花曇り
「貴女の言葉が僕は好きなんです」いつだって本当のことが言えない、俺は愚かだ。言葉にかこつけて好意を伝えても、彼女は困ったように笑うだけで、その白い指さきで俺の背中を手繰り寄せる。彼女にはさもないことなのかもしれない。俺にはそうではないのにと思いながらも応じる俺は本当に愚かだ。
デビュー前の同人誌から、10万部のヒットをとばす現在に至るまで、俺が知らない彼女の作品はないと思っている。そんな彼女だから、担当する文芸誌に連載が決まった時は本当に嬉しかったし、こんなことになるなんて思いもしなかった。今は、作品と同じで、彼女の体で俺が知らないところはない。
辿って、そそのかして、誘って、追われる。どちらか、そういうことにしたのか、今はもう覚えていない。「先生」と呼ぶと困ったように笑い、名前を呼ぶと少しだけ照れたように目を伏せた。長い睫毛。触れるたびに頬を伝う涙の意味、今日こそは言わなくてはと思う言葉の返答が怖くて、喉を鳴らす。
聞いてもいいだろうか、それとも聞かない方が正しいのだろうか。貴女がこうしていることの意味が、俺と同じ意味だったら、そうだったらいいのにと思うのに、いつも言葉は手前で止まる。喉を鳴らす、かき消す、消える、惑う、誘われて、忘れる。
白い胸を掴み、組み伏せ、くぐもった声をさらうように口付けて、今、俺が彼女のものになっているのか、彼女が俺のものになっているのか、曖昧な気持ちでただ彼女の腰を掴み、奥を暴く。貴女が好きだという言葉だけを飲み込んで。そんな簡単なことすら言えなくて貴女を抱くという簡単なことしかできない
もう、というので、まだ、と返し、でももう、というので、指をきつく絡める。だめ、だめ、まだ、いや、だめ、まだ、でも、もう。甘く響く音に気が遠くなる。このままというと、小さくうなづくので、多分、俺が先に果てた。年下の「先生」の白い小さな体が、少し遅れて扇情的に戦慄いた。
「先生」との「打ち合わせ」は、泊まりのことが多い。白いシャツを一枚だけ羽織って眠そうな目をして彼女はベッドに転がっている。締め切りの話、今後の小説の展開、ドラマ化の話、映画化の話。そういう話をいくつかしたが、聞いているかどうかは分からなかった。
「聞いてますか?」と聞くと、はい、という小さな声が聞こえたので、ため息をついた。「無理をさせました。すみません。」そしてその細くしなやかな冷たい手を取る。だから、もう、こういったことはやめましょう、そういう決断ができない弱さが情けない。
ややあってから、俺の表情が硬いのがわかったのか、彼女が触れた手を強く握り、首を左右に振った。「聞いています、聞いていますから、だから」
「…だから?」聞き返すと、なにかを言いかけて口を閉ざす。またややあって「続けてください」と彼女が俺を見た。
わかりましたとメガネをかけ直してもう一度一から説明を始める。その間も、繋いだ手を彼女は離そうとはしなかった。これでいいのか、おかしくはないのか。よくわからん。とそのまま説明を終えると、彼女はいくつかの質問とイエスノーの判断をして、また電池が切れたようにベッドに横たわった
「水、入りますか?」とベッドの端に腰掛けて彼女の前髪を払うと、彼女は首を左右に振った。「何かしてほしいことは?」と聞くと、何かを言いかけて、言葉を飲み込み、窓を開けてほしいというので、彼女の部屋の窓を開け放つと、強い風と舞い上がる桜の花びらが部屋の中に入ってきた
「……桜、ですか?」聞くと彼女は柔らかく笑った。気づかなかった。窓の外の彼女の家の庭には、大きな桜の木が植えてあったのは知っていたが、もうこんなに咲いているのか。
驚いていると「いっしょに見られて良かった」と毛布を引っ掛けた彼女が隣に立った。
それはどういう…と聞くと、彼女は答えの代わりにまた笑って、怖いから、まだ言えませんと言うとあくびを1つした。「もう、眠っても?」と聞かれたので、後は明日で構わないと言うと、不意に手を引かれ、ベッドの中に引っ張り込まれた。
「……もう無理ですけど。」とずり落ちたメガネをあげながら言うと、彼女は苦笑して「朝までいてください」とそのまま俺の腕を掴んで寝息を立て始めた。これはそういう意味であってるのか。いないなか。「…わっかんねぇな」と言った後、俺もあくびを一つして、虫のように毛布にくるまると、先生に背中を向けた。
あれだけ、皮膚一枚も隔てるものが煩わしいくらいに触れていたのに、同じ布団に寝ていても今は何一つ触れることができないなんて、本当に馬鹿げていると俺は自分を笑った。




