2.公安第五課異能犯罪第一特別機動係
こつこつと廊下を渡る靴音が響く。他に歩いている人は周囲に見当たらず、だからこの足音は自分と自分を先導している男の二人分。知らず知らずのうちに体が緊張を帯びていくのも、仕方ないといえるだろう。
誰もいないということはそれだけの理由があるということで、つまりここは普段誰も近寄りたがらない場所ということなのだから。国民のために体を張ると決めた人員によって構成されたこの組織においても畏怖され、遠ざけられているという事実があるということ。それは人を緊張させるに十分すぎる理由だろう。
何せ自分は今から、そこへ行こうというのだから。事前に覚悟は済ませていたはずだったが、事前と現在で必要な覚悟の量は違うということなのだろう。まあ、自分は大人物というわけでもないのだから、覚悟だなんだといってもその程度だということだろう。
「……さて、そろそろ君の配属先へ到着するわけだが」
案内人の男が言う。そろそろと言った通り、扉がもう目前に迫っている。
「準備はいいだろうか? ここが周囲からどう言われているかは知っていると思うが、君も今日からその一員となるわけだ。だがどう言われようと、ここが昨今の社会問題に対して非常に重要な部署であることは言うまでもない。だから君は、何を言われようと誇りを胸に乗り越えてほしい」
その口ぶりから、こちらを激励しているのが伝わってくる。だが彼もまた、気丈に振る舞っているようで僅かなりとも緊張しているようだ。それは大木を前にした人々が知らず知らずのうちに感動を覚えるような反射的な心の動きであり、わかっていてもどうにかなるものではないのだろう。
だが自分はそうもいかない。これからここに入ってやっていく以上、いちいち緊張していては話にならない。出来る限り、それこそ今日一日で慣れなければならないだろう。
ここがどこで、今から自分が働いていくのがどんな所なのか、今一度再確認する。
――そう、ここは警視庁。そしてここは、警視庁の中でも比較的新しく増設された公安第五課。
「ええ、わかっていますよ。俺……自分だって、この中にいる人たちと同類なんですから」
ああ、もしかしたら彼が緊張していたのは少なからず自分のせいでもあったのかもしれない。誰だって、隣に虎が歩いていたら落ち着かなくもなるだろう。
だからってビクビクと震えるわけにもいかないのだから、背筋を伸ばせるだけ彼は立派な人物なのだろう。
「よろしい。であれば、君も今からこの部屋の一員、同族殺しの猟犬だ。――ようこそ、公安部公安第五課異能犯罪第一特別機動係へ」
警視庁公安部公安第五課異能犯罪第一特別機動係、それが自分の仕事先だ。
扉が開き、中の様子が目に入ってくる……果たして、どれほど恐ろしい人たちが所属しているというのだろうか――。
「あ、このプリン美味しい。どこで買ったの?」
そして俺の緊張は消えた。耳を疑うまでもなく、女がプリンを食っている。扉を開けたら女がプリンを食べていた、その光景を疑うとなると、俺は自分の目も疑わなくてはならなくなるし、俺は自慢ではないが視力は良い方なのだ。そしてそれを見たまま緊張を保てというのも無理な話だ。
「……どこだったかな……確か、ゴゴクジ屋? って店だっただろうか、駅前の」
「それ、時計屋じゃなかった? しかも駅前じゃないし」
プリンをスプーンですくっている女と、もう一人男が会話を交わしている。そもそも同じ人間相手に緊張などする方が間違っていたのだ、相手は同僚なのだから。俺は深く深く反省し、偏見はいけないことだと胸に刻む。
「……時計屋だったか。でも時計もプリンも似たようなものだろう? 同じ同じ、だから時計だよこれは。ほら、丸いし」
いや時計とプリンは違うだろう。何一つ掠ってもいない。色も違えば厚みも違うし、何より時計は食べ物ではない。
「んー、それもそっか。あむ」
なぜ納得したのだろう。今の言葉のどこに説得力というものが欠片でも備わっていたのだろうか。端から説得する気など一切なさそうだった今の言葉に。
事実、説得する気などなかったのだろうけれど。女の方を見てもいなかったし。
「すー……」
そんな会話の横で、当たり前のように寝ている女もいた。一応今は職務中であったと思うのだけど、いいのだろうか。
いや、プリンを食べている時点で何かがおかしいような気もするけれど。食事はまだともかく、寝ているのは駄目ではないだろうか。いいのか、そうか。
「……ゴホン」
呆気に取られていた案内人の男が咳払いをする。そこでようやく、部屋の中にいた人たちがこちらを向く。一人だけ、奥に座っている女性だけが最初からこちらに気を向けていたのだろう、「ごめんね」の意を込めたジェスチャーを送っていた。
いやもう一人、まだ寝ているままの女もいたが隣の――さっきプリンを食べていた――女に起こされている。
「もう、いいだろうか。こちらが、今日から君たちと一緒に働いていくことになる……」
「藤咲 火純です。よろしくお願いします」
名乗ってから、頭を下げる。簡単にプロフィールなども自己紹介しようかと思ったが、まあいいだろうと思い取り下げる。これから一緒に働いていくうちに、互いに知っていけばいいのだし。
「では、私はこれで失礼する。後の職務についてなどは、そちらで教えてやってくれ。それじゃあ藤咲くん、頑張れよ」
そう言って彼はそそくさと部屋を出ていく。残されたのは機動係の面々と、そして俺。……これが、さっき猟犬だなんだと言われていた人たちなのか。想像とのギャップで面を食らいはしたけれど、だけど実際はそんなものなのだろう。同じ刑事だ、むしろ怪人じみた想像を働かせる方がおかしかった。
「それじゃあ自己紹介でもしよっか、私は泡末 魅波。こっちのぼーっとしてるのは浅間 薫流ちゃん、よろしくね藤咲くん」
「……よろしくー」
最初に名乗ったのは泡末さんと浅間さん。浅間さんは自分で名乗っていないけれど。どうでもいいが、泡末さんの胸は大きい。どうでもいいし俺は紳士なので、そこに視線は向けないですけど。
浅間さんはさっきまで寝ていたためかまだ眠そうにしていた。ふわとあくびをし、もう寝ていいだろうかと泡末さんに視線で訪ねている気がする。
「氷常呂 蓮慈だ。いきなりで悪いが、俺に何かを聞くのはやめてくれ。人に教えるのは苦手なんだ、昔から」
次に名乗ったのは、恐らく同年代の男。まだ何も言っていないのにいきなり質問を断るとは、社会人の先輩として正しいのだろうか、それは。そう思わなくもなかったが、しかしあらかじめそう断っておくことで、質問がしたいなら他の先輩へして欲しいと最初から伝えているのだから、ある意味親切なのかもしれない。
そういえば先ほども、どこの店で買ったプリンだったのかは曖昧に答えていた。
「あっはっは。まあそういうことで、何かわからないことがあったら彼でなく僕に聞くといい。僕は九頭城 狛摩、よろしく藤咲くん」
九頭城さんは年配の方だった。当然、この中で一番の年上だ。俺は差し出された手を握り、頼りになりそうな人がいたことを安堵する。何かあったら遠慮なく頼らせてもらうことにしよう。
「そして、私がリーダーの帝堂 無です。これからよろしくね、ようこそ機動係へ」
九頭城さんではなく、奥の椅子に座っていた彼女、帝堂さんがどうやらここのトップであるようだ。年齢でいえば九頭城さんが一番上だが、彼ではなく彼女がリーダーを任されているということはそれだけの実力を有しているということなのだろうか。
この五人が、これから俺の同僚であり、共に戦う仲間であるようだった。少し緩い雰囲気に出鼻を挫かれたが、しかし気を引き締めていかなければならないだろう。
それだけの理由、それだけの重要な役目が、自分たちには課せられている。そして俺もまた、その役目をここから全うしなければならないのだから。
なぜならここは公安第五課。近年増加し、そして社会的な問題となりつつある違法行為――すなわち、異能犯罪に立ち向かい、これを解決するための人材なのだから。