性が居座っていることに気づいていたのに。もう、引き返すことはできなかった。
そして、五十嵐君への気持ちが抑えられないほどに膨れ上がった頃、神様は私にプレゼントをくれた。とても、意地悪なサプライズプレゼントを。
その日、私は彼に気持ちを伝えるつもりでいた。いつものように最初四人で遊び、二人になったところで言うつもりだった。
「五十嵐君。ちょっとゆっくり話せるところに行きたいんだけど、いいかな?」
「それはかまいませんが……どちらに……」
五十嵐君の視線が私を通り越し、一点を見て固まった。つられて振り向く。そして、私の呼吸も止まった。
五十嵐君の視線の先にいたのは、あの女性だった。ただし、彼女は一人ではない。隣には、いかにも裕福そうなスーツを着た男性。二人の左手の薬指には、揃いの指輪が光っている。どんな関係かなんて聞くまでもなかった。
その瞬間、フラッシュバックした。
赤いスポーツカーと同じ、赤い口紅。
一筋の涙を流した五十嵐君の姿。
今、鮮明に思い出した。
(こんなところで、見ている場合じゃない!)
「五十嵐君、はやく!」
と、強引に彼の腕を引き、その場から歩みを進める。
「あ、は、はい」
目の前から来ているカップルを視界に入れないよう、まっすぐ前だけを見る。もしかしたら、隣の五十嵐君は彼女を見ているかもしれない。足がさらに速くなる。
早く、遠ざからなければ、あのカップルから。その一心だった。
どれくらい歩いたのだろう。五十嵐君に声をかけられ、足を止める。
「姫川さん、行先は決まっているんですか?」
「あ、ごめん……」
何も考えていなかった。と、皆まで言わずとも五十嵐君は理解し、スマホを開いた。
「少し待ってくださいね」
スマホで近場の喫茶店を検索をする。一番近い店、私たちはそこへと向かった。
落ち着いた外装。扉を開ければ、洒落たBGMが聞こえてくる。大人っぽい彼にぴったりの雰囲気だ。けれど、自分には似合わない気がして、入るのを戸惑う。
五十嵐君は、「大丈夫ですよ」とでもいうように、私の手を引き、店の中に導いた。
意外にも、五十嵐君は自分から彼女について話し始めた。
「あの方が……昔、僕が好きだった方なんです」
まさか、教えてくれるとは思わず、驚いて目を丸くする。
「元気そうで……幸せそうで、よかったです」
「え……」
五十嵐君はコーヒーカップを両手で抱え、暗い水面の中を覗き込むようにじっと見つめ、ほほ笑んだ。その笑みはどこか自虐的で、今にも消えそうな儚さも併せ持っていた。そう、ほほ笑んでいるのに、あの日涙を流していた時と同じくらい傷ついているように……私には見えた。
「本当に、そう思ってるの?」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
五十嵐君は口角を上げたまま、首をかしげる。
「ええ、もちろんです」
「本当に? そんな、今にも泣きそうな顔してるのに?」
「それは姫川さんの勘違いですよ」
「勘違いじゃない!」
「いいえ。そもそも、姫川さんは僕のことをたいして知らないでしょう?」
「あなたに、僕の何がわかるんですか」というような突き放したような言葉と視線。胸がぎゅううと締め付けられる。が、次の瞬間、五十嵐君は我に返り、「すみません」と謝ってきた。
「あ、謝らなくていい! 私が五十嵐君のこと知らないのは本当なんだから。でも、だからこそ、私は知りたいと思ってる。私は五十嵐君のことが……好きだから」
五十嵐君の目が大きく見開かれる。
「……あ、す、みません。僕は……」
「わかってる、わかってるから謝らないで。ただ、私の気持ちを知ってほしかっただけだから。返事は、いらないから」
「は、はい……」
無言が続く中、私は冷め切ったコーヒーを一気に飲み干した。そして、震える声で「今日はもう解散で!」と言って、その場から逃げた。
家に帰ってから反省した。あれはかなりの悪手だったと。
◇
後日、私は何も無かったかのような体で五十嵐君に話しかけた。
彼は驚いていたけれど、そもそも表情に出にくい人のため、周りは気づかない。
と、思っていたのだが……「ねえ、五十嵐君となにかあった?」と夢花から聞かれてしまった。
どうやら、私の態度で気づいたらしい。さすが、夢花だ。私は詳細は伏せ、五十嵐君に告白したけれど、返事はいらないと言ったことだけを夢花に伝えた。テンションが一瞬で上がった夢花に焦って、「変にくっつけようとしないでほしい。いつもどおりでお願い」と頼んだ。
私の本気が伝わったのか、夢花は真剣な顔で「わかった」と言い、山田君にも釘を刺してくれた。そのおかげか、五十嵐君との仲もしばらくすれば今までのように戻ったのだった。
◇
とある日の放課後、私は一人日直の仕事をしていた。残念ながら、もう一人の日直は今日は欠席だった。
「姫川さん」
「あれ、五十嵐君どうしたの?」
彼から話しかけてくるなんて珍しい。
「大我たちが、先にカラオケに行っていると」
「OK。わかった。……五十嵐君も先に行ってていいよ?」
「いえ、僕一人であの二人と行くのは少し気まずいといいますか」
「ああ、そうだよね。ごめんね。もう少しで終わるから」
「いえ、ゆっくりで大丈夫ですよ」
と、言われてもどうしても五十嵐君からの視線が気になる。耐えきれず、私は手を動かしながら口を開いた。
「そういえば、山田君と五十嵐君って性格とか趣味も反対だよね。仲良くなったきっかけとかあるの?」
「僕ら幼なじみなんです」
「え?! そうなの? あれ、でも、五十嵐君って山田君にも敬語だよね?」
「はい。これは僕の癖みたいなものなので」
「そうなんだ。 え、じゃあ恋人とかにも敬語なの?」
「恋人っ、そ、そう、ですね」
微かに頬を赤らめる五十嵐君を見て、自分の発言の大胆さに気づいた。
(告白しておいてこの話題はちょっと……だったよね)
「えっと……あの、もうこれしたら、終わるから」
「は、はい」
何とも言えない雰囲気の中、日直の仕事を終わらせ、学校を二人で出た。しかし、角を曲がった瞬間、赤いスポーツカーが止まっているのが見え、自ずと足は止まってしまった。車体の赤が、夕焼けに照らされてギラついて見えた。先に気づいたのは私。
五十嵐君はまだ気づいていなかったようで、私の視線の先を見て歩みを止めた。車のドアが開き、今一番会いたくなかった人物が降りてくる。彼女はこちらを、というより五十嵐君を視界に入れ、まっすぐこちらへと近づいてきた。私は無意識のうちにうつむいた。彼女が鳴らすヒール音が、私と彼の間の隔たりを示すように、カツカツと響く。
「拓人、少し話したいことがあるんだけれど」
「沙耶さん。……わかりました」
その言葉に顔を上げる。五十嵐君と視線が交わる。
「姫川さん、先に行っていてもらえますか?」
「う、うん」
頷き、歩き出す。怖くて後ろを振り向けなかった。車に乗り込む音が聞こえてくる。次いで、私の横を車が走っていった。私は……それを黙って見ることしかできなかった。行かないでと言うことも、追いかけることすらも、できなかった。
結局、私は夢花たちがいるカラオケには行かず、私と五十嵐君が行けなくなった旨だけを連絡して、帰宅した。夢花から返信は返ってきたが、それにスタンプのみで応え、スマホの電源を落とした。五十嵐君から連絡が来ても、来なくても、今の私には冷静でいられる自信がなかったから。
翌日、スマホの電源を入れると五十嵐君から二件の着信が入っていた。
「ごめん、昨日電源落ちてるの気づかなくて!」
いろいろ考えた末の言い訳を口にすれば、五十嵐君は「そうだったんですね」とだけ言い、微笑んだ。その笑みはいつもよりかたい気がしたけれど、私はそれはただの自分の都合のいい夢で、気のせいだということにした。
聡い彼のことだから、私の複雑な心境にも気づいていて、私が今までどおりに振舞おうとすれば彼も併せてくれるだろう。
予想通り、彼はそれ以上追求してこなかった。後は、私側の問題。
◇
「ねえねえ、葵。今日こそ遊びに行こうよ~」
「ごめん! 今日も無理。というか、しばらくの間無理だと思う。家庭の事情で遊ぶ時間作れそうにないっていうか……」
「えー」
夢花は不服そうな顔をしつつも、「家の事情なら仕方ないか」と納得してくれた。私は彼女に甘えそのまま、とある場所へと向かう。五十嵐君と距離を置きたいタイミングではあったが、用事がるのも本当なのだ。
グルメアプリでも高評価がたくさんついている小さな洋食屋。その店の扉を開く。
「お兄~きたよ~」
「おー」
カウンターの中から、この店の店長である私の兄が声をあげた。
そう、この洋食屋は兄とその奥さんが二人で営んでいる店。なのだが、奥さんは今妊娠中で、しかも臨月。ということもあり、出産で里帰りをしている。最初、兄からは奥さんがいない間だけバイトとして入ってくれないか、と頼まれたのだが一度私はそれを断ったのだ。けれど、その後いろいろあり――五十嵐君とのこととか――こうして私はバイトではなく、手伝いとして入ることとなった。
と、いう経緯があり、私はしばらくの間忙しいのである。
「葵ちゃんーこれ四番にお願い」
「はい」
手伝いの私とは違い、正規アルバイトとして入ってる陽太さんから、できたばかりの料理を受け取る。
その際、陽太さんからにっこりスマイルもいただいてしまった。年上、イケメンの破壊力はすごい。同級生にはいないタイプだ。黒髪マッシュでインナーカラーに深い青色を入れている。オシャレ大学生。
彼を雇ってから女性客が増えたと兄夫婦は喜んでいた。今も、カウンター席とテーブル席、どちらもほぼ埋まっている。
(たしかに、これは人手がいる忙しさだ)
忙しい。けれど、それがいい。余計なことを考えないで済むから。
しかも、美味しい賄いと、無料の家庭教師つきだ。
店じまい後、賄い兼夕食を食べ、私は陽太さんに勉強を見てもらっていた。
「そう、ここの式つかえばいいんだよ」
「なるほど。だとしたら……」
「そうそう。おー! すごい。応用もばっちりじゃん。葵ちゃんてば天才!」
なんて、褒めるのも上手なのだ陽太さんは。その笑顔は、太陽みたいに曇りがない。
「おーい。おまえら、そろそろ帰った方がいいんじゃねえのー?」
「え、お兄今日は車ダメな日なんだっけ?」
いつもは送ってくれるのに、と首を傾げる。
「今日は嫁さんとこの実家に顔出す日なんだよ」
「あーそっか。わかった」
「なら、葵ちゃんは俺が家まで送りますよ。歩きだけど」
「え、そんな」
「おー陽太、頼んでいいか?」
「ちなみに、残業手当ってでます?」
「でねぇよ! でも、明日の賄いはデザート付きだ!」
「やった!」
人懐っこい笑顔を見せる陽太さんは実年齢よりも幼く見えて、笑ってしまった。口下手な私だが、陽太さんの恐ろしいコミュ力の高さによって会話が途切れることなく家までたどり着いた。
「ありがとうございました」
「いえいえ、また明日ねー」
「はい」
手を振って、家に入る。
まさか、その姿を誰かに見られていたとは知らず。
「葵! 葵! 彼氏が出来たって本当?!」
いきなり夢花にそんなことを聞かれて驚いた。
「え? できてないけど」
「本当に?」
「本当だよ! っていうかなんでそんな疑うの?!」
「だって、見たっていう人いるんだもん」
「なにを?」
「夜に葵がイケメンと二人で歩いてるの」
「え? ……あーそれってもしかしたら陽太さんのことかも」
「誰それ」
「お兄の店でバイトしてる人だよ。しばらく、私忙しいっていったでしょ? それ、お兄の店の手伝いしてるからなんだよ。お兄の奥さんが出産で里帰りしてるから。で、いつもはお兄に家まで送ってもらってるんだけど……どうしてもダメな日は陽太さんが送ってくれてるの」
「……なんだ。やっぱりそういうことだったんだ! だって、五十嵐君」
「え?」
おどろいて後ろを見ると、山田君と五十嵐君がいた。
「よかったな拓人!」
と山田君が五十嵐君の肩をたたいている。私は血の気が引いた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、夢花! そういうのはなし! 五十嵐君に迷惑かけないでって言ったでしょう」
「葵、葵こそ、五十嵐君と一回話をちゃんとしてみた方がいいと思うよ」
逃げないで、とぷくっと頬を膨らます夢花。
(これは完全に変な勘違いを起こしてる)
「逃げてないから。ていうか、そろそろチャイムなるんじゃない?」
「え、本当だ!」
「わ、やべ!」
慌てて席に戻るお騒がせカップル。五十嵐君とは一瞬目があいそうになった気がするが、その前に私の方から逸らした。だから、五十嵐君がどんな顔で、この状況を受け止めているのかは、知るすべがなかった。
◇
お兄の店の手伝いをはじめてから一ヶ月経った頃。まさかのお客様がきた。
「わ、ほんとに葵が働いてる!」
「な!」
「二人とも、声のボリュームを少し下げた方がいいかと。他の方のご迷惑になるかもしれませんから」
五十嵐君に諭され、慌てて口を閉じるカップル。
「い、いらっしゃいませ」
私は頬をヒクつかせながら、三人組を奥の席へと通すことにした。
「ねえねえ、葵」
「本日のオススメはこちらとなっております」
にっこり微笑み、オススメメニューを提示して、私はさっとカウンターの中へと引っ込んだ。
できるだけ彼らから見えないように、お兄と陽太さんを肉壁にする。
「葵ちゃん。もしかして、あの人達、葵ちゃんのお友達?」
狭いカウンター内。自ずと距離は近くなる。小声で話すとなればさらに。私はその距離感にどぎまぎしながら、頷き返した。
「そっか。なら、先に休憩に入っちゃう?」
陽太さんの提案内容がわかっていたのか、お兄もちらっとこっちを見て頷いている。どうやら、二人とも「ここは俺たちに任せて行ってこい」と言いたいらしい。その気持ちはありがたいが……。
「ううん。大丈夫。学校でも会えるし、今からもっと人が増える時間帯でしょ?」
学校帰りの女子高生や女子大生たちが陽太さん狙いでやってくるはずだ。
「あー。いや、でも本当にいいの?」
「いいんです」
「そっか。ほんと葵ちゃんは真面目でいい子だね~」
「はいはい」
隙あらばすぐに褒め言葉を口にする陽太さんを軽くあしらう。こんな会話、お客様に聞かれたら、恨まれること間違いなしだ。私は仕事に徹する。
夢花たちは店の混雑具合を見て空気を読んだのか、私に話しかけてくることもなく、普通に食事をして帰っていった。夢花だけは、レジの際に「頑張ってね!」の一言だけを残していったが。五十嵐君とは目を合わせることすらなかった。
店を閉めていると、今日は用事があるからと先に帰ったはずの陽太さんが戻ってきた。
「どうしたんですか?」
と尋ねれば、陽太さんが店の外を指さした。どうやら私を待っている人がいるらしい。夢花か……と思い、今日はそのまま徒歩で帰るとお兄に告げ、店を出た。けれど、そこにいたのは夢花ではなかった。
ガードレール近くに立っていたのは、五十嵐君だった。これは夢かと思わず己の頬をつねったが、痛みはしっかり感じた。
「い、五十嵐君?」
声をかければ、彼がこちらを見た。一瞬息が詰まる。が、すぐに何でもない顔で彼に近づいた。
「どうしたの? なにか用事でもあった?」
「はい。姫川さんと、話がしたいと思いまして」
「話……」
「帰りながらで結構ですので」
「う、うん」
「お仕事、お疲れ様です」
「あ、ありがとう。まあ、お仕事っていうか、お手伝い程度なんだけど」
「いえ、ご家族のために、立派なことだと思います」
「う、うん」
五十嵐君の言葉がくすぐったくて、続きの言葉が出てこない。
(今までどういう感じで接していたっけ)
「姫川さんは」
「うん?」
「陽太さんのことを好きになったんですか?」
「はい?」
思わぬ言葉に立ち止まった。五十嵐君も足を止める。
目と目があう。こうしてしっかり視線を合わせるのもいつぶりだろう。
「仮に……私が陽太さんを好きになったとして、五十嵐君に関係あるかな?」
意地悪な返しなのは百も承知だ。けれど、五十嵐君が悔しげな表情を浮かべたのを見て、喜ぶ自分がいた。まさか、私のことで五十嵐君がその顔をするとは思っていなかった。
「なんで、そんな顔」
「……僕、今どんな顔をしていますか?」
「まるで、私の事好き、みたいな顔してる……」
「よく、わかりましたね。……僕、感情がわかりにくい、と言われることが多いんですけど」
「それは」
私が五十嵐君のことを好きだから。と、ふと思考が止まる。
(え? 『よくわかりましたね』? それってつまり……)
茫然と五十嵐君の顔を見つめる。
「姫川さんの思っている通りですよ」
「え?」
「僕は、姫川さんが好きです」
(五十嵐君が私を好き?)
そんな都合のいい展開が起きるわけがない。と、乾いた笑い声が漏れた。
「五十嵐君が好きなのはあの赤いスポーツカーの人でしょ?」
「以前も言いましたが、あの方は僕の『好きだった』方です。もう、過去の人ですよ」
「五十嵐君はすぐ嘘をつく」
「……たしかに、あの時。沙耶さんが旦那さんと一緒にいるのを見た時には、まだ気持ちは残っていたのだと思います。でも、彼女が僕の学校まできた日。あの日には、もう完全に吹っ切れていました」
「うそ」
「本当です」
「なら、どうしてあの人について行ったの。あの場で断ることだってできたでしょ」
そうせず、私を置いて行ったのは五十嵐君じゃないか、と言外に伝えれば、五十嵐君が悔いるような顔になる。
「そうですね。あの時の僕の判断は間違っていました。姫川さんの優しさに甘え、僕は自分の復讐心を優先させました。それで、あなたを失うことになるなんて、考えもしなかったから……」
「復讐心?」
「はい。僕をあっさり捨てたあの人への。もともとあの人にとって僕はただの遊び相手でした。そのことに気づいたのは、恥ずかしながら別れた後だったんですが……、思いの外僕は傷ついていたようで」
「それは当然のことでしょ」
私の言葉に、五十嵐君は嬉しそうな、悲しそうな笑みを浮かべる。
「でも、そのことであの人になにか言うつもりはなかったんです。あの日、あの人が僕の前に再び現れるまでは。僕には、あの人の魂胆がなんとなくわかっていました。旦那さんと喧嘩でもして、もしくは仕事で大きな失敗でもして、その憂さ晴らしに僕を利用しようとしているんだろうな、と。正直、腹が立ちました。だから、それに付き合うフリをして、嫌味の一つや二つをぶつけて、完全に縁を切ってやろうと……したんです」
「そう、だったんだ」
「はい。でも、その結果、姫川さんは……姫川さん」
「は、はい」
「まだ、あなたの気持ちは変わっていませんか? いえ、変わっていたとしてもかまいません。今度は僕から気持ちを伝えますから。好きです。僕は姫川さんが好きです。僕の気持ちを受け入れてほしい、なんて都合のいいことはいいません。ですが、どうかあなたを想うこの気持ちは、許してはいただけないでしょうか?」
「それは……というか、五十嵐君……本当に? 本当に私のことを?」
「はい。姫川さんが好きです」
何度五十嵐君の口から聞いても信じられない。
でも、彼の表情からは、真剣な想いが伝わってくる。
苦しい。切ない。それでも、好きなんです。そんな気持ちが。
私と――同じだ。
「五十嵐君。私の気持ちは変わってないよ」
「それは……つまり」
「私も好き。五十嵐君が」
「本当、ですか? 陽太さんより?」
「なんでそこで陽太さんの名前が出てくるかわからないけど。私は比べるまでもなく、五十嵐君が好きだよ」
その言葉を告げた時、五十嵐君の目から涙が流れた。その涙に見惚れる。が、すぐに我に返った。
「い、五十嵐君。大丈夫?!」
「あ、すみません」
目をこすろうとする彼を慌てて止めようとして、その手を取られた。
「嫌なら、避けてくださいね」
「え、」
近づいてくる顔。キスされる。そう思った時には目を閉じていた。柔らかい唇が重なる。きっとそれは数秒。けれど、私には長い時間に感じた。
「すみません。我慢できませんでした」
「我慢……」
五十嵐君はもっとこういうことはスマートにするんだと思っていた。今みたいに衝動的にするんではなく。でも、だからこそ、とても嬉しく感じた。
「しなくていいよ。その方が嬉しいから」
「……いいんですか?」
「うん」
「姫川さん。好きです」
「うん。私も五十嵐君が好き」
頬に触れる彼の手の上から己の手を重ねる。再び近づいてくる顔。目を閉じる。二度目の口付けは一度目よりも長かった。頬に触れる手とは反対の手が私の体を抱きしめるように背中に回る。私も答えるように五十嵐君の背中に手を回した。
覆い被さるような彼の勢いに押され、首がぐいっと反ってしまい若干苦しいけど、でもそれすらも嬉しく感じた。五十嵐君の一番になれたのだと、そう実感できるから。




