第二話 誘惑的彼女。〔4〕
あさひと萌さんと登校してみたはいいものの、結局いつものごとく一人で校舎に入った僕は、やや急ぎ足で自分の教室に向かっていた。
今朝は寝坊してしまったから、ぎりぎりの到着だ。
友人数人と挨拶を交わし、急いで鞄の中身を片付け席に座る。
この間の席替えのくじ引きで、運悪く当たってしまった、一番前のこの席。
それでもホームルームの担任の話なんて聞き流す気満々の僕である。
今朝の萌さんの言葉の裏を、もう一度よく考えてみようと思っていた。
やはり心当たりがないのだが、僕は知らないうちに萌さんを傷つけるようなことを言ったのかもしれない。
しばらくしてからいつものごとく、教室のドアがスライドした。
退屈なホームルームの始まりだ。
ドアの向こう側から姿を現したのは、いつもの中年男性の担任――
ではなく、珍しいことに、今日は年若く新人の女性副担任だった。
彼女の姿を認識した生徒たちが、一気にしんと静まり返る。
国語担当、教師一年目の春名実希子先生。
男子生徒たちの話題には、いつも彼女が出現する。
高校生と言っても違和感のないほど、可愛らしすぎる童顔。
きっちりスーツを着ても、着られてしまっている感が否めない。
きっと制服を着て生徒に紛れ込んだら、彼女が教師だなんて誰も気が付かないだろう。
けれども彼女が男子生徒たちの話題に登場するのには、童顔以外にもう一つ理由があった。
「おはよう。……今日は担任の鈴木先生がいらっしゃらないから……、私がホームルームをします」
必要以上に張りつめたような表情で、春名先生は教卓の前に立った。
教室は、不自然なほどしんと静まり返ったまま。
こわばった表情で順番に名前を呼び、春名先生は出欠を確認する。
こちらまで緊張してしまいそうなたどたどしい声であった。
何かの均衡をぎりぎりで保っているような教室の空気の中、ついに春名先生は一番呼びたくなかったであろう生徒の名を、ためらいがちに口にした。
「佐藤くん。……佐藤誠司くん」
佐藤。いつも教室の中心でふざけて、教師に服装やらなんやらをよく注意されている男子生徒だ。
そしてこの男子生徒はいつも、春名先生に固執していた。
それは、今日も例外ではなかったようで。
にやにやとして立ち上がった佐藤が、ついに発言した。
「春名センセー、そろそろ薄着したらどうですか? そんなに着込んでちゃ、暑苦しいし」
ここまで生徒は皆返事するだけで黙っていたというのに、その一言をきっかけにしたように、男子生徒のほぼ全員が一気に色めき立つ。
女生徒たちはと言えば、やだー、なんて言っているだけだ。
ひそひそと笑ったり顔をしかめながらも、止めることもない。
保たれていた教室の均衡はあっけなく崩れ落ちた。
教卓の前に立ち尽くしたような春名先生は、泣きそうな目をして唇を引き結ぶ。
春名先生が男子生徒たちの話題に登場する理由。
それは彼女の体型にある。要は、『巨乳』なのだ。
童顔と対照的なその体型は、彼女にそのつもりがなくても男を引き付ける。
彼女もそれをわかっていて厚着したり、必死にかくそうとしているのだが、思春期真っ只中の男子生徒たちはごまかせない。
春名先生ももう少し強気にきっぱりと怒って見せればいいのだが。
小柄で可愛らしく、大人しそうな彼女には無理な話のようで。
それが生徒たちの態度を助長させている。
けれども無力な彼女を追い詰める生徒たちの態度は、教師いじめにも似ていた。
それを好ましく無いと思っていながら、僕には何もできない。
目立つタイプではない僕にとって、教卓はあまりにも遠すぎた。
まさに必死と言わんばかりに出欠の確認を終わらせて、春名先生は急いで教卓の上の書類を整える。
「それじゃ、ホームルームを終わりにします」
言いながら、彼女の足はすでに教室から逃げ出し始めていた。
余程慌てていたのか、彼女のいなくなった教卓の上に書類が忘れられている。
ざわざわと騒がしくなった教室の中、そんなことを気に留める生徒はいない。
一番前の席で、教卓にも近い僕である。
つまり、これを届けることができるのも僕だけである。
使命感に駆られた僕は、忘れ物の書類を手に取り廊下に出た。
しょぼくれたように歩いていく小柄な背中を、すぐに見つける。
「春名先生」
名前を呼ぶと、びくりと肩を揺らした先生の髪が揺れて、光を受け流す。
肩のあたりで切りそろえられ、さらりと自然な色をしたボブ。
その髪型は、小動物的な春名先生を可愛らしく見せていた。
先生は、生徒全員が佐藤のようなやつだと恐れているのかもしれない。
立ち止まったまま固まったように動かない背中に、僕はすぐに追いついた。
今日はもう一話更新予定です。
ぜひ、見に来てくださいね!