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朱の椀のはなし

作者: 髙田ランド

 あれは引っ越しの前日、食器棚にとりかかっていた。たくさんの色とりどりの器。ぼってりと重い土の鉢。美しくカットされたガラスの大皿。亡くなった母が残してくれたものだからと、捨てないでおいた様々な使わない食器たち。3.11の揺れで棚からあふれ出ても割れなかった品ばかりだけど、なんだかもう身軽になりたくて処分用の箱に移していた。

 もう、息子と私の、親子二人分だけの食器だけにしようと思った。あの日、疲れて家に帰ると震災から遠く離れた東京なのに、ペンシルビルのマンション上階の私たちの部屋には、床に落ちたレンジやテレビ、破片になったグラスが散らばっていた。

 カトラリー、箸、木椀、茶碗、皿など、すべて二人分だけにして、あとは捨てる。来客用のものは、すべて処分することにした。来客が絶えなかった実家の食器類は二人暮らしにはそぐわない、華やかで扱いの難しいものばかりだったから。


 ようやく整理がつき始め、棚の奥を見ると、白い箱が入っていた。

「あれ?こんな箱?」

知っているような。初めて見るような、美しい正方形の白い箱を開けると、シュっと息を吞んだ。そこには、朱塗りの地に真っ白な椿を描いた塗椀が入っていた。あの日。大震災の日に、欠けて捨てた赤い椀。揃いの蓋も入っている。確かに記憶がある。正月に息子の木地の塗椀と対で使っていた椀だったから。

「どうして」

箱から取り出すと、傷一つない。一度として水をくぐらせたことがないかのように鮮やかでつややかなままの姿だった。確かあの日、観音開きの食器棚から落ちて、重い水盤の花器の下敷きになり欠けていた朱塗りの椿の椀。仕事でのいただきものだったが、柄がいいので雑煮などの祝い事に使っていた気に入りの品だから、震災の疲れも相まって、とても悲しかったことを覚えている。


 なぜ、この器が残っているのか、見当もつかない。いただいたときのまま、丁寧に薄紙で包まれて、ぴたりとこの箱に収まっていたが、欠けた器を取っておくような趣味はない。なんだか、頭の片隅が痛んだ。忘れたくても思い出せないような、時間がねじれた状態を見せられたような奇妙な感覚だった。わからない。記憶の中に、なんどもなんども欠けた器の破片の姿がよみがえるのに、自分の手のひらの中には、完全な姿をした椀が収まっている。きっと、勘違いだ。欠けてなんていなくて、あの日のショックで記憶が混乱しているに違いない。割れたものが完全に戻るなんて、傷もないなんてあり得ない。


そして私は、その器を箱に収めて、その部屋から引っ越した。


 新しい部屋に移り、私はその椀を日常使いすることにした。年に一度、雑煮椀として使うより、

きれいなものを日常で使う方が気分がいい。けれど手にするたび、あの欠けの記憶がよみがえる。



 ある日シンクで大鉢を洗っていると、うっかりと手が滑って取り落とした。慌てて持ち上げるとその下には、欠けた朱塗りの椀があった。そう。それはあの日と同じ、記憶の中でなんども蘇った欠けと同じ位置、同じ形で割れていた。そのとき、なぜかこう考えた。

「どんなに時間が巻き戻っても、運命を変えることはできないんだ」と。

なぜ、そう感じるのか。なぜそうだと「わかるのか」。それを説明することはできない。けれど、私のどこかに、あの朱の椀が震災の日に割れたのは記憶違いなどではないという確信があった。同時に、自分では思い出すことはできないけれど、忘れることもまたできない、いまとは違う、別のもう一つの時間が存在していると思った。あの朱の椀は、その時間の側にあったものだ。


なぜだろう。私はそのことを知っている。


                             おしまい。







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