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結局、あれから作曲は何も進まなかった。
朝起きると、アンナが心配そうにしていたが、何も聞いてこなかった。アンナの手助けを得ながら着替えをする。ふと鏡に映った自分が歪んで見えた。
(あなたはいったい誰なの)
その問いに答える者はいない。
簡単に朝食をすまし、教会へ向かう。道中、馬車の中でアンナは何か言いたそうにしていたが、結局何も聞かれることはなく、教会へとついた。
教会に入ると、聖歌隊のメンバーがおはようと、挨拶する。私はいつも通り微笑んで挨拶を交わす。
メンバーがそろったところで発声練習から始まり、シスターから教わった4曲を練習する。出港式後に教わった曲は私が混声4部に書き直したものだ。
もともと人数の少ない男声がテノール、残り女声ををソプラノ、メゾ、アルトの3つに分けた。ソプラノのパートリーダーをマリアに、メゾとアルトのパートをマリアの友人二人に割り振った。
聖歌隊は日に日にうまくなり、最初の面影はどこにも見当たらない。幸運なことにも、人数が少ないからか、きちんとお給料も支払えている。
その現状に、もう私はいらないんじゃないかとさえ思うほどだ。
(姫野唄でない私は、本当に歌手として、作曲家としての価値があるのかしら)
バンと何が大きな物音がして、音のほうを見てみると、マリアが合唱台を蹴ったのだと分かる。
「ラウタ様、いい加減にしていただけませんこと? やる気がないなら出て行ってくださいませ」
マリアはきつく私をにらみつけて言った。友人である二人がマリアをなだめるものの、マリアの視線は変わらない。
「そうね、少し外の風を浴びてくるわ」
私はそういって立ち上がる。マリアの顔が少し慌てたのが見えたが、正直構ってられなかった。教会の裏口から外へでて、誰にも追いかけられないようにと、素早く扉を閉めた。
教会の裏口はちょっとした畑になっている。
その畑では一人の少女が作業していた。その少女は顔周りに土をつけて、懸命に雑草を抜いていた。
なんとなくその姿をみつめていると、私に気づいたのか、大きな瞳を目いっぱいに開いた後、慌てて頭を下げた。
「し、失礼いたしました、ラウタお嬢様」
「気にしないで、私が勝手に入ってたのだから」
そういうと私は近くのベンチに座り、丁寧に耕された畑を眺める。
マリアが怒るのももっともだ。ここ最近は聖歌隊でも上の空が続いている。昨日もマリアに注意されたばかりだというのに、これでは怒られて当然だろう。
(私より、聖歌隊を取り仕切るのはマリア様のほうが向いているのね。私は身を引いた方がいいわ)
マリアは隅々まで気が利くし、私より聖歌隊メンバー全員と仲が良い。私よりよっぽどみんなからの信頼は厚いだろう。
「あの、何か悩み事ですか?」
私がハッと顔を上げると、少女の顔が目の前にあった。
あまりの近さに驚いたのか、少女は顔を赤く染めて、ぼそぼそと小さな声で言った。
「ごめんなさい、何か、悲しそうな顔をされていたので………」
「悲しそう?」
私がそう聞き返すと、少女はえぇとても、と返した。
その言葉に私は思わず自嘲気味に言った。
「悲しい顔だなんて、私がするのは間違っているわ」
そう、私に悲しむ権利なんてない。だって見捨てたのは私じゃないか。
自分の利益のために、ろくな努力もせず、命の大切さを忘れたのは私。
そんな私に悲しむことなんて許されないだろう。
でも、少女はそんな私の考えを真っ向から否定した。
「いいえ、感情に正解も不正解もありません。感情とはとめどなく、あふれるものですもの」
そう少女はしっかりとした声で言った。
しっかりと私の目を見据えたその顔はとても凛々しく映る。
「我慢できるものじゃないということ?」
「我慢すべきものではないのですよ」
そういうと、まるで子供に言い聞かすかのようにやさしく微笑んだ。そして続けた。
「感情とはコントロールできるものではありません。感情に対して私たちができることは向き合うことだけです」
その言葉に、ふと、地球での出来事を思い出した。
それは高校の合唱部の県大会だった。私は高校の合唱部の助っ人として臨時的に大会に出場した。唄が入れば絶対優勝できるなんて言われていたのに、結果は入賞すらできなかった。大会終了後、悔しくて悲しくて、でも自分の力不足で負けたのだ、そんな感情を持つのは間違いだと思っていた。
そんな感情にぐるぐると取り込まれそうになったときに声をかけてくれたのが、大親友の沙良だった。
『そんなの我慢するだけ無駄よ。感情とは我慢するものじゃないもの。大事なのは、その感情に対して、今後どう行動していくか。悲しみにおぼれて自分を見失うなんてただの愚か者よ』
(ばかね、私何も成長してないじゃない)
私はまだ、沙良の言う通り愚か者だ。
私は自分の情けなさに思わず笑ってしまった。
急に私が笑い出したので少女は不思議そうに私の顔を覗き込む。
「昔、同じようなことを親友に言われたのを思い出したの」
私がそういうと、少女はなぜかとてもうれしそうに微笑んだ。今度は私が不思議に首をかしげる。
「奇遇ですね、私も昔親友に似たようなことを言いましたよ」
彼女の笑顔はとても優しかった。きっとその友人は少女にとても大切にされているのだろう。なんだか、急に沙良が恋しくなる。
(もう何年もあってないのに、もう会えないと分かっている。でも沙良に会いたい)
でもきっと、こんな情けない姿を沙良が見たら幻滅するだろう。大きくため息をついて叱られるのだ。
地球では気づかなかったけれど、沙良はいつでも私を叱って、私を導いてくれた。きっと沙良がいなかったら私は地球で成功なんてできなかった。
沙良がいないと成功できないなんて、ちゃんと歩めないなんて、そんな情けないこと言えない。
私は気合を入れて両の頬を自分の手でたたいた。
(私は姫野唄であり、ラウタ・グリーンよ。そして、地球の姫野唄でもなく、小説のラウタ・グリーンでもないのよ)
「もう同じ過ちは繰り返さないわ」
私がそういうと、少女はそれはよかったです、と立ち上がり畑仕事に戻る。
(そういえば、もう何か月も教会に通っているけれど見たことない子ね)
「あなた名前は?」
「私ですか? 私の名前はリサです。孤児なので苗字はありません」
その名前は前世で散々耳にした、ヒロインの名だった。
お読みいただきありがとうございます。
今回はちょっと短めですが、ようやくヒロインのお出ましです。