11.悪竜降臨
めっちゃ遅れてしまった……。
――十数年も前のこと。
とある小さな国の、とある地域。治安の悪いことで知られるその場所に、ふらりと小さく幼い女が現れた。たった一人でふらふらと歩く姿はまさに葱に足を取られた鴨と呼ぶしかないような、容易く美味しい獲物としか映らなかっただろう。その地域を根城としていた小悪党たちには。
見慣れぬ顔や格好から、少女がこの辺りに住んでいる子供ではないことは明らかだったが、悪党にとってそんなことは関係ない。
むしろ、都合が良いというものだ。まさか単身で国を渡って来たわけではないだろうし、おそらくは親とはぐれてしまったのだろう。ここでこの少女が消えてしまえば親はきっと悲しむだろうが、悪党どもにしてみればそんなことは知ったことではない話。
目を離した親の方が悪いのだ。こんな国で子供から目を離すような親に、果たして親を名乗る資格があるのか? ゆえにこれは教訓であり、この少女はそのために、次があるなら決して子供から目を離してはならないという教育費なのである。
“お嬢ちゃん、どうしたんだい?”
“駄目じゃないか。こんな危ないところに一人で来ちゃあ”
下種な笑みで話しかける彼らを前に、もはや少女の運命は悲劇一直線に決まったかと思われた。誰も助けてくれる者もおらず、少女の小さな体に細い腕で何が出来るというのか……話しかける男たちの言葉も通じているとは思えなかったが、通じようが通じまいがどちらでもいいのだ。どちらにせよ、彼らのやることに変わりはないのだから。
そうして彼らが少女に手を伸ばした、その時だった。
“……え?”
男のうち、一人の腕が吹き飛んだのだ。血を噴き出しているその腕を見ながら呆然としている男たちは、何が起こったのかわからず赤い噴水を数秒ほど見つめている。だがそれも過ぎれば、遅れてやってきた痛みとともに彼らは恐慌状態となった。
痛い痛いと泣き叫ぶ男と、それを見ながら慌てている男たちが、腕を吹き飛ばしたのは目の間にいる少女だとすぐには気づけなかった。そしてその隙を晒してしまったことは、男たちの命運を致命的なまでに決定づけるものとなる。
もっとも、すぐに逃げたとしても無事逃げおおせたかどうかはわからないのだが。
そこから先の惨劇は、たった一人の少女によって引き起こされたとは思えない――実際、信じられないと一度は否定された――ほどに凄まじいものだった。
小さな腕で、人が引き千切られる。小さなその手で、人が粉砕されていく。人間の肉がどれほど柔く脆いものであるのかを何よりも凄惨に物語る光景であり、圧倒的な暴力を前にすればどれだけ屈強な男であろうと簡単に膝を屈する他にないのだと、嫌でも理解させられてしまう。
結果、その場にいた男たちだけでなく周囲の人々をも巻き込んで、一帯の生命は皆殺しの憂き目にあった。人間だけでなく、家々すら砕かれ壊され、すり潰されている。
ようやく現場に到着したその地域の警察は、悲惨極まる赤く赤くどこまでも赤く染まったその一帯を見て、こう思ったという。
まるで、竜の暴れた跡のようだ……と。
血と肉と臓腑がこれでもかと撒き散らかされた光景は、それだけで見た者の精神を脅かす血の悪夢だ。警察の中には嘔吐を繰り返す者もいたが、それを情けないと責められる者はいないだろう。
一体何が起こったのか。調査が進むにつれ事件当初は信じられることのなかった話が本当のことなのだということが、数少ない証言から実行犯が本当にたった一人の少女なのだという事実が確定してしまい、事件は少女に名付けられた異名とともにこの国の歴史に刻まれることとなった。
即ち、その名を『悪竜』と云う――。
***
「……ちょっと泡末?」
『ごめーん! 急に現れたから注意が遅れちゃった。どこかに隠れてたのかな……』
通信機の向こう側から聞こえてくる魅波の謝罪に息を吐きつつ、しかし危機一髪というわけでもなかったのでそれ以上の追及はしない。
それよりも今考えるべきことは、現れたこの女が敵か味方か――ほぼ十割の確率で敵だろうが、果たして自分たちが“執行”すべき人物なのかどうかだ。薫流は改めて、自分を襲った女を見た。
その女は、美しかった。同じ女から見ても、その容姿が優れていることは分かる。
薔薇の美しさが周知の事実であるように、誰が見ても、誰に聞いても、その美貌の正しさは証明されるだろう。光を浴びて育つ薔薇の花が、輝きを従えて咲き誇るように。咲き誇る花の美しさがそうであるように、美しいものは美しいのだ。
善悪は時に容易くその秤をうつろわせることもあろうが、美醜は常にその在り方を変えることがないのだから。
もしこの場に十人の男がいれば、十人ともがその美貌を認め頷くはずだ。……だが、もしもこの場に十人の男がいれば、その十人ともが彼女から目を逸らすだろう。
なぜならその女から漂う雰囲気は、間違っても正しく清廉なものではあり得ず、むしろその逆で魔性の類いに違いなかったから。その棘で自らつけた傷口から生き血を吸って育つ薔薇のように、人の死を養分にして大きく育った桜のように、帰冴と呼ばれたその女は、見たくないほど美しい。
剣呑な瘴気とすら感じるその気配が証明する事実は一つ。彼女は、人の死を浴びて生きてきたということ。……それを、彼は知っている。
間違いなく異能犯罪者であり、異能使いであることは明白だ。でなければあんな破壊力を持てるはずもないし、そして雨羽よりも格上の異能力者であることも間違いないだろう。
(まあ薫流ちゃんの方が美人だけど)
内心で変に張り合っている薫流を余所に、火純は現れた女と話し出す。
「誰が、誰の邪魔をしに来たと? 愚かなのは変わらないな、帰冴。お前は今までに西から昇る太陽を見たことがあるのか? 今までに日の出を邪魔することが出来た人間が、ただの一人でもいたか? 出来もしないことを言うのは……ああ、本当に……出来もしないことを言うなよ、馬鹿女」
「ぷっ、ふふ」
帰冴が吹き出して笑う。その微笑みは本当に花のようだからこそ、彼女が人殺しであるという事実が信じられなくもなるだろう。
人殺しは人殺しだから、本人の美醜はどれだけ極まっていても関係ないのだけど。
「その太陽キャラはまだ続いていたんだ? 似合っていないから辞めた方が良いよソレ。ねえ弱虫、昔はホラ、もっと謙虚だったでしょう。少なくとも、太陽とまでは自称してなかった気がするのだけど」
「黙れ泣き虫。俺は何も変わっていない。俺は、生まれた時から太陽のままだ。太陽の光が、太古からこの星を照らし続けていたようにな」
その様子から、二人は古くからの知り合いであることが分かる。刑事と犯罪者の間に果たしてどのような親交があったのか、それは二人にしか分からないことだが、けれどそれが決して浅いものだったわけではないことくらいは見ていれば分かるだろう。
ちょっとした知り合い、程度の仲ではないはずだ。もっと深い関係、それがどの程度の深さかまでは二人に聞いてみないことには不明だが。
「そうだっけ、そうだったかもね藤咲火純。どうだったかなあ、ふふふ……凄い自信、本当に太陽みたい。どこからその自信が湧いてくるのか興味が尽きないな、前世はトノサマバッタだった? 名前だけが偉そうな虫ケラだけどね、これは、アハハ!」
「それで煽っているつもりか? 似合っていないのはどっちだ馬鹿が。花でも愛でていれば良いものを、そんなに死にたいというなら望み通り蒸発させてやろうか」
そこでニタァと表情を歪ませた帰冴の顔は、間違いなく危険人物のものだった。棘を隠し持つ薔薇というよりもむしろ、自らの醜さを隠そうともしない腐花のよう。
おびき寄せた餌を食らい栄養分とする魔性の花が、その本性を覗かせているのか。
「ふ、ふふふ……やっぱりあなたは、ふふっ……その太陽みたいに輝いてるあなたをさあ、引き摺り下ろしてやったらさあ! あなたはどんな顔をするのかなあ! ねえ藤咲火純、私はずっと、ずっとあなたの邪魔をしてあげる。いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも、この地面にあなたを墜とすその日まで! あなたを邪魔し続けてあげるから!! だから――」
「――その前に君の首が落ちるけどね?」
不意に放たれた一閃を受けずに下がることで回避した帰冴は、そこでようやくもう一人の女を見た。そこには紅色の刃を携える薫流が、刃を構えて立っている。
そんな薫流を見る帰冴の表情は、さっきまでのような爛々と瞳を怪しく濡らした恍惚の顔ではなく、怒りに染まった修羅のような顔。
「……私は別に、あんたに用は無いんだけど? いきなり斬ってくれちゃってさあ、常識が無いんじゃないの常識が。私たち今会話してるよね? それを邪魔するってどういうことなのかな、教育がなっていないんじゃないの。死にたいなら殺してやるけど、順番くらい守ってくれないかな。デートの待ち合わせ場所で立っていたら宗教の勧誘を受けた女子高生みたいな、鼻歌でも歌いたかった気分に水を差されたようだよ私は。ちょっとは空気を読むってことも出来ないのかな。人が久しぶりの再会でせっかく旧交を温めているっていうのに、いったい何の権利があって私たちの邪魔を……」
「え? 公務執行妨害の現行犯を逮捕する権利だけど……」
「邪魔……を……」
…………。
「……どうしよう、藤咲火純。何の言い訳も出来ない」
「知ったことか」
全くの正論だった。先に邪魔したのはそもそも帰冴なのだから、彼女に薫流を批判する権利は一つも無いのである。
だが、それで彼女の怒りが晴れたわけではないらしい。今もまだ薫流に向ける視線には怒りが込められており、どうやら自分に非があると認めてはいても許すつもりは無いようだった。
「まあとりあえず、後ろの彼と代わってくれないかな。さっきも言ったけど、あんたに用は無いんだよ。用があるのは彼だけで、こっちはあんたなんかどうでもいいんだから。退いてくれるなら、私もあんたには構わないから……」
早くそこを退けと、彼女は言う。彼女の用はあくまでも火純にあるため、その場の怒りを優先しようとは思わない。そう言って薫流に交代するよう提案するも、しかし。
「逃げるんだ? まあ、すぐにベソかく泣き虫らしいもんね。最強の薫流ちゃんとは戦いたくないって、そう思うのも当然か。でも悪いけど、こっちも遊びじゃないから君の言うことなんか聞くわけには」
いかない――と言い切る前に、薫流の眼前、地面が大きく抉れる。余裕を持ってそれを見過ごした薫流は、ニヤリと笑って。
「……ああ、やっとやる気になってくれた?」
「……誰が、誰が誰が誰が……」
その実行者は、この女以外にいないだろう。非を認め、穏便に対応しようとしていた態度はどこへやら。今の彼女は怒りに瞳の中を燃やし、必殺の意思を込めて薫流を睨み付けていた。
「誰が、泣き虫、私をそう呼んでいいのは火純くんだけだ!! お前なんかにそれを許した覚えはないッ!! ああ、ああ、あぁあぁ……お前、今、私を見下したな」
許さない、許さない。それだけは絶対に許されないのだと、赫怒の念に燃えている。
いや、深き怒りの水底に心が沈んでいく。その急変、精神状態の落差は彼女の心が不安定であることを表しているのだろうか。
「公務執行妨害とか、暴行とか、往来妨害殺人未遂、諸々の現行犯で――“執行”する」
「……お前が挑発したせいな気もするがそれはいいのか?」
「先に手を出したのは向こうだし、細かいことはいいでしょ」
ゆらゆら剣を揺らす薫流はあっけらかんと言い放つ。少しいい加減な気もするが、しかし確かに手を出してきたのは向こうが先だ。
ある程度はいい加減に行動した方が悪党を裁きやすいのだと、割り切って行動しているのかもしれない。刑事としては、特別な権限を与えられている特別な刑事としては、もっとしっかりとした判断で行動すべきなのだろうが……まあ、犯人を間違いなく執行してきたという実績があればこそ黙認もされているのだろう。
「私はこの言葉があまり好きじゃない。自分の意思は言葉よりも行動で示すべきだと思うし、有名な数学教授の目の前で九九を一の段から九の段まで一つずつ叫ぶような、酷く滑稽な気分になる。分かりきっていることをわざわざ口にするのは、それだけ恥ずかしいことだもの。滑稽なのは良くないことで、わざわざ自分から良くないことを喋るだなんて恥ずかしいことだから。だけど自分から恥をかいて、自分からプライドを傷つけるということは、つまりそれを聞いた相手を余計にこの世から消したくなるってことだから。だから私は昔から、そう決めた相手にはこれを伝えてからぶっ殺さないと気が済まないんだ――――ブチ殺す」
「はい出ました、外したら恥ずかしい台詞ランキング第一位の発表です! 自信満々に宣った占いを外す方が恥は大きいと思うんだけど、恥かく準備は出来てるのかな?」
「……絶対に殺してやる」
「今までそう言ってきた人は何人もいたけど、実際に薫流ちゃんを殺せた人なんて私は一人も知らないな」
後ろから何か言いたげな目で火純が自分を見ていることに薫流は気づいていたが、彼女はその要求を呑む気は無かった。
何せ、火純は入って間もない新人なのだから。
「黙ってなよ藤咲。顔見知り同士なんて二人をそのまま戦わせるわけないってことは分かるよね、君が手心を加えないなんて保証はどこにも――……いや正直なところを言うと絶対に手加減なんてしなさそうだなという確信だけはなぜかあるけど、一応これでもお仕事だから。君はあっち、蜂さんが逃げ出さないよう見張っててよ」
「……ハァ。了解、了解したよ先輩」
渋々と頷くと、彼は塀の上に座りながら銃口を雨羽に向けたまま彼女ら二人の戦いを見物することにした。――が。
火純は首を傾ける。すると、さっきまで彼の頭があった位置を白い何かが通過していく。首を動かさなければ頭蓋を貫通していたのかもしれないが、しかし火純は事も無げに回避する。
「……はぁ」
その何かを射出したであろう誰かを見れば、そこには案の定、ハチノコの弾丸を射出した雨羽がいた。
何のつもりだろうか、まだ抵抗を続ける気なのだろう彼は顔色を悪くしながら、それでもと気力を振り絞っているようだ。
「大人しくしていれば、まだ少しは寿命を延ばせたものを」
火純が特殊裁定銃に手をかけ、狙いを定める。
「おい、こいつはもう殺ってもいいのか」
「出来ればまだ生かしてほしいかな、聞きたいこともあるし。でも、ま、二人いるから……最悪、片方が生きてればいいよ。二人の関係が分からないから、どちらもしばらくは生かしておきたいけど」
「それじゃあ、手足を撃って動かないようにする程度にしておこう。あまり無駄に痛めつけるような真似はしたくないし趣味でもないが、太陽も紫外線で人を焼くことはある。大人しくしてもらうには、仕方ないな。……それに……」
気になることがある。ジッと、雨羽の体を睨めつける――そこにあったはずの斬傷が、すでに塞がりかけていた。
(どういうことだ? 間違いなく重傷だったはず、いくら異能使いが普通の人間を超えた力を持っているといっても、あの傷がこの短時間で治るはずはない。蜂を操る能力、それを明らかに逸脱している回復速度だ)
肉体が蜂あるいは蜂の巣で構成されていて、いくらか損傷しても蜂を生んだり繋ぎ合わせることで回復が出来る。とも考えたが、流石に無理がある。
異能そのものが根本的にこちらの予想と食い違う……のはこちらの予測が浅かったで済む話だが、しかし奴は血を流していた。肉も、臓腑も見えていた。
となれば、肉体そのものは普通のものと考えていいだろう。となれば、やはり――そこまで考えた火純は僅かに視線を薫流に向けると、彼女も似たような思考を回していたのか、その視線を受けて頷いた。
「殺す、殺す殺す私を差し置いて火純くんとあんなに仲良さそうに……」
……自分は何をしているのだろうか。自分を助けて……助けて(?)くれた女を見ながら、雨羽は思う。
逃げればいいのに、隙を見て逃げ出せばいいのに、そうしようとしなかった。そうしようと思わなかった。自分は確実に死ぬのだと、その確信が既にあるのに。
だが、見逃してはならない気がした。今度こそ、助けなければならない気がした。そんな謎の感情が頭を支配し、気づけば体が動いた後だったのだが……助ける? 誰を?
そもそも自分はもはや殺す側の人間であり、誰かを助けるなどそれこそ今の自分に最も似合わない行為だろう。獅子が兎を甘やかすようなものだ。しかし、それでもと、この体が言っている。――胸の内が叫んでいるのだ!
だから殺す。それそが、雨羽荒箭の悪性と信じて。
「“噛み砕け”――≪這邪滝≫ッ!!」
鱗状の、小さな水の結晶を何十と浮かばせた帰冴が吠える。
薄紅色の剣を握りながら、余裕を持って薫流が笑う。
蜂を身の周りに旋回させながら、苦しそうに雨羽が立つ。
特殊裁定銃を構えながら、面倒そうに火純が息を吐く。
「それではそれでは、薫流先輩の華麗なる大活躍――後篇に続くぅ!」




