2.ムーンライトマイル
「ンニャー。
ご主人のオヤジさんは、長いこと働いてたじゃニャーか。
タップリ貯め込んでいるはずだから、それをもらえば万事解決ニャ」
膝の上のトラねこ、リンプーが気持ちよさそうに話してくる。
俺のモフリは、最高のはずだ。知らんけど。
「ねこのくせに、色々知っているんだな。
貯め込んでたお金は、姉貴が全部持って行っちゃったよ」
「ご主人。欲が無いですニャー」
「欲くらいは、あると思うぞ。
いや、あったというべきか。
でもこの歳にして、もう枯れちゃったのかなあ。ハハ」
「もう、枯れちゃったですか?」
「だから、欲はあると思うって。
ただ、俺って生きている価値があるのかなあとは、思ってしまうけどな」
「ご主人に価値があるのは、アタイにはよーくわかってるニャン。
欲が残っているのなら、新しい人生を始めてみる気は無いですか?」
「新しい人生?」
「今日の深夜12時に、この家の3階に異世界の門が開きます。
その門を通れば、ご主人は異世界に行くことが出来るニャ」
「異世界?
中世ヨーロッパ風の剣と魔法の世界とかか?」
「うーん、まあそんな感じの世界です」
「ウチは2階建てで3階は無いんだが、それは?」
「その時になれば、分かるニャ」
俺は、オタグッズを近所のお宝ショップ(中古屋)に売りに行った。
二束三文で買い叩かれたが、数が多かったので、そこそこの金額になった
とは言え、俺の青春がこれっぽっちのお金と消えちまった。
その金(全財産)で、100円ショップとコンビニに行って、異世界で役立ちそうな物を買いまくった。
登山用のリュックサックを物置の奥から発掘して、中に詰める。
兄貴も姉貴も、こういうガラクタは置いていってくれたので、助かる。
飼いねこに「異世界に行けますぜ、ダンナ」と言われて、全財産をつぎ込んでいそいそと異世界に行く準備を整える。
そんな奴がいたら、誰だって笑い飛ばすだろう。俺だってそうする。
そして、俺は今その笑われることに、一生懸命勤しんでいる。
俺ってやつは、昔からこうだ。
荒唐無稽な都市伝説を、すぐ信じてしまう。
よく、兄貴や姉貴にバカにされたもんだ。
でもリンプーが、トラねこなのに喋って、教えてくれたんだ。
今回は、本当に行けそうな気がする。
異世界転生モノのなろう小説を読んで、「俺も異世界で無双してーな」なんてことを本気で考えたりしたこともあった。
異世界に行くチャンスなんて、そうそう無い。
トラックにはねられて死ななくても行けるんなら、破格の条件だ。
俺は、自分に言い訳をしながら、ベッドに腰掛けて深夜12時を待った。
まあ異世界に行けなかったとしても、荷物の中身はサバイバルグッズが多いんだ。
公園ででも、河川敷ででも生きていけるはずだ。
ちょっとそういう事も考えて、キャンプ用品も揃えたのだ。
『ニャー』とねこの声がして、リンプーが部屋に入ってきた。
「覚悟は出来たかニャ?」
「ああ」
俺は、ずっしり重いリュックサックを背負って立ち上がる。
「アタイの言う事を信じてくれて嬉しいニャー。
さすが、アタイのご主人ニャ。
では、アタイ達の大冒険の始まり始まりー」
大冒険か。
そういや最近、ワクワクしたこと無かったな。
10年位前に、人気ゲームの発売前にワクワクして以来か。
異世界にはワクワクするようなことが、あったらいいな。
俺の部屋は2階だ。
リンプーについて部屋を出て、廊下を進む。
窓から、満月が見える。
俺は、これからあの月よりも遠い世界に旅立つのかな?
廊下の端、一階への階段の降り口の前、壁にかかった姿見の鏡が光っている。
何でこんな所に鏡が置いてあるのか、ずっと不思議だったんだ。
小さい頃いなくなったオフクロが、ここでお出かけ前のチェックしてたのかな、とか思ってたが、それなら2階じゃ無くて玄関前に置くべきだよな。
この日のためのモノだったのかな?
鏡の中をのぞき込むと、俺の姿が映るのではなく、上に登る階段が見える。
俺の住む家は物理的に、この位置に階段を設置することは出来ない。
この階段が実在するなら、空中にあることになる。
「ご主人、気を付けて。
その階段に一歩足を乗せた瞬間に、二度と今の世界には戻れなくなるニャ」
「分かっている」
そう言うと、俺は手を伸ばして鏡に触れてみる。
手がすり抜ける。
確かに鏡の向こうに行けるようだ。
用意したスニーカーを履く。
ちょっと恐る恐る、鏡の向こうに足を進める。
衝撃が…… 無い。
スッと通り抜けて階段の上に立つ。
物理的には無いはずの階段の上に。
振り返るが、俺の後ろは漆黒の闇だ。
入り口の鏡は、消えてしまったのか?
後戻りする気は無いから、関係ないが。
さらば、地球よ。
足元にリンプーがいる。
真っ暗闇の中、階段を登っていく。リンプーもついて来る。
後ろを見ると、何段か下の階段がスーッと消えていくのが見える。
本当に後戻りできないんだ。
もうここは、すでに異世界なんだろう。
2,30段登ると、目の前に立派な扉だ。
少し躊躇したが、俺はドアノブに手をかける。
「異世界に転移する時、今の肉体は原子の単位まで分解されて再構成されるニャ。
2度と、この世界に戻ってくることも、今の体に戻ることも出来ないニャ。
それだけは、しっかり覚悟しておくニャ」
「残念だけど、俺。
この世界に、全く未練が無いんだ。
二度と戻れないと言われても、別に寂しくも悲しくも無いんだ」
「ご主人の心の声が、ちっとも悲しんでいないニャン。
普通ならこの局面で、涙の一滴もこぼすところニャのに。
さすがは、30才で魔法使いになる男だニャー」
「余計なお世話だ!
どうせなら、金髪で目がエメラルドグリーンの超イケメン美少年に生まれ変われたら、最強の勝ち組人生を送れるだろうけどな。
なんせ、俺って典型的な日本人顔で、全くモテなかったしな」
「アタイは、ご主人が心の底から笑ってくれるなら、ブ男でもイケメンでもなんでもいいニャ」
「俺、さっきから何度か、笑ってる気がするけど」
「心の、そ、こ、か、ら」
俺の笑い顔は、そんなに表層的かな?
かも知れないな。
心が石のように硬かったのが、リンプーの言葉で少しほぐれた気がした。
俺のことをそんな風に、気にしてくれる言葉を聞くなんて、いつ以来だろう。




