9.5
先日、娘のラウタが目を覚ました。
もう二度と見ることができないと思っていた。もう二度と娘と食卓を囲むことなんてできないと思っていた。もう二度と訪れないと思っていた日常は、先日まるで奇跡のように舞い戻ってきた。
しかし、眠りから覚めた娘はどこかおかしかった。10才とは思えない所作、教えていないはずのテーブルマナー、そして、謎の言語を使いこなして歌う姿。まるで、10歳のラウタではない誰かが乗り移ったようだ。
妻はそれを気にしていたようだ。女性の方が、そういうことには機敏に反応してしまうのかもしれない。
(別にいいじゃないか、ラウタが目覚めたのならなんだって)
そう思いながら、書斎の机に向かって書類を片づけていると、ノックもなしに入ってきたのは愛娘だった。
メイドもつけずに急いできたのだろう、ところどころ見せる子供らしさに安心すらする。
(ほら、どう見てもラウタじゃないか。僕のたった一人の愛しい子)
しかし、その愛娘の口からエリック殿下という名前を聞き、思わず顔をしかめる。
この子はまだエリック殿下と会ったことはないはずだ。それに、同い年のジェラード王子のほうを気に入っていた。
「………まだ、王族に興味を持つには早すぎだなぁ」
そういうと、娘は子供らしく頬を膨らませて怒った。
何やらグリーン家がどうとか言っていたが、僕は娘が頬をいっぱいに膨らましている姿がリスのようで愛らしいなぁと、思っていた。
「ラウタは、エリック王子に会いたいのかい?」
そう尋ねると、娘はお菓子をおいて言った。
「お父様、私はいつでも王族に仕える覚悟はできています。ただ、願わくば、地位もお金も捨てて国民を守れるような、そんな国王に仕えたいですわ」
キラキラと光る浅瀬の海のような青い瞳がしっかりと僕をとらえる。すっかりと短くなってしまった銀髪が、エリック殿下の面影と重なる。
『私は地位もお金も捨てて国民を守れるような、そんな国王になりたい』
いつだったか、現国王の前で、周りは敵だらけの小さな子供がそう同じことを言った。
その時僕は決めたのだ、この人に仕えるのだと。
そして時を越えて、その時の子供と同じ年になった愛娘が同じことを言った。
(なんて美しい偶然だろう)
*~*~*~*~
愛娘が部屋から去ると、僕は妻の部屋に向かった。
妻は窓際に座ってこれから春が来て暖かくなるというのに、毛糸のマフラーを編んでいた。
「もう春になるのにマフラーかい?」
妻に近寄ってその長い黒髪を一房救い上げて口づける。その行為だけで胸いっぱいに愛おしい気持ちがあふれる。
「あんなに髪が短くては首を冷やしてしまうわ」
そういうと妻はまだ5cm程度のマフラーをなでる。
「きっとマフラーが必要になるころには、髪もだいぶ伸びているさ」
妻の横に腰かけると、妻は当たり前のようにこちらに寄りかかってすべてを預けてくれる。
きっと貴族として苦労していることも多いだろう。特にラウタのこと、世継ぎのことは、彼女の方が矢面にさらされがちだ。
(女性のお茶会にまでは守りに行ってやれないからなぁ)
女性だけの付き合いというのも考え物だ。彼女を傷つけるものは誰だろうと排除してもかまわないとすら思っているが、彼女は決してそれを良しとしない。
「さっき、ラウタが僕の部屋に来たよ」
母親として、今のラウタとうまく接することができない負い目でもあるのだろう、妻の息をのむ音が聞こえた。
「ラウタが、エリック殿下とおなじことを言ったんだ。ちょうどエリック殿下がラウタぐらいの歳だった時に言った言葉と、同じことを。なんて美しい偶然だろうね」
僕がそういうと、妻は静かに首を振った。
「いいえ、きっと偶然なんかではないわ。まだおなかにいるときにラウタに触れたのは、グリーン家を除けばエリック殿下だけですもの」
妻はそういうと、なぜか愛おしそうに自身のおなかをなでた。
きっとまだラウタがおなかにいた時のことを思い返しているのだろう。妻はラウタを生んだ時に、生死をさまよったトラウマを乗り越えたのだ、でなければきっとこんなに優しい表情はできない。
いつまでも過去にとらわれているのは僕の方だ。
「ライナー、きっともうあの子は子供ではなくなってしまったのね」
どこかさみしそうな妻の顔をみて、胸がぎゅっとする。慰めるように彼女の額にキスをした。
どれだけ歳をとっても愛おしい妻との、たった一人の愛しい子。
彼女が笑うだけで世界が救われた気がした。彼女がいるだけで世界は明るかった。
多くの貴族は愛娘を罵倒する。世継ぎがどうだの、なんと目障りな奴らだと、何度も思った。
そんな中、エリック殿下だけは娘の存在を認めてくれた。王宮に出向くと必ず娘は元気かと聞いてくれた。
「ラウタはエリック殿下を救えるだろうか」
私たちは知っている、国民すべてを愛せる王子が、与えるばかりで誰からも愛してもらえないことを。
ラウタはエリック殿下を変えられるだろうか、淡々と死を受け入れようと、それが民のためだと勘違いしている彼を、目覚めさせることができるだろうか。
今朝、ラウタが何を歌ったのかはわからなかったが、ただひたすらに希望だけが伝わってくる、あの感覚。またラウタが起きないのではないかと、この屋敷の全員が夜におびえていた。でもその不安を蹴飛ばしてくれたあの歌。
「わからないけれど、でも今朝の歌はラウタの決意表明に聞こえたの。なんて言っているかは分からなかったけれど、でも、すべての絶望を蹴飛ばして、やってやるわって言っているように聞こえたわ」
彼女らしいわね、と妻は笑った。
「大丈夫よ、ライナー。私たちにできるのはあの子たちにいつでも救いの手を貸してあげること。そのためにあなたはたくさん種をまいてきたでしょう」
妻は私の手を握る。妻の手から伝わる温かさにはいくつになっても弱い。
「僕は不安なんだ。エリック殿下はこのまま生きることを諦めてしまわないだろうか。僕たちがちゃんと言葉にしてやれないからと、彼は勘違いしないだろうか、自分が死んだ方がましだなんてそんな」
「ライナー」
妻が僕の名前を呼んで両手で僕の頬を挟んだ。
「今はラウタに委ねましょう。私たちのたった一人の天使に」
ラウタよりずっと深い海のような青い瞳が僕をしっかりと僕をとらえる。
(あぁ、やっぱり親子だなぁ)
僕はいくつになってもこの海に恋をしているのだ。思わず口元がゆるむ。
「あぁ、そうだね。僕たちの天使に」
お読みいただきありがとうございます。
お父さん視点の番外編でした。