第二話 誘惑的彼女。〔5〕
僕が近くまで来たところでようやく、年上でも少女のように黒目がちでつぶらな瞳が、そろそろと僕を振り返る。
「これ、忘れ物です」
僕を認識した先生は、差し出された書類を見て。
意外なものでも見たように、丸く大きな目を数回瞬かせる。
続いて、萌さんほど長くはないがきれいにカールした細いまつ毛を上げて、春名先生はほっとしたように微笑んだ。
春名先生は笑う時、その頼りなげな瞳で懸命に笑む。
八重歯をのぞかせ愛くるしく笑うあさひ。
はっとするほどきれいに微笑む萌さん。
そんなふたりとはまた違って、春名先生のやんわりとした笑顔は、庇護欲をくすぐられるような可愛らしさがあった。
年上のはずなのに幼くも錯覚してしまいそうなその魅力。
結局は佐藤も、先生に惹かれているだけなのだろう。
「ありがとう。沢田君だけはいつも、優しいよね……」
「いえ、そんなことは……ないです」
書類を渡しながらも、気まずさに僕は目を伏せる。
男子生徒たちを止めてやれれば格好良いのかもしれない。
だけど僕はあくまでも「普通」の生徒の一員に過ぎない。
目立たない僕には、そんなことをする勇気も度胸もなかった。
だからこうして先生に感謝される理由なんてないのだ。
その場に短い沈黙が訪れた、その時。ふと廊下の向こう側から、
「修ちゃん!」
と、大きな声がはずんで僕を呼んだ。
視線をやってみると、そこにはあさひが。
ずいぶんと遠いのに、僕に気が付いたのだろうか。
一限目の始まりはもうすぐだ。今から体育らしく、体操着のあさひは今朝のクラスメイトの女の子と一緒だった。
こぼれそうなほどに満面の笑顔で、あさひは僕に手を振っている。
僕を見つけたのがよほどうれしかったのだろうか。
遠くの僕にアピールするように、時折ぴょこぴょこと飛び跳ねたりしては、照れたように はにかんで。
体育のために束ねたのか、頭のてっぺんのポニーテールが、あさひ本人と同じに元気に揺れていた。
遠目でも、あさひはそれはそれは可憐だった。
体操着の短パンからのびる、『美脚』と評判のすらりとした細い足。
細いだけじゃなく女らしくもある、抜群のスタイル。
その上、アイドルのような目を引く容姿だ。付き合っているときは、クラスの男たちから羨まれたものである。
体操着すらも着こなす、やはりあさひは『可愛い系』を代表する美少女だ。
「彼女なんでしょう? 噂、聞いてるよ。沢田君には、ぴったりだね」
遠慮がちに、先生がぽつりとこぼした。
あさひから先生に視線を戻してみると、なぜか切ないまなざしで、先生はぼんやりとあさひのいる方向を見ていた。
ぴったりなんて、お世辞だろうか?
普通の僕と美少女あさひ。釣り合わないのは周知の事実だ。
もしかしたら先生も美少女の部類に入るので、その辺は鈍感なのかもしれない。
あさひとはまたタイプの違う、『小動物系』を代表する、美女という年齢なのに美少女。
一瞬、別れたことを教えようかと思った。
けれどもそんなことを聞かされたところで、先生も気まずくて困るだけだろう。
あさひは疲れを知らないのか、まだ全力で僕に向かって手を振っていた。
やがてしびれを切らした様子のクラスメイトの女の子に、引きずられるようにしてあさひは連れて行かれてしまった。
見えなくなるあさひの姿。僕も教室に戻らなければ。
「戻りますね。もうすぐ一限目が始まるので」
春名先生にそう言って、元来た道を戻ることにした。
けれども背後の先生は、どうやら動く気配もなく。
背中に視線を感じるような気がして、数歩歩いたところで僕は振り返る。
すぐに、つぶらな瞳と目が合った。
「……春名先生?」
職員室にも戻らず突っ立ったままの先生に、僕は怪訝に問いかける。
と、はっとしたような先生は、その表情に焦りをにじませた。
確かな年齢は知らないが、新卒らしいのでおそらく二十代前半。
年の割に純粋すぎる彼女は、わかりやすすぎると常々思う。
「書類、ありがとう」
急いでそれだけ言ってから、春名先生がようやく僕に背を向けた。
今朝のあさひや萌さんのように駆けて行くわけではなく、あくまで廊下を静かに歩いて。
年の離れた『大人』のはずで、けれどもどこか頼りないその背中をしばし見送ってから、僕も教室に戻った。