第二話 誘惑的彼女。〔6〕
平凡な一日はあっという間に過ぎていき、放課後を迎えることになった。
けれども今日の放課後は平凡には過ぎてくれないだろう。
約束が待っているのだ。今朝、萌さんの様子はおかしかったけれど。
だからこそ気になっていた。とりあえず約束は守るべきだ。
急いで鞄の中に荷物を詰めていたその時、教室の入り口から室内を観察しているつぶらな瞳を発見した。
春名先生。あまりこの教室を訪れることはないのに、どうしたのだろうか。
少し困ったようなまなざしをついに伏せて、先生は廊下に引っ込んだ。
とりあえず帰りの支度は中断して、僕は廊下に出る。
ちらほらと帰っていく生徒たちに紛れた、スーツの小柄な背中。
「どうしたんですか?」
しょぼくれた背中に声をかけるのは本日二度目だ。
今度は声で僕だと認識したのか、春名先生はスムーズに振り返った。
「体育倉庫の戸締り当番の子が、見つからないの。どうも帰っちゃったみたいで。でも別に、私が行けばいい話だしね」
倉庫のらしい鍵を指先で揺らしながら、先生が気丈に笑った。
懸命な笑顔は、無理しているのが見通せるようで。
なんだかかわいそうになってしまい、僕は無意識のうちに口を開いていた。
「僕が行ってきますよ。先生、忙しいでしょう」
僕の申し入れに驚いたのか、先生が丸い目をさらに丸くする。
そして気まずそうに目を伏せ、ためらいの表情を見せた。
「でも……」
さすがによろしくとは言いにくいらしく、先生の声が迷うように揺れる。
けれども生徒たちのいじめを見守ることしかできない僕に、できることはそれくらいしかないのだ。
黙っている先生の手から、半ば強引に鍵を奪う。
と、先生の頼りない瞳が迷いを帯びたまま僕を見た。
戸締りくらいならすぐに終わるだろうし、萌さんとの約束に支障はないだろう。
そんなやり取りを終えたその時、彼女は唐突にやってきた。
背中の小さな衝撃とともに、僕は少し前のめりになる。
「修ちゃんってば! また春名先生とふたりで、何話してるの?」
その台詞は、すでに僕の背中に抱きついた状態の彼女の口から出たものだ。
僕の、『変態的』元彼女。可憐なあさひの登場である。
いつも恥じらいを見せるのに、今日は珍しい登場の仕方だと思った。
あさひは今まで、人前で僕に抱きついたことなんてないのだが。
ポニーテールはやはり体育の時だけだったらしく、今は下ろされた茶色髪の毛先が首のあたりにあたってくすぐったい。背後から僕の背中に すり寄るようにしてじゃれつくあさひは、やはり猫的だ。
「あさひ。人が見るから」
少しだけ強い口調で制すると、あさひは素直に僕から離れた。
そして僕をじっと見上げて、僕の制服の裾を指先でつんと引く。
あさひのよくやるくせだ。そして僕が最も弱い仕草でもある。
「ごめんね? 修ちゃん。つい……」
あさひの控えめな声が、可愛らしく耳をくすぐる。
少しの恥じらいを混ぜた表情で はにかまれては、何度でも騙されてしまうのだ。
そんな僕たちのやり取りを黙って見つめていた先生だったが。
やがて、小動物的な瞳を伏せて、呟くように口を開いた。
「ごめんなさい、私、邪魔だね。彼女との時間、邪魔しちゃ悪いよね……」
「彼女じゃないです。別れたんですよ?」
僕に向けられていたはずの先生の言葉を、さらりと否定するあさひ。
さすがはマイペースなあさひである。自分の事情を隠しもしない。
驚いた様子の先生にも構わず、やや目を伏せたあさひが続ける。
「だけど頑張ってるんです。……もう一度、振り向いてもらいたいなって」
しんみりとしたあさひの声と同時に、雰囲気までもしんみりとしたものに変わる。
少しためらいがちにも聞こえる、控えめな言い方だった。
作っているわけじゃなく、まぎれもないあさひの本心なのだろう。
先生は一緒にしんみりとした後、気遣うようにそっとあさひの肩に手を置いた。
やはり教師である。生徒の弱った心には敏感なのだ。
「そう……、大丈夫よ。安藤さんなら、絶対。とっても可愛いもの。……ね、沢田君」
突然話を振られて、僕は慌てふためいた。
一応、張本人であるので、どんな表情をしていいかわからなかった僕である。
ここで悪びれもなく僕に振るなんて、まるで空気を読めていない。
春名先生は天然なのだろうか?
結局、そのあとも数分、あさひと先生は話していた。
今朝もそうだったが、女の子同士の会話に男はなかなか入り込めない。
そんな中、校内放送で春名先生が呼び出されてしまい、結局体育倉庫の戸締りは僕が請け負うことに。
ついてくると言ってきかないあさひと一緒に、僕は体育倉庫に向かった。
次話はR15です。次話投稿時、R15に変更します。
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