9.犯人はお前だ
数文追記
男は我慢の限界だった。膨れ上がり続ける欲求を我慢し続けてきたが、しかしもうはち切れそうだ。空気を入れ続け限界まで膨らんだ風船のように、肥大化した欲望は破裂寸前でいつ正気を失ってもおかしくない。
初めて人を殺してからまだ数日すら経っていないというのに、いったいこれはどうしたことだというのだろう。湧き出し続ける温泉の流出を止められないように、掘り当ててしまった欲望は彼自身でも歯止めが利かない。
わけがわからない、どうして自分はこんなにも人を殺したいと願うのか。人の血を、浴びるほど飲んでみたいと願うのか。吸血鬼でもあるまいに、人の生き血を飲まなければ生きていけないというわけでもあるまいに、だが現実に自分は吸血鬼のような吸血衝動に苛まれている。
自分の心身に起きたあまりにも唐突の変化に疑問がないわけではなかったが、しかし激しい衝動の前にその疑問はたちまちかき消されてしまう。
そう、今重要なのはそこではない。重要なのは今、彼自身がその衝動を抑えきれなくなっているほど高ぶっているということであり、その衝動を耐えるのも限界が近いということ。
つまり、彼は今猛烈に誰かを殺したくなっている。
人を殺したいという欲求を、もはや抑えておくことなど出来はしない。ああそもそも、なぜ今の今までこの衝動を抑えようなどと思っていたのだろうかとさえ思ってしまう。
耐える意味などないはずだ。我慢は大切なことで、それはこの世を生きる人々皆が知っている事実だが、しかし我慢が必ずしも幸福を呼んでくれるわけではないこともまた真実なのだ。我慢を重ねたせいで心を病んだ者もいれば、我慢をし過ぎたせいで自ら命を絶つ者もいる。我慢を辞め、心を開放さえしてしまえばそのような末路に落ちる必要もなかったというのに。
特別機動係への警戒心? ああ、そうだな、その通り。彼らに勘付かれてしまっては、今の自分では生き残ることさえ難しいだろうから。そう、そのはず、そのはずだ……。
「行く、かあ」
だが、人間の内に湧き出し続ける欲求を我慢したままにしておくことは、目の前で湧き出している石油の泉に蓋をすることに等しい難事である。可能か不可能かどうかではなく、出来ないしたくないこと。それを我慢できる超越的な精神力など彼には備わっていなかったし、そんなものを備えている人間なんてこの地上に何人いるのかという話だ。
石油が目の前に沸いていれば、誰もがそれを確保しようと動くだろう。無防備な獲物が目の前に転がっていれば、どんな獅子でも食らいつくだろう。
欲望を開放するということ。それはあらゆる生命に備えられている平等な権利の一つなのだ。
よって当然、彼にも我慢の限界が来た。
命という獲物を奪うために、彼は外へ出て――。
「――はーい、ちょっとお時間よろしいですかー?」
外に出た瞬間、チャキリと何かを頭の横に突きつけられながら、女に声をかけられる。男が視線を横に向けると、そこには特殊裁定銃とそれを構える薫流の姿があった。
男は混乱する。何故、どうして、自分はまだ何もしていないのに――。
だが警察は甘くないということだろう。犯罪者一人を見つけることなど造作もないと言うかのように、彼らはそこに立っていた。
「いきなり銃口を向けるのか、やり口が早いな」
「口だけにって? 薫流ちゃんまどろっこしいのは嫌いなんだよね。目の前に壁があるならトラックに乗ればいいと思うんだよ、私」
目的地が壁の向こうにあるのなら道ごと壁を轢き潰すのが一番早い。
「犯人はぁぁ~~~……お前だ! 潔く自首する? しない? 薫流ちゃん的にはどっちでも良いよ。どっちにしろ殺すから」
いきなりのことにポカンとしていた男――――火純と薫流の二人に話をした、被害者と加害者共通の友人である参考人の男は、数秒遅れてようやく現状に驚いた。
何となく人を殺したいなという我慢の限界が来て、外に出たらいきなり犯人扱いされて、そして殺害宣告だ。何が何だかわからない。
ともかく、否定しなければ殺されてしまうのは確かなのだろう。この女は本気で自分を殺す気なのだということが、彼にはわかったから。
「や、やだなあ刑事さん。いった何の根拠があってそんなことを」
「しらばっくれても駄目です。君が保有している異能を使って人を殺したのはズルズルっとお見通しなの。後は君がそれを認めれば、晴れて君は私に処刑されます。はいだから認めてさあ早く薫流ちゃんは早く帰って飲みに行きたい」
「日本警察が腐敗した真実の一端を見た気がするよ俺は」
そう言いながら、火純も彼女を止める気配はない。つまり、彼が犯人で異論はないということだろうか。
薫流の背後に立ちながら、彼は興味のなさそうな目で男を見つめていた。
「こ、根拠は何だっていうんですか。あんたらが俺を疑うのは勝手だが、ちゃんとそれなりに根拠ってもんを見せてくれないとこっちも引っ込みがつかない。名誉の毀損ってやつですよねえ!」
昼涯が殺された時刻、彼は家の中にいた。アリバイを証明してくれる人物はいないが、逆にそれを嘘だと言える者もいない。
どうやって、そんな自分が昼涯を殺せたと言うのだ。
「根拠……? 仕方ない、だったら話してあげますか。――説明してあげな藤咲!」
「俺かよ」
先輩に丸投げされた火純は、渋々彼女の代わりに話し始める。今回の犯行に使用された異能の正体、それは――。
***
「俺がまず疑問を持ったのは、殺害現場の部屋に入った瞬間だったな」
犯人へと詰問しに行く前、異能犯罪対策に話し合っていた時。火純は自分が掴んだ能力の正体について説明しようとしていた。
それは彼らが被害者が殺されたとされる、被害者の自室に足を踏み入れた瞬間のことだった。火純が、その違和を感じ取ったのは。
「正直に言うと、俺もはっきりと確信出来ていたわけではない。手がかりの一つかもしれないとは思いつつも、では具体的にそれがどう繋がっていくのかまでは絞り切れていなかった。ついさっきのことだ、それが解消されたのは」
無が銃殺ではないと断言した時、ようやく彼は確信を持てたのだ。
「これは写真からではどうしたって得られない情報だからな。お前たちがこの太陽と同じ視点まで到達出来なかったとしても、それは仕方のないことだ……太陽とは世界で最も輝くもの。俺の目は、鼻は誤魔化せない」
「ならその情報とやらをさっさと言え」
「ふふ、急くな急くな」
部屋の中央に、被害者が発見された時の写真が表示される。一見死体がある以外には異常は見当たらない写真だが、それもそのはず。彼が感じ取った違和感は、そもそも見えるものではなかったからだ。
異能の痕跡は必ずしも目で見えるわけではないと言われた通り、それもまた目では見えないものだった。
本来ならばそれも報告しなければならなかったのだろうが、彼がそれを報告しなかったのは――…………。
「匂い、だ」
「匂い? ……ああ、なるほどねえ」
狛摩は察しがついたのか、一人頷いていた。続いて魅波、蓮慈も何かに納得したような表情になっていく。
それは一体どういうことなのか、彼らは何を納得したのか。銃弾ではないが、確かにその体を貫いているもの。その正体を探るにはまず、匂いの正体についてはっきりとさせておくべきだろう。
「俺が感じたのは甘い匂いだった。感覚が常人よりも鋭い特殊能力者でなければ気づけないような薄い匂いだったが、その割にはやけに他の匂いよりもはっきりと印象に残る匂いだったよ」
薄い、薄い匂いだった。普通の人間ではまず気づけないほどにそれは薄まっていた。いや、匂いなんてものは基本的にすぐ消えて無くなってしまうもので、犬でもない限りはその残滓を嗅ぎ分けることなど普通は出来ない。
彼が異能力者であったから、嗅覚にほんの僅か触っただけのこと。しかし薄まっているにしては他の匂いとはっきり区別できる匂いだったので、火純はそれが気になったのだ。
気になった彼が探したのは、冷蔵庫や戸棚の中、主にキッチンの周辺だ。しかし、そこに菓子や甘味の類は入っていなかった。
「つまりこの男は、甘いものが好きではなかったか、もしくはその時甘いものを切らしていたか、そのどちらかだということになる」
「そうですね、好きな食べ物は激辛系だったらしいです」
ほうら、やっぱり個人情報は必要だったでしょう?
そう言わんばかりの無のドヤ顔を無視して、火純の話は進行していく。
「こいつは甘いものを得意としていなかった、なのになぜ血の鉄臭さが色濃く残っている現場で甘い匂いがしたのか。それは、その匂いが犯人の異能に関係していたからだと考えられる」
部屋に少しだけあった香水も、彼が感じた匂いのものとは別物だった。ゆえに、匂いの元は異能にあるのではないかと考えたのだ。
ここまで辿り着けたのならば、相手の異能力が何であるのか掴むのは難しい話ではないだろう。そして、ここに辿り着くのに必要だった最後のピースは無が教えてくれた。
銃弾ではないというその話で、被害者を傷つけたモノの察しはつき、よって、彼は既に異能を推察し終えていたのだ。
「犯行の手口は、恐らく透明人間と同じだな。後ろにぴったりとくっついて、まんまと屋内まで侵入。そこで被害者を殺害し、あとは能力を消せばいい。それで証拠はすべて消え去り、後には完全密室という状況だけが出来上がる」
犯人はどうやって密室の中に入ったか、それは被害者本人に直接くっついていたからだ。
犯人はどうやって密室の中から出られたのか、それは部屋の中にいたのは能力だけだったからだ。
「銃弾のような大きさで、被害者の体にくっつくことが出来、移動も可能で、ミツのような甘い匂いを持つ能力」
それはすなわち――。
***
「お前の異能は、“蜂を操る”ことだろう」
それが火純の結論した、犯人の異能だった。
「大したものだな。たかが虫ごときの攻撃を銃撃と見せかける程度の威力、獰猛な性質を持つ蜂だからこそなのか、貴様の中にある攻撃性が形となったからなのか。そんなことはどうだっていいが、まさかその程度で隠し通せると思ったのか? 太陽の光は、常に万物万民万象を遍く照らし続けている。貴様程度のちゃちな罪で、この俺を欺くことなど「そういうわけだから、君の異能はもう全部バレてるの。大人しく投降しない? 悪いようにはするけど、出来るだけ楽に殺してあげるよ」ええい俺がまだ話しているだろうが! 雲かお前は……!」
二人はどうやら男が犯人であると確信しているらしく、ここから逃がしてくれる気配は微塵もない。しかし、男も黙ったままではいられなかった。
ここで素直に認めてしまえば、二人は間違いなくその引き金を引くだろう。大人しく殺されるような根性を彼は持っていなかったし、こんな状況に追いやられてしまえば誰だって抵抗の一つや二つは見せるものだ。
「蜂? 何のことだ、俺は根拠を、証拠を見せろと言っているんだ!」
異能についていくら解明しようと、男が能力を使わない限りそれは証拠にはならない。確たる証拠は未だ無く、それを提示しないことには誰も自分が犯人だなんて認めない。
「そもそもいつから、俺が犯人だなんて……!」
疑っていたのかと、そう聞こうとして。
「え、そんなの最初に話を聞いた時だけど」
「なっ……」
最初に会った時から、もう自分は彼女に疑われていた。つまり、彼ら特別機動係のすべきことは異能を解き明かすことだけだったのだ。本当に後はそれだけであり、犯人がどこに隠れているのか、その当たりを彼女は既に付けていたのだから。
「今度はお前が説明しろ。俺にばかり説明させるな」
「仕方ないなぁ。それじゃあ、パパッと間抜けな犯人さんに説明してあげましょう――ま、刑事の勘ってやつなんだけどね。知らない? 刑事の勘。これ義務教育レベルの話だと思うんだけど。名探偵が推理するより、刑事が勘で犯人を当てる方が速いよね」
「どこの教科書にも載ってねえ、そんな義務は」
ふざけているようで、しかし真剣に勘を根拠として男を犯人だと決めている薫流。男からしてみればしめたと思える話だろうし、ふざけるなと激高出来る話でもあるだろう。
勘が証拠になるのなら法治国家は成立しないし、そんなもので誰も誰かを裁くことなど出来はしない。つまりこの二人は確かな証拠と呼べるものをまだ入手していないということであり、今この段階で男を裁くことは出来ないということを意味するからだ。
しかし、二人もそんなことはわかっている。
「怪しいなーと思ったのは、最初に君は犯人の動機と思われる話についてペラペラと喋ってくれたのに、急に被疑者を庇いだしたところかな。あの時に変だなあ、おかしいなあと思ったんだよ私は」
「そんなもの、友人として友人を庇うのは当然だろう」
そう、それは当然のこと。何もおかしくなどはない、はずだ。
しかし、薫流はそれを頓着しない。自分の当たりは正しいのだと、そう信じているから疑いを晴らすことはない。
「うん、だから私はわざとハウンドを落としたんだよ。案の定、君はすぐに反応してくれたよね」
あの時、薫流がよろけて銃を落としたのはわざとだった。彼女はその時目の前に座っていた男がどんな反応をするのか、それを確かめるためにわざと銃を落としたのだ。
自然に、獲物を罠に嵌めるように。そして彼女の思った通り、男はすぐに立ち上がるという反応を見せた。
「あれは私を心配してくれたんじゃないよね。ああ、今ならもしかして、この女を殺せるんじゃないか――そう思っちゃったから、あの時君は立ったんだよね」
事件解決の捜査を行うにあたり、彼ら特別機動係がハウンド無しに異能力を起動させることは通常許されていない。警察内部から犯罪者を出すわけにはいかないのだからそれは当然のことであり、よってそれを手放してしまったあの瞬間に限り、彼女は異能を使えない状態にあった。
そのことを知らなくても、銃という武器を失った状態は率直に危機と言ってもいいだろう。
つまり、あの瞬間、男が彼女を殺すことは全くの不可能ではなかったということになる。まして不意打ちならなおのこと。
男がそれを取り止めたのは、仮に女を殺せたとしても傍にいるもう一人が黙って見ているわけはないと判断したからだ。
「目は口程に物を言う――ありがとう、自白してくれて。ま、異能がちょっとの間使えないくらいのことで、君ごときに殺されるような薫流ちゃんじゃないけどね」
そしてハウンドを一瞬のこととはいえ手放すような判断が出来たのは、彼女の中に揺るぎない自信があったからだ。そのくらいのことで殺される自分ではないと、そう自分を信じていたからだ。
だが、それでも。
「それも証拠じゃない! 証拠とは言えない! そもそも、俺は雨羽じゃない!! お前らの言っていることは、すべて出鱈目だ!」
そう――目の前にいるのはあくまで参考人として話を聞いた、被害者と加害者共通の友人である男。第一被疑者である雨羽ではないのだ。
だからこそ、男はまだ強気でいられる。証拠もなく、被疑者でもない自分が、どうして疑われなければならないのかと。
「そうなんだよね、なんで顔が違うんだろ」
「無理矢理に理屈を付けるなら、蜂に自分を刺させ自分の顔を腫れさせる。自分の毒を自分で分解出来ないわけはないから、膨れ上がった顔を自分の思うように回復させる……そうして疑似的な整形を行うと、強引に説明するならそんなところか。あるいは……」
――誰かに顔を変えてもらったか。
最後の一言は口にせず、しかし二人は顔が違うにも関わらず目の前の男が雨羽であると確信しているかのようだった。
「でもハウンドで人体から異能反応を検出することは出来ないんだよね、肉は心を閉じ込める箱だから」
魂は肉体の中に宿ると言うが、異能もまた然りである。異能力は普段、使われていない間は使い手の中で眠っている状態にある。
どれだけ甘い匂いのするケーキがあっても、それを鉄の箱に閉じ込めてしまえば匂いはしないしケーキの姿も見えなくなる。それと同じで、人体は異能の反応を閉じ込めてしまう肉の箱なのだ。
だから、人の体にハウンドを当てても異能が使われた、異能を持っている、といった反応は出てこない。だから男の顔から反応は何も出てこないし、意味はない。
「だったらもっと科学的に、普通に証拠を炙り出せばいい」
しかし、関係ない。相手の顔が変わっていること、それそのものが証拠となるのだ。
「何を言って――」
「うんうん、わかったわかった。君は犯人じゃない、そうだよね。だったら……もちろん、捜査に協力してくれるよね? ――今すぐ、血か、歯型か、遺伝子の提供をお願いするよ」
否定を続ける男の言葉を遮るような、薫流の言葉に男が口を詰まらせる。
それはまるで、男にとって急所を突かれたような反応で。、
「出来ないとは言わないよね。ちなみに、雨羽さんの血液型はA型らしいんだけど、君は何型かなあ? 調べてみたらB型みたいだったけど、まさかA型に変わってるなんてことはないよねえ」
人を呪わばすなわち墓穴。他人を呪う行為とは、それがそのまま自分の墓穴をも掘ることになるのだ。
顔を変えられたとしても、血まで変えることは出来ない。
逃げるために顔を変えたつもりが、それが逆に証拠となって自分の不利に働いてしまったのだと、男は後悔の気持ちに突き落とされる。しかし、時は既に遅かった。
「――まだ抵抗する?」
ここで無理矢理逃げたとしても、彼女たちは必ず男を追い詰めるだろう。そしてここで逃げることは、自分が犯人だと白状するも同然だ。
「それに、君は犯人の動機を金銭絡みの怨恨だって言ってくれたけどさ――それって本当?」
「……なぜ自分が嘘をつく必要があるんですか」
「無いの? ホントに? 嘘じゃない?」
「なぜ嘘をつく必要があるんだ。自分は、あいつからそう聞いていたからそう言っただけだ」
男の背を汗が伝う。まずい、まずいと鼓動が速くなっていく。それだけは聞くわけにはいかないと、心の覚悟を決めていく。
ゆえに、男に……雨羽にはもう逃げ場などなく、言い逃れの余地すら存在しない。ゆえに、だ。
「……、っ!」
雨羽の傍に現れた黄色い六角形のマス目から小さい何かが発射され、それを薫流は跳び退くことで回避する。
それは彼が自らの異能を開帳したことに他ならず、つまり自分が犯人だと認めるということだった。
「……ふぅー……こうなっては、もう仕方ないってことだよな……。仕方なく大人しく、裁きを受けて殺され……るわけないだろう! きっちり抵抗させてもらうよ、きっちりとね。あんたたちをここで殺して、俺はそのまま逃げさせてもらう!」
そして彼もまた、もう言い訳するつもりはなかった。どうせこの後誰かを殺すつもりだったのだ、それが特別機動係になっただけのこと。ここでこの二人を殺さない限り、自分に未来は無いのだから。
よって、この場で彼に出来ることは一つ。雨羽の気配が変わったのを察知し、二人も意識を切り替えていく。
今より雨羽の脳は深淵と繋がり、既存人類を超えた力を現世に呼び起こす超人と成る。
誰かが言った。この世にあらわれた異能という力はまさに人類進化の終着点、我々が歩みを止めない限り辿り着いただろう魔道の終わりに他ならないのだと。
それがあの霊災によって、ほんの少し時期を早められてしまったのだ。人類という生物の遺伝子はついに、幻想と忘れ去られた神話の遺物すら再び目覚めさせるに至る、それはまさに進化論の極奥。
だが、それは早過ぎたがゆえに欠陥も抱えてしまった。深淵はまだ未熟な我々が手を出すには少しばかり深すぎる領域だったのだと、しかしわかっていてもそれでも人はそこに潜らないという選択を取れない。
未熟ゆえに、そして人間であるがゆえに。進化を求めるという全生命が宿す究極の欲求に最も特化した種族こそが、我ら霊長の人類であるがゆえに。
「“刺突”、≪蜂軍≫――!」
火純が導き出した蜂を操る雨羽の異能、それが今開帳される。耳に入ってくる不快な羽音は、幾千幾万もの羽ばたきによって生じる音だ。
虫とは、存在そのものが赤い血を流す生命と全く違う異形である。温かみを感じない目や、動物とは全く異なる系統を辿った進化の形は見るだけで人に生理的嫌悪感を齎す。引っくり返った虫の足がうじゃうじゃと蠢いている姿や、足元を沢山の虫が這っている光景は想像するのも嫌なものだ。
虫が好きという者もいるし、そこは人の感性によるのだろうが、しかし虫を嫌う人間も多いのは事実。そして、二人の前には数えるのも嫌になるほどの蜂が飛んでいる。音も姿も、激しく不快になる数の蜂が。
攻撃的な虫の中でも危険な印象が強い蜂――の中でも更に危険なことで知られる雀蜂によく似ているが、黄と黒の警告色は更に禍々しい模様をしていた。それは模様だけで、異能で呼び出されたこの蜂が雀蜂よりも強い猛毒を持っている証だろう。
「俺の想像通り、やはり召喚使役型か。どうする? 俺がやろうか」
「そうだね……泡末、そっちはどう?」
『うん、ドローンを使った近隣の人たちの避難は大方完了……でもまだ完璧ではないかな、家の中に人も残ってるだろうし。一応住宅街だから、出来れば被害を出さないように……という意識を持って対処しましょう、だって』
耳に付けている通信機を介し、彼女は魅波と交信を取る。彼らが会話で時間を稼いでいる間に避難も進んだらしく、後は目の前の犯人を倒すだけだった。
「了解。警告無視、並びに攻撃の意思も確認。こっちもこれから、現場執行権を行使する」
『了解、現場執行権の行使確認。早く終わらせて、藤咲くんの歓迎会でもやりましょ』
「オッケー。それじゃあ藤咲、せっかくだから後輩らしく、先輩の活躍をその目でしっかり拝見してな。この男は私が殺るから」
彼女の異能は、人を守ることに全く向いていない。いざという時に誰かを庇うことが出来ないために、嫌でもこの役割が適材適所となる。それを彼女もわかっているからこそ、その判断に時間をかけることはない。
だが、蜂を操る異能に対して彼女の異能は相性が良くない。一対多を想定していない能力であり、よってこの数の虫を相手取ることは自殺行為になるだろう。勝率を考えるなら火純が相手をする方が確実だが、しかし。
「“執行”――」
しかし、特別機動係の切り込み隊長、浅間薫流は――純粋に強い。