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7.深淵性悪説

 ――こんなつもりじゃなかったと、後から言うのは簡単だ。しかしそれは、それが簡単なだけでそんなことを後からいくら言おうと現実を変えるのは不可能だ。

 難しい、ではなく出来ないだ。一度食べた昼食を腹の中から戻したところで、それは食事ではなくただの吐しゃ物に過ぎないのと同じように、過去を変えてそれを今現在の未来に繋げるなんてことは時を超えでもしない限り……いいや、時を超えたとしても不可能かもしれない。

 だから人間に出来るのは、その後悔を飲み込んだ上で前へと進むことだけなのだ。そう、だから、後悔なんて、しない。

 そしてここにもまた、後悔を忘れた獣が一人。


「ひ、くひひ」


 それは甘美なる蜜の味か。人を殺すあの感触が忘れられない、人の命を奪うあの感覚にどこまでも酔いしれていたかった。どんな酒を飲むよりも、それは度数の高いアルコールを摂取するかのような。

 まるでふわふわでやわらかなパンケーキを切るような、人の肉をぶちぶちと穿つのがあんなに気持ちのいい感触だとは思わなかった。怒りを溜め込み、殺しに踏み切るのを我慢した甲斐もあったと言えよう。もっと、もっと殺したい。

 そう、まだだ。まだ足りないのだ。一人や二人では到底足りないとそう思う。もっともっと何人も、そう何人も殺したい。自分の中に眠っていた本当の願いとはこれだったのだと確信出来るほどの、圧倒的な快楽。に

 美しい女は何度抱いても飽きないのと同じことで気持ちいことは何度やっても気持ちいのだ、そんな覚えたての自慰に耽る子供(サル)のようなことを考えながら殺しの感触に未だ酔っている。いいや、事実これは自慰なのだろう。

 性行為は一種のコミュニケーションとしての側面も持っているが、一方的な殺人がまさかそれに相当するとはとてもじゃないが言うことは出来ない。であれば自分一人だけが一方的に気持ちよくなるこの行為は、まさしく殺人自慰以外の何物でもあるまい。

 そして殺人には相手を気持ちよくさせる義務も義理も介在しないのだから、己だけが絶頂に導かれればそれで良い。殺されるなど相手からしてみれば痛く苦しいだけだが、己の知ったことではない。

 たった一度の殺人でまさか自分が快楽殺人鬼になるなどと思ってはいなかったが、現に自分はこうして殺人の虜になっている。

 だがさて、何故だろう? 何故自分はこのように物騒な願望を抱くようになったのだろうか。喧嘩もほとんどせず、どちらかと言えば温厚だったはずの自分がこうも血に酔うようになってしまったのは、少し不自然ではないだろうか?


「ま……どうでもいいことか」


 重要なのことは今、今自分が誰かを殺したいということだ。どうして誰かを殺したくなったのかなどどうでもいいことで、殺したいのだから殺せばいい。

 男はそう結論し、次に考えるべきことを考える。


「あいつらをどうするべきか、今問題なのはそれだろう」


 警視庁公安部公安第五課異能犯罪第一対策室特別機動係――異能犯罪に対抗するべく設立された、対異能犯罪の専門刑事たち。そのチームは少数ながら精鋭揃いであり、構成するメンバーの全員が異能力者(・・・・・・・)。つまり、異能犯罪者たちに対する異能刑事というわけだ。

 そして、超法規的措置(・・・・・・)を公に認められている組織でもある。

 時折常識を外れた手段で捜査に踏み切ることもあってか世間からの評判は安定しておらず、かくいう彼も今までは彼らに対しておかしな連中以上の印象を抱いてはいなかった。しかし、自分がその捜査対象となったならば話は別だ。

 昼涯を殺した犯人である彼は、その捜査からどう逃げ切るかを考えなくてはならない。果たして、このまま上手く捜査の手から逃れ続けることが出来るのだろうか?


「いやいや、そんなに甘くはないはずだ」


 犯人になって初めて分かる脅威がある。少し調べてみて分かったことだが彼ら特別機動係の事件解決率は高く、担当した異能事件のほとんどをその手で解決(・・)している。

 素行の悪さや派手な手段に目が眩みがちだが、つまり異能犯によるそれ以上の被害をそこで食い止めているということに他ならないだろう。方法はともかく優秀であることに違いはなく、常識を外れた行動も常識を外れなければ戦えない相手と戦うために敢えて道を外れているのだとすれば、認識を嫌でも改めなければならないだろう。

 彼らが悠長なことをせず、強引に自分のところまで踏み込んできたならばそれだけでこちらは劣勢に立たされる。今のまま敵の目を誤魔化しつつ、機を見て脱出しなければならない。

 だが、ここで問題になるのがこの殺人衝動だ。

 逃げなければならない、それは分かっている。分かっているが、しかしどうにも人を殺したいという衝動は消えてくれない。いやむしろ、このまま我慢を続けていればその衝動はますます強くなっていくだろう。

 彼の能力は彼にしてみれば幸いにも隠れながら人を殺すことにも向いており、相手からしてみれば不幸なことだが人の目を引かないまま誰かを適当に殺せるだろう。しかし、リスクは当然付きまとう。

 ゆえに我慢だ。今は我慢しなければならない。このまま上手く、逃げることが出来るまで。

 彼は異能力を手にしてから……もっと言うと、昼涯を殺してから湧き上がってくる殺人衝動を堪えながら、静かに街の中で潜伏を続けている。その衝動がどこから来るものなのか、人を殺して何の罪悪感も無いのはどういうわけなのか、それを知りもしないまま。

 ――それは一体、なぜなのか。


「藤咲はさ、なんで異能犯罪者を早くひっ捕らえなきゃいけないか知ってる?」


「貴様俺を舐めているのか? ここへ来ることになった時、簡単な事情なら説明を受けている」


「おっと、とうとう貴様と来ましたか」


 所変わって自動運転で本部まで向かう車の中。薫流はハムサンドを、火純はカツサンドを口にして軽い昼食にしながら運転席と助手席に並んで座っている。

 マイルドな卵とさっぱりとしていながら舌にしっかりと味の響くハムがパンに挟まれ、それらが口の中で混ざり合った後に喉を通り空腹を満たす。濃厚なソースの塗られたカツが挟まれたカツサンドはそれ一種しか挟まれていないが、それだけにカツ一つだけで舌が喜べる味わいだ。

 彼ら異能力者にとっても、食事は重要な生活サイクルとなる。何せ摂取したものすべてを異能力起動に使用するエネルギーへと変換出来るから。そのためのエネルギーをこうして摂取しなければ、文字通り命を削って異能力を発動しなければならない羽目になってしまう。

 そのため有事に備え、こうして軽くではあるが車の中で二人も食事を取っているのである。


「薄々そうじゃないかなとは思ってたけど、藤咲って結構俺様至上系だよね。よく警察なんか入れたもんだよ、上下関係厳しいのに。いやウチはそのあたりかなり緩い方だけどさ」


 一度敬語を捨ててからは生意気な部分が見え隠れしていたことや、素の自分を隠していたことから薫流はその本性に気づきつつあったが、こうして貴様などと正面から言われると多少は驚くものがある。それも、彼は一応後輩である。


「愚問だな、勿論抵抗はあった。というより、俺がどこかの誰かの軍門に降るなどただただ屈辱でしかない、無理だ。それは俺という天に輝く俺を自ら地に落とす行為、自分で自分の羽を引き千切る鳥がいないように俺に劣る誰かの下に俺がつくなど考えたくもない」


「わーお思ったより俺様だ。ほらほら、私は先輩だぞ、敬語使え敬語」


 もはやなぜ警察に入れたのかすら分からないような発言を吐く火純。階級がはっきりと分かれ、その指示に従わなければならないような組織になぜ彼のような俺様(ばか)がいるのか。


「そんなに嫌ならなんでここにいるの? ていうかなんで最初敬語使ってたの?」


「簡単なことだ。俺はまず、己を組織に入れるために自分で自分を騙さなければならなかった。自分は孔雀でも白鳥でも鷹でも火の鳥でもなく、醜いアヒルの子であるとまずは自分に言い聞かせる必要がある。まったく、自分で自分にしたことだが二度としたくない」


 そう、すなわち。


「俺は俺自身に、そういう暗示をかけた。精神的拘束というわけだな。ふっ、自分に暗示をかけるなど初めてのことだったが、意外とやれば出来るものだ……流石は俺、何をさせても優れている」


「君が入るべきは警察じゃなくて病院じゃないかな?」


 それも頭の。と付けなかったのは、彼女に残されたただ一つの優しさだったのか……この人こんな人だったんだなあという目で彼女は彼を見つめていた。彼が最初、ごく普通の男性のように振る舞えていたのは、つまりそういうことだった。本来の自分を上書きし、別の自分になり切っていたのだ。

 多分、俺様系だから自分に対して自分の言葉が予想以上に効いたのだろう。性格すら一時的に書き換えるほどの暗示、他人にかけようと思ってもここまで簡単にはいかないはずだ。

 そして俺様系ゆえにそんな暗示も長くはもたず、こうして少しずつ猫の皮が剥がれてきたということか。


「ま、いいやそんなこと。藤咲がどれだけ俺様系でも、君よりも薫流ちゃんの方がぜーったい強いもんね」


「……それは聞き捨てならないな、お前が俺より強いと? 先輩」


「空いた時間に模擬戦でもする? 良いよ、胸を貸してあげようか後輩」


 ぺろりと、唇についたパンくずを舐め取りながら火純を挑発する薫流。だが二人の間に険悪な雰囲気は無く、彼らなりに先輩後輩として交流を深めるためのじゃれ合いなのだろう。火純の方もその挑発を笑いながら受けていることから、そのことはよく分かる。

 薫流の能力はその自信に見合う強力なもの――ではない(・・・・)。しかしだからこそ、その能力で戦い抜いていることが彼女の自信となっている。


「ああそうそう、なんで早く捕まえなきゃいけないかの話だった」


 そこまで話したところで、彼らは最初の話題に戻る。


「ああ……この異能力というものがいったいどこから発生しているのかに端を発する、深淵性悪説だろう」


 異能力――――特異領域到達指定能力(Abyss)。略して異能力またはアビスとも呼ばれる、それが正式名称だ。

 あの日、この日本国で起こった関東大霊災という未知の災害はこの国に甚大な被害を齎した。国土の一部は深淵化、つまりは荒れ地となって復興も果たされないまま半ば国から切り離されている状態にある。

 未踏区域と名付けられた霊災中心地は人もいない汚染された立ち入り絶対禁止領域として国から発表されているが、実態は自分の居場所を失った人々や逃亡中の犯罪者たちが大量に住まう暗黒街であると噂されているのが現状だ。

 なぜなら人類最初の特異領域到達指定者が現れた場所こそが、この未踏区域だからである。区域内から本土に現れたその人物が特殊能力者第一号であり、アビスとはつまり、この深淵となった未踏区域に由来する名前なのだ。

 深淵とは人類進化の終着点を意味し、まさに人類が特異領域到達指定能力者という新たなステージへと突入したことを示している。他にも技術や能力を表すアビリティや、超能力を表すエスパーを掛け合わせた掛詞――アビリティのアビもエスパーのエスもアビスとは綴りが違うが――でもある。

 人類は自らの脳機能を十%しか使用していないという神話。我々の脳には未知なる潜在能力が秘められておりそれらはいつ目覚めるか分からないという話が、もしも本当のことであり、脳の深い部分で人類も気づいていなかった深淵が眠っていたならば……。

 そう、その未踏の領域が開放されることで、人は異能力に目覚めるのだ。

 もしも人の心というものが心臓ではなく脳にあるのだと仮定し、その開放された脳機能が心の何かを読み取って特殊能力という形で発現させる。それこそが異能力なのである。

 異能は、心で出来ている。


「そうそう。だから、私たちに目覚めたアビスってのは厄介なんだよね」


 心で構築された異能。心で形作られるからこそ、この脳の深淵部分は開けてはいけないパンドラの箱であったのだ。

 もしも、その異能力で罪を犯せばどうなるのか? もっと言えば、人を殺せばどうなるのか?

 答えは簡単。心が、血に染まるのだ。

 心によって作られたナイフで人を刺せば、そのナイフは当然だが赤く濡れる。そして人の血を吸わなければ生きていけない鬼のように、血に染まった犯罪者は悪に堕ちる。

 罪とはその多くが悪意から生まれるもので、その悪意または殺意などの憎悪に類する感情が、そのままその人物の(こころ)に根付く。

 そして一度悪に堕ちてしまえば、二度と元の心を取り戻すことは出来ない。優しかった人物も、厳しかった人物も、等しく同じ悪人となる。墨の中に浸してしまった紙が、二度と元の白に戻らないように。

 これが深淵性悪説。すべての異能力はその根元が悪なるものであり、従ってその力を振るうことの出来る異能力者もまた生まれながらに属性悪ではないのかという説だ。

 民衆には未発表の真実であり、そして彼ら特別機動係がどうしても存在しなければならない理由である。


「そりゃこんなこと公表なんて出来ないよね。特殊能力者は全員が犯罪者予備軍ですって認めるみたいなものだし、この現代で魔女狩りが始まっちゃうよ」


 一度人を殺した異能犯罪者の再犯率は極めて高い。特に、人を殺したばかりの者はほとんどの確率で再び罪を犯す。血の味を覚えた彼らはまさに獣となって、再び無辜の民を襲うだろう。

 迅速に事件を解決しなければならない理由とはそういうことであり、再犯すると分かっている犯罪者を一刻も早く見つけなければならないからだ。


「だから、早くしないとね。今回の犯人は遠くから人を殺せるタイプみたいだから、早く見つけないとまた犠牲者が出ちゃう」


「そのために今から?」


「うん。まずは、色々確定させなきゃいけないことがあるから」


 本部地下駐車場に戻ってきた二人は、彼らの部屋を目指す。これから行われるのは第五課メンバーが集まっての、異能犯罪特別対策会議である。

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