第一話 秘密はヒミツ〔2〕
空気すら重く感じた。息をするのが、重いのだ。
それは僕自身の気持ちからくるのか、それとも目の前の彼女の雰囲気によるものなのか。
あさひの手が信じられないくらいの力で僕の手を握っている。
なんだか嫌な汗をかいてしまった。僕は完全にたじろいでいた。
彼女はすでにいつもどおりに笑っているはずなのに。
いつもどおり、天使のような笑顔。
そうだ、目の前にいるのは愛すべき僕の、純粋で可憐な彼女だ。
秘密の一つや二つ、きっとその内容も他愛のない可愛らしいもの、そうにきまっている。
そう自分に言い聞かせてみるのだが。
僕の生唾を飲み込む音が、むなしくその場に響いた。
「ひ、秘密って……?」
ためらいがちに問いかけてみる。
するとあさひは、不敵に笑った。
いちいち驚かされる。これもまたあり得ない表情である。
今までの、可愛らしくて奥ゆかしい彼女がこんな表情をするなんて考えられない。
「……知りたい?」
不敵な笑顔のまま、あさひが僕を試すような口調で問いかけてきた。
探るような目線にさらされている。
危険だ。これ以上踏み込むな。僕の直感がそう訴える。
「知りたいなら、ついてきて」
何も言わない僕に、けれどあさひはそう言って、僕の手を開放し、さっさと背を向けて歩きだしてしまった。
動揺する僕。迷う暇もなく、答えを迫られる展開であった。
このまま帰ってしまおうか。そう思った。
しかしその瞬間、頭に浮かんでくるのだ。
あさひの透明な笑顔、僕を“修ちゃん”と呼ぶ時の鼻にかかった甘い声、可憐で大きな瞳。
多分このままついていかなければ、僕は永遠にあさひを失ってしまうだろう。
そんな事を思っていると、いつの間にか、僕の足は自然に動き出していた。あさひの後を追って。
前を歩くあさひは終始無言だ。僕を振り返りもしない。
歩いたことのない道であった。
ひたすらに、あさひの歩くままついていく。
そうして十分くらい歩いただろうか。
あさひが、門構えの立派な大きな家の前で立ち止った。
「ここね、私の家。連れてきたことなかったよね」
ようやく振り返ったあさひが、いつものかわいい声で照れたように言いながら門を開ける。
なるほど、表札には安藤と書いてある。
お嬢さまだとは聞いていたが、ここまでとは。
いやしかし今はそれどころではない。
家だなんて、完全にあっちのテリトリーではないか。
僕の頭の中の危険信号が、さっきから大きくなっている。
躊躇している僕に気付いたのか。
「どうしたの? 修ちゃん。……帰る?」
そう言って、あさひが今にも泣き出しそうな顔をした。
ドキッとした。僕はあさひのこの顔に弱い。
僕はあせりつつ口を開いた。
「いや、帰らないよ。だからそんな顔しないでよ」
「そう……。よかった」
あさひはすぐににっこりと笑った。
しまった。さっきの顔はわざとか。
僕がどう反応するか、あさひは見越していたのか。
そうしてまたあさひについていくだけの僕は、部屋まで連れて行かれた。
あさひの部屋は、意外にも予想通りの女の子らしい部屋だった。
ぬいぐるみがたくさん飾ってあり、ピンクを基調とした可愛らしい部屋。
僕だって男である。
あさひの部屋にいつか行ってみたいという気持ちはあった。
けれどもこんな形で連れてこられても、どうにも構えてしまってそれどころではない。
「修ちゃん? レモンティーは嫌い?」
あさひが僕の目をのぞきこんで、小首をかしげる。
すぐ後ろにソファもあるのに正座して、出された紅茶も一口も飲まない僕である。確かに不自然だ。
けれど不自然だというならあさひのほうである。
さっきからまるっきり、いつもどおりのあさひなのだ。
透明な笑顔もそのまま。警戒している僕が馬鹿のようである。
もしかしたら、僕の勘違いだったのだろうか。
秘密なんて、実はやっぱり大したことなくて。
「いつか修ちゃんを、招待したかったんだぁ。なんだか夢みたい」
紅茶のカップを持ったあさひはそう言って、えへ、と照れたように笑う。
可愛い。どうしてこんな純粋な子を警戒する必要があったのか。
やっぱり僕の勘違いだったようだ。
「ごめん。僕、あさひのこと誤解してたみたいだ」
僕が正直に白状すると、あさひがちらと僕の様子を窺うようにこちらに視線をやってきた。
「……誤解?」
あさひがやけにゆっくりと、僕の言葉を復唱する。
その顔に、小さな笑み。瞬時に僕の背中を駆け抜ける、冷たい空気。
「誤解じゃないんじゃない?」
言いながら、かちゃ、と音を立ててあさひがカップを机に置く。
あさひの瞳の色が、僕をとらえる。
さっき帰り道で見たのと同じ、一度とらわれたら逃げだせないような深い色。収まりかけていた危険信号が、再び頭の中で大きく鳴り響き始める。
「学校の誰も知らないの。私の秘密。だから……」
あさひがそこまで言った瞬間、とん、と掌で肩を押されて。
あさひの表情にばかり気を取られて油断していた僕は、簡単に倒れこむようにしてソファに背中を預ける。
「修ちゃんにだけ、教えてあげるね?」
いつの間にか僕の至近距離にまで来ていたあさひが、にこりと笑う。
展開を理解できないまま、冷たい自分の汗を感じる。
僕は再び、生唾を飲み込んだ。