1.ぜろわ
力の塊が二つぶつかり合い、弾ける。だがそれは決して二つが互角だったからではなく、片側がもう片側に配慮したからに過ぎない。
もしも互いに全力であったなら、一方的に打ち破られていただろう。現在、彼我の戦力差は大きく離れておりこれを逆転させる手段は見つかりそうにない。いくら虎が強くても、生まれたてな小鹿のように震える足で立っているような状態では、獅子どころかハイエナにすら勝てないだろう。
ましてや敵は万全であっても勝てるかどうか怪しいとこちらに感じさせる男である。ならば少なくないダメージを負った今の彼が、男に勝てるわけはない。
だがそれが分かっていても、彼にここから退くという選択肢はなかった。
敵の背後に、取り戻さなければならない女がいる。ならばここで逃げるなど出来るわけもなく、そして出来るわけもない。それをしてしまっては、今の自分は成り立たないのだと知っているから。
「諦め給え、君では僕に勝てない。挑戦は時に恐怖よりも醜く愚かな行為だと知った方がいい。というより、無駄であるとわかっているにもかかわらずそれでもと言いながら足掻き続けるその考え方が、僕にはわからない」
だが、この敵はそんな彼にもう諦めろという。ここで退いてくれるなら、自分も無駄に追うことはないと説明したうえで。
「諦めることは悪徳じゃあない。時としてそれは美徳を上回る優れた判断だ。生き残ることを最優先に考えるのなら、ここは逃げるべきだと思うのだが、どうだろうか」
確かにそれは正しさを含んだ提案なのだろう。死地から生還出来る道があるというのにわざわざ地雷原の上を歩くなどおよそまともな人間のする判断ではないし、そんなものがいるとすればそれは間違いなく考える頭もないほどの馬鹿か自殺志願者のどちらかだろう。
だが彼はそのどちらでもないのだから、逃げないということは逃げられない理由があるということで。そもそも、男の逃げてよいという提案には致命的に欠けている部分がある。
「お前、頭のいいフリをした馬鹿だろう。誰が、そんな阿呆みたいな言葉を信じるんだ馬鹿が」
当たり前のことだが、そういった話に乗ることが出来るのはそれが味方側から齎された場合に限るということ。敵の言うことをまんまと信じて背を向けるなど、馬鹿を通り越して間抜けの極みでしかないだろう。
身代金を払えば人質は返しますと言われたからといって、はいわかりましたご用意しますと大人しく引き下がるわけがないだろう。金銭を渡した途端に人質が殺されるかもしれない、その未来を避けるためにはすべてが終わるまで最善を足掻き続けるしかない。
逃げていいのは、逃げるべき人たちだけなのだから。この世には逃げるべきでない者や逃げてはならない者、戦わなければならない者たちがいて、彼はそれに該当するのだから。
「どうせ俺が逃げた瞬間に、後ろから撃ち殺す気だろう」
「そうだよ? 当り前じゃないかそんなこと。正面から戦うよりも、後ろから殺す方がどう考えても楽だろう。僕は面倒が嫌いなんだ、余計なことはしたくないしするべきじゃない。君は少し生き汚そうだから、出来れば楽に殺したかったけれど……まあ、いいか」
逃げようが逃げまいが、当然殺す。人質を引き渡す際に自分が危険に陥る可能性が高いのだから殺す、連れて逃げるにも足手纏いになりかねないから殺す、目的は果たして生かす必要もないのだから殺す、なんて完璧な独善主義。逃げる相手を更なる敵とわざわざ合流させて良いことなんて一つもないのだから、やはり当然殺すのだ。
風が吹く、男を中心に。肩まで伸びたプラチナブロンドが揺れて、黄金瞳が輝いている。
ともすれば女と見間違いかねないほどの美しい顔立ち、その甘いマスクで囁けば街を歩いている女をいくらでも騙せそうなほどに容姿は整っている。歳はまだ若く、恐らくは二十代だがそれだけにこの若さでこれだけの力を有しているということに驚きを禁じ得ない。
もはや見た目や年齢だけで相手の強さを判断するなど愚かに過ぎる時代とはいえ、これだけの威圧感を伴っていればギャップくらいは感じてしまう。
「ああ、それでも、相手との差を理解しながら無謀にも立ち向かう姿に理解が出来ないのは本当だよ。当然だろう? 何故なら向こう見ずな真似をするよりも事前に、勝てない相手を“勝てなかった相手”にするよう努力すればいいだけの話だ。危険性を排除し、目的を確実に果たすよう努める。当然のことだ」
むしろそれだけのことが何故出来ないのだろうといつも不思議に思っている。奇跡なんて不確かな妄想に縋るよりも、現実を自分の力で引っ張り上げる方が効率的で無駄がない。世の中、その程度のこともわからないような愚図が多すぎるから。
もっとも、やりたくないならそれでも構わない。どうせ赤の他人がした判断なのだし、そのせいでそいつがどうなったとしても自分には何の関係もないのだから。誰かの死よりも、己の勝利を。それが当然の、この世の生き方だろうに。
けれど、だからこそ――。
「ハハッ、まあ犯罪者はそれでいいのかもしれないな。だけどこっちはそうも言ってられないんだよ、馬鹿だろうと蛸だろうと守らなきゃならない」
だか彼はそれを笑い飛ばす。自分の行動が無駄なことだと否定されても、いいや決してそれは違うと吠えながら。
例えどれだけの窮地に陥ったとしても、そこに守るべき誰かがいるのなら必ず立ち上がらなければならない。それが、彼の仕事だから。
「こっちはお前のようなな奴から市民を守るために、世のため人のために働いている。偉そうにご高説を垂れたいのなら、少しは誰かの役に立ってからにしたらどうだ」
先手を取れるそちらと違って、こちらはいつも後手なのだ。出来ることは常に自分を高め続けるよう努力することだけで、具体的にどこまで強くなってから行動に移すべきだなんて目標をいちいち立ててはいられない。
今こうして、予想外の難敵と相対しているように、いつどこでどのようにしてどのような悪党が現れるかなんてまったくわからないのだから。
「そして、お前も勘違いをしている。諦めるめないなんて選択はそれを選べる奴だから出来ることで、諦めてはならない者に選択する余地などありはしない」
「それで君自身が朽ちるとしても?」
「俺の末路を決めつけるほど愚かなことはない」
そう、一番気に食わないことはそれなのだ。
「なぜ俺が、お前に負ける前提だクソ野郎。勝ち誇ることが許されるのは、勝利者だけだと知らないのか」
守るべきものと、退いてはならないならない理由がある。だったら勝つのはこちらだろう、単純な足し算だ、どこに負ける要素がある。だから馬鹿はお前なのだと、彼は気力を振り絞りながらそこに立っている。
勝てぬとわかっていても、負けを前提に挑むことこそ理解不能な情動だ。
「そうか、それが君か……藤咲 火純か」
「殺すぞお前を、聖染 善空を」
彼らは互いを一ミリも理解し合っていない。そうする必要もないと思っているし、互いの道が永遠に交わらないだろうことも知っている。だから殺し合う、だから死をぶつけ合う。
どこまで行っても敵同士でしかない二人が相容れることなどあり得ないし、理解し合えるくらいならば最初から殺し合いなどに発展してはいない。強固な因縁なんてなく、ただ邪魔だから殺し合う。
ゆえに二人は戦い、そして……。