第1章 バカな猫
四階のバーの窓に雨粒がキラキラと光らなければ、リアは雨が降っていることさえ気づかなかっただろう。黒い壁に響くスムースジャズの音色、古き良き時代のレトロなロックポスター。その時代を知らなくとも、なぜか懐かしく感じた。湿った通りから時折聞こえる車の走行音が沈黙を満たし、マスターがグラスを磨く軽やかな音がこの夜の交響曲を形づくっていた。
「マスター」という言葉に初めて触れたのは、ずっと前のことだった。その響きにリアは背筋が震えた。
今ではその言葉にも慣れたが、口にするにはまだ抵抗があった。だから、バー・スペードに初めて来たとき、リアはマスターの名前を尋ねた。それから何年も経ち、友人となった今も、なぜ彼を愛情込めてこう呼ぶのか――
「ほうさん。」
「はい?」
「……別に。」彼女は間を置いた。「ただ、あなたの名前を口にしてみたかっただけ。」そう言って、ウィスキーのグラスをくるくる回しながら軽く微笑み、それをコースターに戻した。
「……別に。いつもと同じさ。」
彼女は肘をバーに置き、頭を乗せて腕を組んだ。マスターが笑った。
「どうした?」
優しく尋ねられ、リアはただ首を振り、腕から頭を上げようとしなかった。
マスターはいつもリアを見通していた。ここでは嘘をつかなくてもいい。でも、それでも彼女は少しだけ、彼が心配しないように振る舞った。そして、彼はそれでも心配した。静かな方法で。
「いつもそうだよな。急に悲しくなる。」
「わかってる。」
「もう、良くはならないんだろう?」
「たぶん。」
「もったいないな。」
「わかってる。」
「他のお客さんが来たら…」
「わかってる。でも、今は隠さなくてもいい。」
マスターはうなずき、グラス磨きを続けた。話さなくてもいい。ただ、そのそばにいるだけで、リアには十分だった。
彼はバー奥のノートパソコンの前に立ち、背を向けたまま音楽を切り替えた。
それは Hall & Oates の “Private Eyes”だった。
リアがこのバーに引かれた当初、彼女はオールディーズが好きだと思っていた。でも、そのとき彼女が知っていたのは “You Make My Dreams Come True” だけだった。年齢を考えれば、他のお客たちは彼女の音楽知識に感心していたが、ほうさんは知っていた。本当に知っていた。あれがリアが知る唯一の Hall & Oates の曲だと。以来、彼女の耳はそれ以上の素晴らしい音楽に開かれていった。
リアはいつも思う。彼が曲の意味を理解しているのかどうか――英語が得意とは言っていなかったが──それでも、彼女は微笑んだ。
その選曲に深い意味があろうとなかろうと、彼女にはそれが彼からの贈り物のように感じられた。
「もう一杯!」
リア朗らかにそう呼んだ。
他の場面なら、礼儀にうるさくするところだ。 でもここでは? オーナーはまるで父のようだった。もう形式に縛られることはなかった。
またマスターが笑った。「今日はどうしたんだ?」とグラスをカウンターに置きながら。
「何のこと?」と彼女は無邪気に答えたふりをした。
「何かあったのか?」と氷をグラスに落としながら、彼は再び訊いた。
「ただ疲れてるだけ。」彼女は軽く流した。
「仕事で?」
「人生で…」彼女は笑った――いつも、少し暗いことを口にしたあとにする笑い方で。
「それは良くないな。」と彼は言って、飲み物を差し出した。
「もしほうさんが作ったのなら、それでいいよ。」と彼女はグラスを上げて冗談めかした。
「そういう意味じゃないだろ。」
「わかってる。はい、乾杯!」と笑顔が戻り、グラスが触れ合った。
「こんばんは。」背後から聞き覚えのある声が響いた。リフトの光が閉まる扉とともに遠ざかっていく。
「いらっしゃい。」とマスターが言った。
バーでいちばん年季の入った常連、荒川さんだった。年齢は誰にも明かしていないが、よく「300歳くらい」と冗談めかして言うので、リアもそれに合わせていた。
いつものボトルはバーの端に置かれて、会話や裏メニューの注文とともに出されるものだが、今日は何も頼んでいないようだった。
「荒川さん、今日は遅かったですね。」リアは姿勢を正して言った。
「うん。他に用事があってな。」
彼は椅子にバッグを置き、いつもの道具を取り出した:スマホ、スタンド、イヤホン、ノート、タバコ、そして彼自身よりも古びたライター。ほうさんは奥から出てきて、荒川さんのボトルを取り、丸い黒いコースターとともに置いた。
リアはスマホで時間を確認し、ネットを見た。客と話すのは得意ではない。だけど、こんな日はマスターと一緒にいるだけで良かった。
「リア、乾杯。」遠くから荒川さんがグラスを上げた。
「乾杯。」リアも自分のグラスを上げた。思い出せばここに来たのは飲むためだったと。ウイスキーをゆっくり口にしながらスマホのゲームを続ける。彼女はゲームが好きだった。ビデオゲーム、ボードゲーム、カードゲーム、言葉のゲーム。どれも好きだった。だからこそ生徒たちにも好かれていた。でも、それだけでは慰めにはならなかった。一時的にはうれしいが、長い目で見れば満たされるものではなかった。
荒川さんはいつもの食べ物を注文し、リアは再び時間を確認した。バーはそろそろ閉まる時間だった。彼女は腕を組んでチェックを頼む合図を送り、ほうさんがオーブンを予熱してから、カードリーダーとともに請求書を持ってきた。リアは一気に飲み干し、古びたパスケースからクレジットカードを取り出してタップした。
「ありがとう。」とほうさんが支払いを完了して言った。「大丈夫か?」と、リアがスツールから滑り降りるときに、シャツについたパンくずを払うのを見て尋ねた。
「遠く行かないよ。」彼女はバッグを直しながら答えた。「コンビニ行って、それから家。」
「傘いるか? 後でまた降るかもしれないぞ。」
彼女は微笑んだ。「戻らせる口実でしょ?」
「取っとけよ。俺にゃ山ほどあるから。」と彼は肩をすくめた。
リアは一瞬迷ってからうなずいた。「ありがとう…パパ。」
彼は瞬きし、彼女は笑った。「冗談だよ!」
とは言ったものの、それは少し本当だった。
リアは椅子の後ろからリュックを取り、肩に掛け、スマホとパスケースをズボンのポケットにしまった。そして、スツールを元の位置に戻した。
彼女は荒川さんにおやすみを言い、キッチンへ戻ったほうさんに別れを告げた後、透明なビニール傘を取り、ため息をついてリフトのボタンを押した。
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少し雨が弱まっていたので、リアは傘を開かずに持ちながら、通路の細い角をぬって進んだ。バーから徒歩数分のコンビニの廊下。冷蔵庫のハムや飲料の低いブーンという音の中、彼女の視線は棚を流れ、やがて見覚えのあるものに留まった。
「戻ってきた!」と彼女は叫んだ。にんにく入り、チーズなしのチキン・アラビアータ弁当。何年ぶりだろう。自炊や他の商品も試したけれど、この心温まる味には及ばなかった。リアは泣き真似をしてカゴに入れた。「幸運、少しずつ戻ってきたかも」と思いながら、いつものチョコとスポーツ飲料を探した。翌朝に来るかもしれない頭痛に備えて。
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駅からアパートまで歩くといつも文句を言っていただろう。でも、バーでほうさんと話し、コンビニでチョコを買うことでワーク‑ホームの退屈さが和らいだ。たとえ身体には重さを持ち帰ることになっても、その代わり心が軽くなる気がした。
家の近くに公園があるが、雨で夜も遅かったので軽めの食事を持って寄る気にはなれなかった。彼女は足を少し早め、重くなった足を驚くほど引き上げて歩いた。
この辺りは街灯も少なく、さっきの賑やかな通りとは違い静かだった。多層ビルのネオンの下には人들이まだいたが、住宅地に入ると眠る街の様相で、犬の散歩人すら見かけなかった。リアは活気ある街と静かな町の境界をぼんやり想像しながら暗い路地を進んだ。足が靴の中で重く感じられ、コンクリートの道を引きずるように歩いた。踏切が近づくと、赤いランプが点滅し、木の柵に咲くユリの花が光で浮かび上がり、不気味な色合いを帯びた。警笛の響きが路地に響いていた。それはまるでリアを踏切へと呼んでいるかのようだった。アームが降りると、レールの上に白い物体が──猫がいた。ふわふわの白い猫が尾を揺らしながら線路の上に寝そべり、何ごともないようにこちらをじっと見つめていた。
二人の目が合った。リアは言った。「動いて。」
踏切の音が頻度を増し、リアの心拍が早くなった。「動いて!」と再び叫んだ。猫はただ尾を揺らすばかり。「列車が来る、バカ猫!」そう言って、買い物袋と傘を投げ、遮断バーを飛び越えた。三度目の「動いて!」と心の中で叫んだ。「このまま死ぬなら、マジで腹が立つな」と思いつつ、猫を抱えて踏切の反対側へ倒れ込んだ。
倒れたまま猫を抱え上げると、その頭に花で編まれたカチューシャがあることに気づいた。
「ピュアハート。」猫はそう言うと、前足をリアの胸に置いた。その瞬間、眩い白い光が辺りを包んだ。
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踏切の警笛と列車の汽笛は、スマホの朝アラーム音へと変わった。リアが目を覚ました。「夢…?」と思った。しかし、いつもの白い天井ではなかった。木の磨かれた匂いと、何か甘い──おそらく柑橘系の香りが漂っていた。彼女はゆっくり目を開け、頭をこすった。
「ここは…どこ?」とつぶやいた。「私のアパートじゃない。」
声がベッドの足元から聞こえた。
「君の新しいバーだよ。」
リアは固まった。その声を知っていた。
視線を下に向けると、豪奢なベルベットのクッションに寝そべり、尾をゆらしながら場所を支配しているふわふわの白猫がいた。昨夜、彼女が助けた猫だった。
「…ここは?」目を細めて尋ねた。
「君の新しいバーだ。」猫が淡々と言い放った。それが世界で最も普通のことのように。
「言ってることはわかる。でも意味が通じない。」リアは頭に手を当てた。こんな混乱、もう限界だった。「どうしてバーがあるの?」
「勝ったのさ。」猫は片手を舐めながら言った。
「…勝った?」リアの声がかすれた。「どうやって?」
「タトゥーとヒゲのある男たちとゲームをした。」
「ヤクザ相手にギャンブルしたの?!?」リアの声が一オクターブ跳ね上がった。
猫は首をかしげた。「ヤクザって何?」
リアの心臓が落ちた。「もし負けてたらどうなってたの?」
「ペットになれって言われた。」
リアは睨んだ。「正気?!」
「ペットになるのも悪くないよ。世話されるし。」猫は天気の話でもするかのように軽く言った。
「そういう意味で言ったんじゃないと思うけど!」
「でも、勝ったんだ。」猫は得意げに尾を揺らした。「だから関係ない。」
リアは顔を手に埋めた。「なんでバーが必要なの?」
猫の緑の目が光った。「それが君の夢だから。」
「私の…夢?」リアはきょとんと見返した。
「バーを開きたいんでしょ?」
リアは息が詰まった。「どうしてそれを知ってるの?」
「君の心を見たから。」猫はさらりと言った。「私たちは同じなんだよ。私も人を助けたい。だから一緒に助け合おう。」
リアの中で何かが壊れた。彼女は笑った――本音が漏れた、何週間ぶりかの笑い声だった。
「君って、本当にバカ猫だね。」
表情が変わった。「どうして私はここに?」
「魔法。」猫は得意げに笑った。
「何?」
「魔法さ。君がここにいる理由はそれだよ。私は妖精。君が眠っている間に、君と君の荷物を、ここに連れてきたんだ。私の名前はフェアリー。仲良くしよう。」
「頭おかしいよ。」リアは平らな声で言った。
「もう一つの可能性?」猫はヒゲをピクッと動かした。「君が猫と話してるってこと。」
「…それ、当たってるかも。」
リアは見渡した。見覚えのある荷物が木の床一面に散らばっていた――服も、ぬいぐるみも、読む予定だった漫画も。
「ここには住めない。家賃は?」
「家賃って誰?」フェアリーは首をかしげた。「彼、君の彼氏?」
リアの目が細くなり、猫を鋭く見返した。
「…私、アパートに戻らなきゃ。」
「もう空っぽだよ。全部移しておいた。」
「全部?」リアはその服の山を見て言った。「パンツまで?」
「花柄のヤツは可愛かったね。」猫は尾をくるっと巻いた。
リアの顔が真っ赤になった。「私の下着、触らないでよ!!」
フェアリーはベッドに飛び乗り、ブランケットの上で軽やかに着地した。そしてリアの目を見つめた。
「助けてくれるよね?」猫は柔らかく尋ねた。ほんの一瞬、人間のような眼差しだった。
リアは見返し、心臓が高鳴った。そして、長いため息とともに、リアは折れた。
「…助けるよ。」
見えず、聞こえずに、カウントダウンはすでに始まっていた――オープンまであと365日。