第三話 Desire~あさひの場合~〔8〕
どうして私の名前を知っていたかなんて、考えてみれば心当たり、あるんだった。
やっぱり、保健室のことで私を知って。
それで人づてに名前も知ったのかも、って思った。
だとしたらきっともう、軽蔑されて――
「みんな知ってるよ。安藤さんって有名人だから。僕のことは――知らないよね」
穏やかな笑みを浮かべた彼の口から出てきたのは、予想外の言葉だった。
その表情もいたってふつう。軽蔑されている様子もない。
知らないよね、なんて。そんなはずない。
保健室で勝手に触っていた私が、自分のことを知らないなんて思うはずない。
もしかして、気を遣ってくれてるのかな。
知らないふりして、あの時のこと、なかったふりして。
でもそれってすごく空しいことなんじゃないかな?
心の中で軽蔑されながら、うわべで優しくされたって嬉しくない。
そんなやさしさ、ほしくないって思った。感情が、高ぶっていく。
「なんでっ……、だって――保健室の――」
「ん? 保健室って?」
きょとんとしたその顔に、毒気を抜かれていく。
もしかして、覚えて――ないの?
そうだ、あの時、沢田くん寝ぼけていたし。
「ううん、……なんでもない」
私は首を振ってから、気を取り直して。
そして最大限に気を遣ってにっこりと笑った。
どんな表情をすれば、どういう風に笑えば、自分が一番『純粋』にかわいく見えるか、知ってるんだ。外見のイメージに忠実に。人の期待を、裏切らないように。それは自然に身についたものだった。
神様、ありがとう。私にチャンスをくれて。
私の笑みを受けてか、沢田くんは笑みを返してくれた。
もっと笑ってほしい。その笑顔を、私だけのものにしたい。
そのために本当の自分を隠さなくちゃいけないんだとしても、構わないから。
「沢田くん」
名前を呼んでみたら、彼はちょっとびっくりしたみたいで意外な顔をした。
――好き。すごく好き。死んじゃうくらい好き。
沢田くんのためなら私、きっと何でもできる。
こんな私だけど、もう一度だけ恋をしたいの。
過去のしがらみを脱ぎ捨てて、本当の自分を――消して。好きになってもらえる“理想の女の子”を、演じきってみせるから。
だからどうか、私に振り向いて。
「知ってるよ。私、沢田くんの笑顔が好き。ずっと、好きだったの。……私を、彼女にしてください」
驚いた顔をした沢田くんが、次の瞬間、優しく笑った。
眉尻を少しだけ下げて。込み上げる大きな想いに、涙が出そう。
その瞬間、彼の視線は私のものだった。
「僕でいいの?」
それが否定の言葉じゃなかったから。
優しい笑顔だったから。彼女になって、良いってことだよね?
すごくうれしくて、おもわず抱き着いていた。
「えっ、ちょ――!?」
「よろしくね。――“修ちゃん”」
すり寄った胸に耳を寄せると、ちょっと早い鼓動の音が聞こえた。
幸せな笑顔の向こう側で、不安定な私の心。
――失いたくない。
失いたくないと思った。今度こそ、絶対に。
先輩のことも、ちゃんと好きだった。だけど修ちゃんは、先輩とは比べものにならないくらい、私の心を全部占領してるから。
強く決心したの。偽りを貫き通すって。
失わないように、理想の彼女でいようって。
そしてまた決心した。作られた偽りの私で付き合うのは、もうやめにしようって。
どっちの決心が、正しいの?
どうすれば修ちゃんを、私に繋ぎ止められるの?
臆病な私。自分の弱さに負けてた私。考える必要なんてない。
……正しい道なんて、はじめからわかっていたんだ。
――“私ね、誰にも言えない秘密があるの”
初めて打ち明けた本音。余裕ぶって、笑顔を保っていたけど。
本当は、ただためらいを捨てきれていなかっただけ。
私は、そのままの私で修ちゃんを好きでいたかった。だけど、怖くて……。
体育倉庫のほこりっぽい空気が、のどに詰まりそう。
あの日からもう一年以上、ずっと彼女としてそばにいた。
修ちゃんは何も変わらない。飾らない、そのままでそばにいてくれた。
でも、私は――?
ぐちゃぐちゃな気持ちを言葉にする前に、私の頬を涙が伝っていた。
繋ぎ止めてほしい。ばらばらになりそうに張りつめた、私の心。
「抱きしめて。お願い……」
縋るように、大切なひとの手を握りしめる。
好きだから、触れたいって。私、間違ってなんかいない。