第三話 Desire~あさひの場合~〔4〕
知っているのは名前だけ。彼について、わかるのは名前だけ。
他には何も、なんにも知らない。
だけどすでに私の中で、その存在はすごく大きなものになっていた。
一度会っただけなのに。どうしてだか自分でもわからない。
しかも沢田くんは私を認識していないから、「会った」と言えるかどうかも怪しい。
友達未満。知り合い未満。せめてちゃんと出会いたかった。
でも同じ学校のはずなのに、いくら探してみても、あれ以来見かけることはなくて。
彼に出会って三日が経過し、彼に出会えないまま過ぎる日々に焦れていく。
まだ三日。だけどもう三日。私はすでに耐えられなくなっていた。
「ねぇ、なっちゃん。知り合いに沢田くんって居る?」
人に頼るのは嫌だったけど、もう打つ手はなくて。
三時間目の休み時間、私は思い切って頼みの綱のなっちゃんにそう問いかけた。
なっちゃんはその気さくな性格のせいか、すごく顔が広い。
だからなっちゃんなら知っているかもしれない、と思っていたんだけれど。
「沢田? 誰それ知らない。その人がどうかしたの?」
なっちゃんの口から出てきたのは、私の肩を落とさせるのには十分な返答だった。
「……、そっか。……ありがとうなっちゃん」
笑ってはみたものの、しおれた花みたいな私の声色。
なっちゃんはふとした顔で私を見た。
必死な私の気持ちを感じ取らざるを得なかったらしいなっちゃんは、にこりとして、ぽんと私の肩をたたいた。
「ちょっと待ってて。聞き込みしてみるから」
なっちゃんのそんな心強い言葉に、私は心底喜んだ。
それからさらに一日。首を長くして待った翌日、なっちゃんが調べた結果を報告してくれた。
「沢田って苗字の人、何人か居るみたい。下の名前は?」
そこでまた、上がり調子だった私の気持ちが落ちていく。
思い知る、彼と私の間の距離感。私――何も知らないんだ。
同じ学校に居るはずなのに。どうしていいのかわからなくて、私は悶々としていた。
だけどきっと、神様はみていたんだ。
その日、月一回の美術のための移動教室で、あまり行くことのないとなりの校舎を歩いていた廊下、そこで転機が訪れた。
前方の曲がり角を曲がっていく、男子生徒二人。
すぐに角の向こう側へと私の視界から外れて行ったけど、私はとっさに彼らを追った。
見たことのある顔だと思ったんだ。あの二人は、あの日、彼と一緒にいた――
追いついた私は、二人組のひとりの後ろ腕をつかんだ。
その拍子に、私の手から美術の教科書と絵の具が落ちて、床に散らばる。
でもそんなこと、かまってられなかった。
「あ……、安藤さん?」
腕をつかまれた男子生徒が私を認識して、そして焦った声を出した。
ずいぶん、目立っていたと思う。
でもその時私の頭の中には、沢田くんのことしかなかった。
一緒に行動してたってことは、もしかしたら――彼と同じクラスかもしれない、って。
あの優しい目をした、どうやっても頭から離れない人。
もう一度――会いたい。
「ねぇ、あなた何組?」
「ご、五組ですけど……」
私の問いかけに、なぜか若干頬を赤らめながら男子生徒が答える。
貴重な情報をやっと得ることができて、私の心は弾んだ。
拾ってくれた絵の具と教科書を受け取るのもそこそこにして、向かった美術室、すでにそこにいたなっちゃんをつかまえる。
次の休み時間、なっちゃんは私を隣校舎まで連れて行ってくれた。
五組は体育の前の休み時間だったらしく、すでに生徒たちはグラウンドでボールを蹴って遊んでいた。
そんな光景を窓から見下ろしながら、なっちゃんがその一部を指をさしながら言った。
「五組に、沢田は一人しかいないみたい。ほら、あいつ」
なっちゃんが、指差すその先に。
ひとりボールを追うでもなく、少しだけ塀に寄りかかって、遊んでいる生徒たちを穏やかに見守る人。
遠目でも、すぐに見つけた。すぐわかった。
瞬間、どきりと躍る私の心音――
視線を固定したまま、胸の上で手を握りしめた状態で、私は言葉に詰まった。
「ぜーん然、目立たないよねぇ。私も、まさかあいつは無いでしょと思って。探してる人じゃなかったんでしょ?」
なっちゃんのちょっとがっかりしたような声を半ば上の空状態で聞きながら、私は首を振った。
「違うのなっちゃん。違うの……」
「ああ、やっぱり?」
勘違いしているなっちゃんと会話が噛み合っていない。
だけど私にはちゃんと訂正する余裕はなくて。
「あの人、なの。やっと見つけた……」
ただそれだけつぶやいた私に、なっちゃんが面食らったような顔をしたのが視界の端っこに見えた。
沢田くん。沢田くん。
すごくかっこいいわけじゃない。
背が高いわけでも、目立つわけでもなくて。
だけど気づけば目で追ってて、そして願ってしまってた。
遠目でもわかる、繊細で優しい笑顔。
なんて途方もない願いだろう。もしかしたら……
もしかしたらあの人なら、そのままの私を受け止めてくれるかもしれない。
――“お前には失望したよ、あさひ”
条件反射のようにこだまする冷たい声、過去の痛み。
だめ。もう、本気で好きになっちゃいけない、絶対に。
またあんな痛い思いをするのは、もういや。だからもう二度と、誰も好きにならない。
いいじゃない、かたくなに心を閉ざして、本当の自分を隠して。
それしかない。こんな私には、そうするしかないんだ。